第8話「ライバル核」
昼の少し手前、観測棟の搬入口に黒い車列が横付けされた。音はできるだけ小さく、しかし気配だけは隠さないやり方だった。門のロックが解除されるたび、廊下の空気が一段冷える。無風の世界に、人工の流れだけが差し込む。
「新規適合候補、到着」
端末に流れた一文を、加瀬は声にしないで読んだ。文字が目の底に沈む。白衣の襟元を整え、消毒をもう一度。顔はいつもどおり、視線だけが二ミリほど深い。
エレベーターの扉が開くと、先頭に軍警、次いで省庁の腕章をつけた男、最後に小柄な少女が現れた。黒髪を耳の下で結び、表情は動かない。歩幅は一定。足音は軽いが、止まる位置を知っている足の音だった。
「槙野澪。十五歳。別都市で適合反応を確認。今日から局所検証を行う」
腕章の男が機械のように言い、資料を差し出した。加瀬は受け取ってから、少女のほうを見る。
「澪さん。私は加瀬。この施設の責任医です」
澪は短く会釈した。まぶたが落ちる角度すら、規定に沿っているみたいだった。
「説明は聞きました。任務に従います」
声は幼さを残すのに、抑揚が少ない。読み上げ機能で出した声みたいだ。優は搬入カートを押すふりで廊下の端にいる。マスクの内側で舌打ちしそうになるのを、奥歯で止めた。
観測病室。ガラスの向こうには美凪。ノートとペンが枕元にあり、ページは昨夜のまま開かれている。今日の一行目はまだ白い。加瀬が養生シートを踏み、澪をガラスの前へ案内した。
「こちらが既適合者、美凪さん」
美凪は上体を起こし、軽く手を振った。背中の光路は今日は弱い。けれど、目ははっきりしている。
澪は一秒だけ観察し、短く言った。
「あなた、向いてない」
空気が、ほんの一瞬だけ止まった。無風の世界でさらに止まるのは、空気ではなく、目線だった。優の指がわずかに動く。ガラス越しに美凪が、肩をすくめて笑う。
「向いてないけど、わたしだから、やるんだよ」
声に棘はない。薄い布越しに差し出した毛布みたいな言い方だった。加瀬の目じりがわずかに緩む。
「二系統での並列稼働を計画しているわ」
加瀬が医者の声で続ける。
「互いに違う揺れを拾い、補い合うことで、総合出力を安定させる。ただし——」
「リソースは出力の高いほうに集約される」
先回りして澪が言った。まぶたは開いたまま。言葉だけが壁を打つ。
「そうだとしても、やる」
美凪が言う。優はガラスに寄って、ボードを手にする。文字は短く、太く。
——よく笑え。
美凪は頷き、指で「わかった」と書くように宙をなぞった。
◇
午後。検証室。澪は観測椅子に座る。固定具は最小限。彼女は「縛られる」と「動かない」の違いを知っている身体だった。胸骨の下へ仮の芯子。皮下のラインに微かな光の流れ。モニターのバーが立ち上がる。
「接続。三、二、一」
点灯。天井の環状照明が一段落とされ、部屋の光はパネルからの間接光に変わる。空気は変わらないのに、見える細部が違って見える。澪の瞳孔がわずかに収縮する。
「出力、急峻に上昇」
記録担当が読み上げる。数値は高い。あまりにも高い。短時間で、恒星炉側の仮想接続が一段階深い層に届いた。港のセンサーが、とおくで鈍く鳴った。
「精神負荷、スパイク」
心拍が荒れる。呼吸が乱れる。脳波グラフの山が、峰を揃えずに立ち上がっては倒れる。澪の手が一度だけ固定具を握り、離した。顔は動かない。目だけが動く。加瀬の眉が、記録に出せない皺をわずかに作る。
「一段階下げる。十秒保持のあと解放」
「了解」
光が一段弱まり、出力バーはそれでも高い位置を保つ。澪は唇を結び、視線は真正面。恐怖という語に分類できない熱が、そのまま冷蔵庫に押し込まれたみたいな目だった。
試験は短く、切り上げられた。ドアが閉まる直前、澪が小さく息を吐く。その吐息の端だけ、人の年齢に戻った。
通路で、優は彼女とすれ違った。軍警が二人つき、歩幅は一定。優は台車を止め、声を低くした。
「怖くないのか」
澪は立ち止まらなかった。首だけをわずかに傾ける。
「怖い」
「なら——」
「怖いから、先に終わらせたい」
足が再び動く。会話はそこで終わる。優の胸に短い鉛の板が一枚、入った。
◇
夕方。美凪の試験稼働。胸の芯子が温度を持ち、背中の星座が淡く目を覚ます。光は強くない。パネルのグラフはなだらかだ。港の風鈴が一度だけ鳴り、町内放送が短い笑い声を挟んだ。
