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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第6話「借りた朝」

 朝は、借りものみたいに静かだった。

 空の灰は薄く、雲の端に白い縁取りが見える。海はまだ眠っているのか、波はほとんど動かない。けれど、砂浜に立つと、鼻の奥にほんの少しだけ塩が来た。昨日の雨のあとに残った、洗い立てのタオルの匂いに似ている。世界が洗面台で顔をぬらして、タオルでそっと拭いたばかり、みたいな気配。


 優は砂の上に小さなガスコンロを置いた。火は弱い。つまみを回しても、赤い舌は細く震えるばかりだ。それでも鍋の底は温まる。フライパンに油を薄く広げ、ボウルの中の生地をおたま一杯、どん、と落とした。じゅう、という音が、風のない朝に広がって、すぐに周りの砂に吸われていく。


 「いい匂い」


 美凪がシートの上で膝を抱えて笑った。ピクニックシートは家から借りてきた古いものだ。角の一つが破けて、テープで補修してある。シートの端には、壊れた望遠鏡が横たわっている。子どものころ、夏の自由研究で星を見ようとして、ピント合わせを間違えて諦めたあの望遠鏡。今は空に星はないけれど、筒を覗くと、砂の粒が大きく見える。


 「パンケーキ、砂に負けないかな」


 「負けさせない」


 優はフライ返しで生地の端を持ち上げた。裏はきつね色。真ん中に小さな泡の跡。卵の甘い匂いが、弱い火にも負けず立ち上がる。生地をひっくり返すと、空気が小さく動いた。砂の表面が一枚薄くめくれたみたいだった。


 「ガス、まだ出るんだね」


 「細いけどな。昨日、加瀬さんが配管を見てくれた。圧がすぐ落ちるって」


 「落ちたら、そっこーで食べる」


 「落ちる前に焼き切る」


 ふたりで笑う。笑いは、小さな火みたいだ。空気が動かなくても、周りを暖める力だけはある。優は焼けたパンケーキを皿に移し、もう一枚の生地を落とす。バターは贅沢だから、今日はなし。代わりに砂糖を少し。指先でつまんで、小さく雪を降らせる。砂糖の結晶が光って、海の色を少しだけ明るく見せた。


 「ほら」


 「いただきます」


 美凪が両手で皿を受け取る。頬に朝の色が差す。ひと口食べると、舌に卵の甘さが広がって、目尻がふわっと下がった。


 「黄身、まだ甘い」


 「卵がいいやつなんだよ」


 「優が焼いたからだよ」


 「そういう嘘はうまいな」


 「嘘じゃない。ほんと」


 美凪はもう一口、口に入れて、噛みしめた。背中の薄い光路は、今日はほとんど見えない。芯子の灯は胸の奥に隠れている。でも、隠れていても、そこにあることはわかる。指をつなぐと、微かな振動が伝わってきた。昨日より弱い。弱いけれど、そばにある。


 砂浜の端に、小さなカニが顔を出した。目だけがぴょこんと上を向いて、警戒している。穴の周りの砂が、内側から少しずつ盛り上がった。潮の臭いが、ほんの少しだけ強くなる。恒星炉の弱い作動が、どこかで始まったのだろう。風はないのに、海の中の水が、すこしだけ体勢を変えたみたいだった。


 「戻ってきてる」


 「うん」


 「音も」


 耳鳴りの底に、遠い洗濯機みたいな回転が混じる。回転の中心までは分からない。ただ、世界のどこかで、何かがまた動き始めた。


 「見てこれ」


 美凪がポケットから、小さなカプセルを取り出した。ガチャガチャで出てくる景品の指輪。透明な石に銀色の台座。金属ではなくプラスチックの軽さなのに、朝日を受けて、不思議と本物の顔をする。


