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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第7話「交換日記・世界の呼吸」

 午前の観測が終わったあと、看護師がベッドサイドに置いたのは新品のノートだった。白い表紙。角はまだ固い。帯には研究棟の備品シールが貼られ、使用目的の欄に鉛筆で「記録」とだけ書かれている。

 美凪はそれを膝にのせ、ペンを握った。

 ページを開く。最初の白に息が詰まる。何を書っても、最初の一行は少しだけ怖い。

 ——世界の呼吸記録。

 そう題をつけた。自分の名前は書かない。日付は、書いてから考える。

 ペン先が紙の目に引っかかり、文字が小さく震える。震えはたぶん手のせいではない。世界のほうが細く震えて、それが掌の骨を通って、ペンに伝わる。

 今日の風:弱い。

 海:少し甘い匂い。

 虫:一匹。

 ベッドと壁の間から、ほんとうに小さなアリが這い出てきて、すぐに見えなくなった。看護師に言えばすぐに駆除されるだろうけれど、今日は黙っておく。害がないなら、今日は歓迎したい。

 「始めたのね」

 部屋の隅で加瀬が言った。白衣の袖は捲ってあり、手首に薄い痕がある。昔の注射跡か、今日の消毒跡か、そのどちらでもないのか。

 「ルールにありませんよね、こういうの」

 「ルールに書く手間が惜しいとき、医者は黙認という方法を使う」

 「じゃあ、黙認で」

 「やり方をひとつ」

 加瀬はベッドサイドに立ち、ノートの余白を指で叩いた。

 「匂いは主観だけど、主観の繰り返しは客観に近づく。『少し甘い』はいい書き方。できれば、時間帯も」

 「朝、九時。甘い。昼、十ニ時。薄い。夕方、また甘い」

 「よくできました」

 加瀬は微笑と記録のちょうど中間の顔をした。ノートを覗き込み、さらさらと丸い字で小さく書き足す。

 甘味=硫黄の低下。良い兆候。

 字の癖が、規定文書のそれとは違った。端正だが、ところどころ跳ねる。躊躇いの形に似ている。加瀬にも躊躇いが残っている。残っているから、ここに立てる。

 「続けて。あなたが感じた世界を、ここに置いて」

 「はい」

 「夕方にもう一度。夜にはページを閉じて、眠る」

 「眠れないときは?」

 「寝たふりをする。寝たふりをする人の体は、少しだけ回復する」

 ノートの角を撫でると、紙が鳴った。薄い音。

 「今日の音:薄い」と書き足す。書いた瞬間、ほんの少しだけ、音が濃くなる気がした。

     ◆

 優は搬入口の前で、無駄に大きなマスクをつけた。小型の保冷箱を抱えて、台車を押す。胸には「搬入」の簡易バッジ。海斗に借りてきた。借りるとき、海斗は何も言わなかった。ただ、バッジを渡しながら、目だけで「気をつけろ」と言った。

 搬入路は、観測棟の正面玄関と違って人が少ない。アルミの扉を抜けると、薄暗い廊下に消毒液の匂いが漂っている。壁に沿って箱が積まれ、床には黄色いテープ。「この先、通行許可者のみ」。許可は持っている。借りものだが、それで今は十分だ。

 「どこに運ぶ」

 詰め所の女性が顔を上げた。

 「B-室、適合体の食事です」

 「記録は」

 「こちらに」

 優は事前に加瀬からもらっていた紙を差し出した。見た目はただの栄養補助食だが、中身は唐揚げと卵焼きと、昨夜の残りのきんぴら。規定に沿って栄養素は揃えてある。表記も、そうなっている。

 女性はうなずき、扉を解錠した。

 「時間は五分です」

 「十分で終わらせます」

 「……五分」

 「ああ、五分」

 秒針の音のように早い足取りで、保護ガラスの前に立つ。ガラスの向こうに、美凪がいた。腕に少しだけ点滴。胸の芯子は包帯の下。背中の光路は今日は見えない。顔色は、昨日よりいくらか良い。

 優は箱を小窓に押し込み、入れ替わりに小さなホワイトボードを受け取った。ガラス越しのボードは、会話のための窓だ。声は届かない。届くときもある。けれど、届かない前提で準備をするのが、ここでの礼儀だ。

 「きょうは」

 優が書いて見せる。

 美凪は小さく頷き、ペンを取った。

 「よく笑え」

 ふたりの字が並ぶと、なぜかそれだけで笑えてしまう。優は顔をしかめて見せ、次の文字を書く。

 「宿題は?」

 「免除」

 「ズル」

 「医者の権限」

 加瀬が後ろで眉を上げた。否定ではない。軽い牽制。

 美凪は続けて、ボードに小さく絵を描いた。丸いフライパンと、ひっくり返る生地。

 「きのう、おいしかった」

 「きょうも」

 「きょうは栄養表記」

 「ばれた」

 「ばれてないふり」

 言葉は短く、線は少ない。それでも、この時間の隙間に入るのは、それくらいがちょうどいい。たくさん話すと、あとで苦しくなる。残しておく言葉があったほうが、夜に眠れる。