「安定域、良好。短時間で切る」
加瀬の声も落ち着いている。美凪の呼吸は浅いが緩やか。指先の色はよくないけれど、唇の端に血色がある。終わったあと、ノートに一行が足された。
——今日の風:短いけど、確か。海:甘さ、少し強い。虫:二匹。
優はボードで「よく笑え」。美凪は「よく笑った」。やり取りは小学校の交換日記より短いが、意味は同じだった。渡す。受け取る。返す。
◇
夜。研究棟の天井は、音のない空に触れている。遠くの都市の「無音化」が縮み始めたという速報がさっき流れた。モニターの色相が、ほんの少し青に寄った。人の目が捉えられるか捉えられないかの差で、希望の側に傾く程度の変化。でも、それで十分だと、今は皆が思う。
澪の部屋にだけ、遅い灯りが残っていた。監視カメラはあるが、目が足りない時間帯。加瀬は巡回に出て、海斗は持ち場を離れられない。優は廊下のベンチで、半分眠っていた。
最初の違和感は、耳鳴りの底の輪が、突然、尖ったことだった。輪郭が鋭利になり、底から白い光がにじむ。次に、空調の吐き出す空気が、温度ではなく圧で変わる。目に見えない波が、天井のパネルを内側から押し上げた。
「過負荷反応——」
アラームは鳴らない。鳴る前に、天井が白い筋で貫かれた。霧のような光が一本、観測棟の中を縦に走る。音はほとんどないのに、耳の奥が灼ける。澪の居室のロックが自動で閉じた。安全のための封鎖。だが、今はそれが檻だ。
加瀬が駆け戻る。端末に走る指が速い。
「澪さん、コア単独暴走の兆候。自動遮断——遅延。精神負荷、カンスト」
「人工遮断、間に合わない」
誰かが言い、誰かが黙る。黙ることが唯一の冷静さになる。白光は次の瞬間、さらに細くなり、天井から床へ落ちる雨のように散った。ガラスが震え、世界の浅い呼吸が一瞬だけ止まる。
美凪はベッドから起き上がっていた。点滴のチューブを外し、大きな音を立てずに足を床に置く。看護師が止めようとするのを、手で制した。止められないのはわかっているという仕草。スリッパを履かず、裸足で。床の冷たさが骨に伝わる。
「行く」
「だめだ」
優がガラスに張り付く。声は届かない。代わりにボードに書く。
——危険。
美凪は首を振る。短く、しかしはっきりと。手のひらで胸の芯子を押さえ、背中の星座が薄く灯る。歩くたび、光がリズムを作る。自分で刻む呼吸のテンポ。ガラスの反対側で優が、喉の奥を焦がしながら彼女の名前を呼ぶ。呼べば、戻る。戻るために、呼ぶ。
澪の部屋の前。ロックのランプが赤い。加瀬が試験運用中の双方向観測回線を切り替える。視界がガラスに投影され、澪の胸の上下が乱れているのが見える。心電の波形は鋸の歯のように鋭い。瞳孔は開き、唇は乾いているのに汗は出ない。体は装置を優先する段に入った。止めるには、外から揺れを合わせ直す必要がある。
「開けて」
美凪が言う。加瀬は首を振る。
「開けられない。今は、ガラス越しで」
「じゃあ、ここで」
言いながら、美凪はガラスに掌を当てる。掌の下で、芯子が小さく点滅する。ガラスの向こうに、澪の白い指が見える。震えが大きい。自分で自分を掴む力を、別のものに貸してしまっている手。
「澪」
声は届かない。だが、名前は形を持って生まれる。ガラスに当たって、振動に変わる。美凪は息を整える。浅く、ゆっくり。背中の星座の点が、順番に点き、消える。
「一緒に、息しよう」
口の形で言い、視線で数える。吸う。吐く。吸う。吐く。単純なテンポ。子どもでもできるテンポ。世界でも、できるはずのテンポ。美凪の胸と澪の胸が、最初はバラバラに動き、すぐに、わずかに、たまに、重なる。重なった瞬間、白光が針の先ほど細くなる。
「もういちど」
優はガラスのこちらで同じテンポを刻む。吸う。吐く。浅い世界で、できるだけ揃える。名前を呼ぶ準備を喉の手前に置き、呼ばずに待つ。呼びたいときに呼ぶために、今は数える。
「いち、に」
加瀬も数える。医者の声で。数字は誰にでも公平だ。公平であるように、彼女は心の中のメトロノームを最小の音量で鳴らす。
澪の心拍の山が、ひとつ丸くなる。次の山の角が鈍る。呼吸が一拍、長くなる。白光はさらに細く、やがて霧の粒に戻り、天井のパネルの裏へ吸われていく。耳鳴りの尖りが緩む。部屋の空気が温度ではなく圧で戻る。装置の側の息遣いが、部屋の外に滲んでいたのが、引いていく。