 「結婚指輪の練習」


 笑って、左手の薬指にはめた。すこし大きい。指の中でくるくる回る。彼女はバンドを軽く押して、ちょうどいい位置に落ち着かせる。


 「似合う?」


 「似合う」


 「似合うって、すぐ言うのね」


 「本音だ」


 「じゃあ、練習は成功」


 彼女は指輪を見つめ、海のほうにかざした。光が石の表面で跳ねて、砂に細かい斑点をつくる。斑点は風がないからすぐには消えない。指輪が降らす光の地図。どこにも行けない世界の上に、行くはずだった道が小さく浮かぶ。


 壊れた望遠鏡を持ち上げ、筒を海へ向ける。見えるのは止まった波と、動かない水平線だけだ。それでも覗くと、遠くまで来た気になれる。美凪は覗いたまま、曇ったレンズに息を吹きかけた。曇りが輪になって広がり、すぐに消える。


 「今日、借りたんだよね」


 「朝を?」


 「うん。借りた朝。返さなきゃいけないけど、返す前に、ちゃんと使いたい」


 「じゃあ、全部使おう」


 「全部」


 シートの上に、ふたり分の影がそっと重なる。優は二枚目のパンケーキを皿に分け、端っこだけちぎって口に入れた。焼きむらのある端は、すこしだけ香ばしい。


 「あとで、砂に文字書こう」


 「何て」


 「内緒」


 「またそういう」


 「書いたら読むから」


 「読む前に写真撮る」


 「カメラ、電池ある?」


 「二目盛り」


 「節約して撮ろう」


 そんなふうに計画を作って、できることを並べていくと、時間が増える気がした。朝はたしかに借りものだけど、使い方次第では延びる。砂時計の上のほうが少し膨らんで、粒がゆっくり落ちるみたいに。


 海の色が、少し濃くなった。沖のほうで、冬の雲みたいな白い塊がゆっくり動いている。あれは水蒸気ではなく、攪拌で浮き上がった海の層だとニュースは言っていた。真偽はわからない。けれど、見えているものは本物だ。


 遠くの空に、黒い点がいくつも現れた。点はゆっくり広がって、形を持つ。四角い影が砂に落ちる。風がないから、影はまっすぐだ。ドローンだった。機体の腹に管理局の印。プロペラの音が近づく。音は小さいのに、耳の奥にまっすぐ刺さる。


 「来た」


 美凪が、ぱっと指輪を握った。ガチャのプラスチックがきゅっと鳴る。優はコンロのつまみを回し、火を消した。フライパンの余熱でふちがまだじわじわ焼けている。砂糖はもう取り込まれて、溶けかけた雪だけが皿の端に残った。


 腰の小型端末が震えた。加瀬の声が、乾いたノイズに混じって届く。


 「出力が安定しません。戻って。短時間で終わらせる予定が、想定より負荷が大きい。あなたが近くにいて、同調を取り直す必要がある」


 「今、海です」


 優は短く返した。足元の砂が、少しだけ沈む。逃げるなら、いまが最後のタイミングの気がした。


 「戻るのは今」


 加瀬は感情を混ぜない声で言った。文の端にだけ、焦りの糸が見えた。切らないように、彼女は自分の呼吸をきちんと数えているのだろう。


 ドローンが高度を下げる。視線の高さに来た一機が、レンズを光らせた。光は嫌味な白さで、朝のやわらかい色を台無しにする。


 「行こう」


 優はシートを片手で畳み、望遠鏡を筒ごと抱えた。もう片方の手で美凪の手を引く。砂の上に、ふたりの足跡が交互に刻まれる。消えない足跡。足跡の上にドローンの影が重なる。


 「捕捉。捕捉」


 機械の声が何度か繰り返す。海沿いの階段まで走る。階段は、途中でコンクリートが崩れて、段差がばらばらだ。手すりに塩が固まって白くなっている。息が上がる。上がって当たり前だ。世界の空気は浅い。


 背後で、サイレンが短く鳴った。短いのがいやらしい。長いサイレンはまだ心の準備ができる。短いのは、怒られた子どもみたいで、余計に足がもつれる。


 踊り場に差し掛かったとき、上から誰かが降りてきた。黒い制服。肩の白い紋章。海斗だった。バイザーをあげ、額に汗はない。頬の筋肉が硬いのに、目の芯は今にも崩れそうな柔らかさを持っていた。