 優はもう一枚のボードに、ノートの紙片を貼った。裏にテープ。

 世界の呼吸記録。

 ——今日の風:弱い。海:少し甘い匂い。虫:一匹。

 「いい題名」

 美凪が口の形で言う。声は出さない。

 優は頷き、ボードに書く。

 「明日も」。

 「明日も」。

 扉の外で、持ち場交代の合図が鳴った。ほんの短い電子音。五分が終わる。優はボードを戻し、保温ポットに入れたスープを差し出した。小窓の向こうで看護師が受け取り、ストローの口を整える。

 「飲みすぎないで」

 「飲む」

 文字のやり取りは、静かな手話みたいだった。

 最後に、優はひと言だけ書く。

 ——よく笑え。

 美凪はボードを胸に当て、目を細くしてうなずいた。

     ◆

 夜。

 観測棟の最上階の個室は、静かすぎるほど静かだった。外の無風と同じ静けさなのに、ここだけは違う種類の空白がある。書棚の本が本棚の顔をして並び、机の上の端末だけがひっそり明滅していた。

 加瀬は椅子に腰をかけ、引き出しから封筒を取り出す。飴の包み紙ほどの薄い封筒。中から、古い写真を一枚抜いた。

 写真には、小さな女の子と、若い女の人が写っている。

 女の子の髪をほどいているのが若い女の人で、顔は加瀬に似ていた。

 ——あなたを救えなかったから、せめてこの子を。

 声に出すと、部屋の空気がわずかに動いた気がした。

 写真の女の子は、風鈴を手に持って笑っていた。すこしだけ歯が抜けていて、笑いが不揃いだ。風鈴の舌が写真の中で止まっている。

 「良い兆候」

 ノートに走り書きした自分の字が、ふいに遠くに思えた。

 良い兆候。良い兆候。

 言い直すたび、重さが変わる。医者に必要なのは重さの調整だ。圧をかけすぎると折れて、軽すぎると浮いてしまう。

 ——あなたを救えなかった。

 焦点が写真の表面を過ぎて、向こう側の過去に落ちる。

 扉の外で、交代の靴音。規定のリズム。人の足が規定に合わせて動くとき、規定は少しだけ人間に寄ってくる。

 端末が短く鳴いた。夜間観測の自動報告。画面に広域のマップが開く。無風域の濃い灰色が、ほんのわずかに薄くなる。色相が、気づくか気づかないか、の差で青に寄る。

 各地の小さなセンサーが伝える値が、砂粒みたいに画面の上で瞬いている。

 「甘味=硫黄の低下。良い兆候」

 自分で書いた余白のメモが、今夜は自分への指示に見えた。

 加瀬は写真を封筒に戻し、引き出しにしまった。引き出しはしっかり閉まる。閉まるから、次も開けられる。開けられるから、閉めておける。

 深呼吸。浅い世界で、できるだけ深く。

 彼女は立ち上がり、廊下に出た。夜勤の看護師に小さく会釈し、向かいの観測室の灯りを確かめる。モニターの色は、ほんのすこし青に傾いていた。

 「続ける。短く。確かに」

 ひとり言。誰にでもなく、今夜に向けて。

     ◆

 夜間の同調は、早く終わった。

 「短く。確かに」は、彼女の今の合言葉だった。

 終わったあと、美凪はノートの続きを書く。

 夜:風鈴、なし。

 気温:少し低い。

 体温:三五度五分。指先、まだ冷たい。

 海:甘い、薄い。

 音:耳鳴りの底に輪がある。

 呼吸:浅いけど、昨日よりゆっくり。

 余白に、加瀬のペンが入る。

 輪=同調時の心拍変動が作る“ゆらぎ”。続けていい。

 続けていい。

 ——続けていいという言葉は、危険にも、救いにもなる。

 自分で狭い踏み石を選びながら、二人で渡っている。

 ノートに指を置くと、紙の温度が手のひらに移った。手の熱はまだ低いが、紙は中立の温度を保っている。真ん中。真ん中は、ありがたい。

 ガラスの向こうで、優が入ってくる。搬入員のベストに、今度は少し無理のあるメガネ。レンズは伊達だが、欺瞞のひとつとしては十分だ。

 小窓から入ったのは、温かい湯と、ほぐした白身魚を使ったスープ。匂いは薄いのに、確かに魚だ。

 「魚、戻ってきた?」

 ボードに書くと、優は頷き、短く書いた。

 「港に。小さいの。二匹」

 「名前は?」

「一匹は海斗。もう一匹は加瀬」

 「本人に怒られる」

 「怒らせる」

 「怒られたい」

 短い待合室で笑う。

 加瀬は背中を向け、モニターを見ているふりをしながら、口元にだけ微笑を乗せた。彼女の顔がやわらぐと、観測室の空気が少し軽くなる。不思議だ。本人は気づいていない。

 「きょうは」

 「よく笑え」

 「宿題は?」

 「免除」

 同じやり取りを繰り返す。繰り返すことは、いまの世界で珍しい。規定は増え、広報は変わり、地図の色が日に日に違う。変わらないものをひとつだけ持ち込むのは、奢りではなく、準備だ。