「負荷、下降。心拍、安定域に接近」
記録担当の声が、紙の上に落ちる。落ちた場所から、線が一本引かれる。澪の肩が、わずかに落ちる。目の焦点が戻る。唇が湿る。自分で呑み込む力が戻ったという小さな証拠。
「澪」
美凪はもう一度、名前を口の形で言う。澪はガラスの向こうで、ほんの一瞬だけ首を傾けた。言葉にはならないが、理解の気配が通る。手の震えが止まり、指がガラスに近づく。二人の掌が、厚い透明に挟まれて重なった。掌の温度は交わらない。交わらないのに、重なった場所の空気は、確かに少し温かい。
加瀬が息を吐いた。長い一息。記録には残らないが、部屋の温度を下げる効果がある呼吸。彼女は手早く遮断プロトコルの手順を切り替え、今日のログに付箋を付ける。「臨時相互同調:有効」。付箋の色は黄色。注意。次も使えるように、目に残る色。
「終わり」
加瀬が言うと、部屋の光が通常に戻る。音は初めからなかったかのように消える。世界の浅い呼吸が、何事もなかったように続く。何事もあったのに。
澪は椅子に座ったまま、視線を落とした。まつ毛の影が頬に落ちる。さっきより人の年齢に近い。彼女は自分の膝の上に視線を置き、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「槙野澪」
加瀬が静かに呼ぶ。彼女は目を上げる。
「あなたは任務に忠実であるだけでなく、生きることにも忠実でいてください」
澪は返事をしなかった。返事の代わりに、ガラスの向こうの美凪を一度見た。その一秒の長さは、昼間の廊下で優と交わした会話よりも長かった。
◇
夜が深くなる。観測棟の外は、無風の夜。港の灯りはまばらで、風鈴は鳴らない。鳴らない代わりに、どこかの家の窓が少しだけ開き、冷えた空気が部屋の中に入る。人のため息がひとつ、外へ出る。
美凪のベッドサイド。ノートのページに、今日の最後の行。
——夜:白い光、細くなって消えた。
——呼吸:二人で合わせた。
——笑い:あとで、少し。
——名前:二つ、呼んだ。
余白に、小さく書き足す。
——向いてないけど、やる。向いてる人も、やる。二人で。
ボード越しに優が「よく笑え」と書く。美凪は「よく生きろ」と返す。言い切るには軽い言葉だが、今は重さが足りないほうがちょうどいい。重さはあとから勝手に乗ってくる。今は、薄い紙のやり取りがうれしい。
廊下の向こう、澪の部屋の灯りが落ちる直前、彼女はベッドの上で仰向けになり、天井のどこかを見ていた。目だけが、無風の空に浮かぶ目になる。恐怖はなくならない。なくならないから、先に終わらせたい。けれど、終わらせる先に、人がいるなら——そこへ歩く速度は、少しだけ遅くしてもいいと、ほんの少しだけ思う。
加瀬は個室に戻り、引き出しの封筒に触れた。開けない。触れるだけ。端末のモニターで、広域の色調を確認する。灰に混じった青は、肉眼でやっと捉えられる程度にまで濃くなっていた。彼女は記録に一行、私見を混ぜる。
——良い兆候。
そして、もう一行。
——続ける。短く、確かに。
◇
明け方、世界の端で、ほんの短い風が鳴った。誰も気づかないくらいの音量。けれど、風鈴は一度だけ、律儀に答えた。
優はベンチで目を開け、喉の手前で名前を温めたまま、もう一度目を閉じた。呼べば戻る。戻る場所が増えた。二つ。増えたぶんだけ、息を配る。浅い世界で、分け合う呼吸のやり方を、今夜もまた、覚えた。
ガラスの向こうで、美凪が眠っている。掌は胸の上。指輪は枕元のノートの脇に置かれ、薄い石が夜の残り光を拾っている。澪の部屋の監視ランプは沈み、心拍は規定の範囲に収まっている。
世界はまだ浅い。けれど、浅いままでも、二人分なら届く場所がある。
二系統の呼吸は、競い合うためのものではなく、補い合うためのものだ。
今日、それが証明された。証明したのは、規定ではなく、名前と息だった。
最初の白光は消え、天井には細い筋が一つ、残像のように残っている。見上げるたび、その線は二人の胸の上下と同じテンポで、目の錯覚みたいに揺れて見えた。
朝になったら、ノートに書く。
——今日の風。
——今日の息。
——今日の二人。
ページはまだ、いくらでも残っている。