 「止まれ、優」


 「止まらない」


 「任務だ」


 「俺は今日、恋人の付き添いだ」


 「規定は——」


 言い終える前に、踊り場の縁で海斗の足が滑った。水たまりが薄く張っていたのだ。靴裏のゴムが予想した摩擦を得られない。体が、重力に引かれる。黒い影が、階段の斜面に沿って崩れた。手すりに指先が、間に合わなかった。


 優はとっさに望遠鏡を手放し、身を投げるように腕を伸ばした。指が海斗の手首に触れる。汗と雨で滑る。握った感触はあるのに、細い糸を掴んだみたいで心許ない。足場は悪い。ひざが段の角にあたって痛い。痛いことは後回しでいい。


 「離せ、任務だ」


 海斗が低く唸った。唸り声は、怒りというより、自分への命令だ。任務を優先しろ。落ちたら、責任は自分だ。だから離せ。誰かから言われた言葉を、彼は自分の口で繰り返す。


 優は叫んだ。


 「お前もここで育っただろ!」


 声が踊り場のコンクリートにぶつかって、戻ってきた。中学の帰り道の声に似ていた。部活のあと、バスに乗り遅れそうになって、互いに笑いながら全力で走ったときの声。ここは知らない場所じゃない。ここで飴を舐めて、ここで怒られて、ここで告白が失敗して、ここで待っていた。ここで育った。


 海斗の目が、ほんの一瞬、規定からはずれた。あの目。優は何度も見た。ペナルティが来ると知っていて、それでも右へかわす前の、わずかな間。彼の指が微妙に内側へ曲がる。手首の角度が変わる。握り返すための角度。優は全力で引いた。肩に衝撃が走る。筋肉が悲鳴をあげる。次の瞬間、海斗の体が階段に戻った。ひじが段にぶつかって鈍い音がした。何度か体重を移し替えて、彼はようやく姿勢を取り戻した。


 「……助かった」


 彼は短く言った。礼を言ったわけではない。ただ事実を述べただけ。けれど、その事実は重かった。任務ではなく、息がつながった事実。


 「行け」


 海斗が顔をしかめたまま言う。


 「今のは見なかったことにする」


 「またそれか」


 「まただ」


 「増援、来る?」


 「来る。すぐ来る」


 階段の上から人影が動いた。黒いヘルメットが三つ。その背後にドローンの影。サイレンは鳴らない。鳴らないのに、靴音がすべてを説明する。


 美凪が、優の袖を引いた。指は冷たいが、震えはもうない。震えの代わりに、はっきりした意思がある。


 「出頭する」


 「まだ走れる」


「走れるけど、走った先がなくなるのはいやだ」



 「先は、作れる」


 「作るために、戻る」


 言葉は短いのに、重かった。短いから、余計に真ん中が強い。優は、口の中で何かを探して、結局、頷いた。頷きながら、胸の奥が縮む。縮んだまま広がらない。呼吸は浅い。世界のせいだけじゃない。


 美凪は指輪を一度外して、光にかざしてから、また薬指にはめた。陽は弱いが、石はきらめいた。ガチャのプラスチックなのに、本物みたいに見えるから不思議だ。


 「借りた朝、ありがとう」


 彼女は優を見た。目は真っ直ぐで、負けずに笑っていた。


 「大事にする」


 「俺も大事にする」


 「返すけど、大事にする。変な日本語だけど、そういうこと」


 「わかる」


 「パンケーキ、今日いちばんおいしかった」


 「明日はもっと上手く焼く」


 「じゃあ、明日も借りよう」


 「借りよう」


 彼女は振り返らないで階段を上がった。スニーカーの底が濡れて、滑りやすいのを知っている歩き方だ。足を置く位置に無駄がない。肩をまっすぐにして、顎を少し上げる。自分の高さを思い出している背中。