 優はポケットから小さなペンを出し、ノートの端に何かを書いた。

 ——パンケーキ、二重丸。

 ——雨の味、よかった。

 ——指輪、似合ってた。

 文字の最後だけ、妙にていねいだ。

 美凪は笑って、横に小さく描く。指輪の絵。

 「練習、つづける」

 「試験はいつ」

 「未定」

 「延長希望」

 「認める」

 廊下の遠いほうで、足音。規定の巡回。優はボードを戻し、メガネを押し上げるパントマイムをして、目だけで「また」と言った。

 「また」

 声に出さずに返す。

 保護ガラスが、ふたりの指の形を正確にもどす。向こう側の人と、こちら側の人。境界の線は太いが、指の形は似ていた。似ていることだけは、誰にも邪魔できない。

     ◆

 深夜。

 非常灯だけになった廊下を、海斗が歩く。足音が規定のテンポを保ちながら、ほんの少しだけ揺れている。揺れているのは、疲れているからか、考えごとをしているからか。

 観測室の前で立ち止まり、中に目をやる。

 ガラス越しに、眠る美凪。椅子に座ったままうとうとする優。壁にもたれて、端末に何かを書いている加瀬。

 海斗は額の汗を拭き、メモ帳を開いた。

 ——巡回、異常なし。

 ——港の匂い、少し甘い。

 ——風鈴、きのうより高い音。

 書いて、閉じる。

 彼の字は、乱暴だが、読みやすい。

 写真なんて持ち歩かない男だが、メモは持ち歩く。言葉は落ちる。落ちたところに残る。残ったものが、明日を動かすことがあると、彼は知っている。

 「お帰り」

 小声で加瀬が言った。海斗は肩をすくめる。

 「まだ帰ってない」

 「帰る場所の話をしたの」

 「帰るところは、この廊下だ」

 「それ、わたしの台詞」

 加瀬の目が、ほんの一瞬だけ笑った。

 海斗は短く息を吐き、観測室のモニターを覗く。

 色が、わずかに、青へ傾いている。

 「縮んでる」

 「無風域。少しずつ」

 「戻るのか」

 「戻りたいと思ってる。世界のほうが」

 言い方に、医者の科学と、人間の祈りが同居していた。

 「護送の予定は」

 「明朝の時点で再評価。短時間外出は保留」

 「海は」

 「近い日は避ける」

 「了解」

 仕事の声で返し、海斗は敬礼もせずに踵を返した。廊下を離れる足音は、来たときより、すこしだけ軽い。

     ◆

 夜明け前。

 ノートの最後の行。

 ——明るくなる前の匂い:しょっぱくない。

 ——風:遠くで、鳴った。

 ——わたし:起きた。もう一回寝る。

 ページを閉じる。角が指にあたって、骨の記憶を確かめるみたいな小さな痛みが走った。痛みは生きてる証と誰かが言う。好きな言い方じゃないけれど、今夜に限っては、許す。

 ガラスの向こうで、優が目を開けた。こちらを見る。

 「おはよう」

 口の形だけでそう言う。

 美凪は笑い、同じ口の形で返す。

 「おはよう」

 観測室のモニターに、広域の色がまたわずかに揺れた。灰に青の粉を少し混ぜたような色。混ぜたのに、ほんのすこしだけ澄んで見える色。

 良い兆候、と加瀬は記録した。

 良い兆候、と読み上げず、心の中で繰り返した。

 優がボードを持つ。

 「きょうは」

 美凪が受け取り、書く。

 「よく笑え」

 繰り返しは、新しい。

 同じ言葉のはずなのに、ひらがなの形がすこし違う。筆圧も、間隔も、違う。違うから、続けていける。

 ノートの横に、指輪をそっと置く。ガチャの石が薄明かりを拾って、小さく光る。

 朝はまだ借りものだ。けれど、昨夜より、返却までの時間が少しだけ延びている。

 延びた分だけ、書ける行が増える。

 書いた行は、残る。

 ——今日の風:弱いけど、確か。

 ——海:甘い匂い。

——虫:二匹。

 ——笑い:三回。

 美凪は最後に、余白へ小さく書き足した。

 ——名前を呼ばれた回数:たくさん。

 呼ばれたぶんだけ、戻ってこられた。

 戻るたび、世界の呼吸が少しだけ整う。

 誰にも証明はできないけれど、証拠ならここに残していける。ノートに、文字で。

 ページを閉じる音が、夜の終わりを告げた。

 モニターの青が、ほんのわずかに濃くなる。

 世界はまだ浅い。息はまだ浅い。

 だけど、浅いままでも、続けられる呼吸がある。

 そのやり方を、今夜、覚えた。

 交換日記みたいに、交互に書いて、交互に読む。

 世界とわたしたちの間で。

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