 増援の先頭の一人が、胸元の機器に手を伸ばした。海斗が短く合図を出す。細い合図。音ではない。肩の傾き。目の動き。ここで怒鳴ったら、全部が壊れるという知性の合図。増援はわずかに速度を落とした。


 階段の途中で、美凪がほんの少しだけ右手を上げた。手の甲に朝の光が当たり、指輪がまた小さく光った。彼女は誰にも手を振らず、誰にも見せず、そのまま手を下ろした。指輪の位置は、もう指の中で迷わない。


 優はシートを肩にかけ、望遠鏡を拾い上げた。筒の先には砂が少し詰まっている。ふう、と吹く。砂は出ない。出ないから、筒を逆さにして軽く叩く。ぽろぽろと小さな粒が落ちる。落ちる音が、朝の中に吸い込まれていく。


 「優」


 海斗が言った。声は低い。低い声には、同じ高さの返事が合う。


 「何」


 「さっきのことは忘れない」


 「忘れなくていい」


 「忘れたほうがいいときもある」


 「でも、今は覚えてろ」


 「覚えてる」


 海斗は視線を逸らした。視線の先には、港のほうの空が見える。薄い煙の線が、水面の上に漂っている。恒星炉の小出力がまた上がったのだろう。海の匂いが一度強くなって、すぐに薄れた。


 「お前、明日も借りるつもりか」


 「借りたい」


「俺は明日の当直だ」



 「じゃあ、見逃せ」


 海斗は短く笑った。笑いは、規定の外に落ちる癖がある。拾う前に、彼はヘルメットを被り直した。仕事の顔に戻る。戻りながらも、ほんの一瞬、目の芯は立ち止まったままだ。


 「行け」


 言われなくても、優は動いた。砂浜へ戻る。足跡は、さっきのまま残っていた。ドローンの影がそれを塗りつぶす前に、ひとつだけ振り返る。階段の上、美凪の背中はもう見えない。代わりに、薄い陽の光が段差の縁に沿って線を引いている。線は頼りないが、境界を示すには十分だ。


 シートをもう一度広げ、壊れた望遠鏡をそっと置く。フライパンはまだ少し温かい。端に残っていた砂糖が固まって、透明な薄い板になっていた。指でつまんで舐めると、甘い。朝の甘さ。借りた甘さ。


 砂に指で文字を書いた。

 ——また明日。

 風がないから、文字はそのまま残る。記録みたいに残る。残すことに意味があるかどうかは、あとで決めればいい。今は、とにかく残す。


 海の端で、小さな波がひとつだけ、遅れて打った。

 音は小さかった。

 けれど、その小ささが、やけに遠くまで届いた。


 観測棟の方角から、短い合図のようなアラームが一度鳴った。すぐに止む。加瀬の判断だとわかった。必要以上に人を焦らせない。焦らせて誤差を増やさない。そういう人のやり方。優は端末を取り出し、「戻る」とだけ送った。返事は「うん」の一文字。短いけれど、そこに全部が入っている。


 砂浜を離れるとき、カニの穴がまた少し盛り上がった。中から、さっきの目だけのガーディアンが顔を出して、世界を一瞬だけ覗いた。安全確認をするみたいに少しだけ首を回し、また引っ込む。穴の縁が、乾いた砂と湿った砂で二色に分かれている。見ただけで、いまこの小さな範囲だけ水の気配があるのだと、わかった。


 町へ戻る坂道で、パンケーキの匂いがまだ残っていた。髪にも、指にも、肩のシートにも。匂いは、簡単には剥がれない。だから今日の朝は、しばらく消えない。夜になっても、きっとどこかに甘さが残る。彼女が戻ってくる廊下の角で、その甘さをもう一度思い出せるように。


 ゲートの前で足を止めると、新しい紙がまた増えていた。規定は増える。増えるたびに、誰かの手の跡が増える。文字は揃っていない。行間はまちまち。人が書いたものは、いつだって少し不揃いだ。その不揃いさが、ぜんぶを許すときがある。


 ふと、頬を何かが撫でた。風ではなかった。風に似たもの。世界の息の薄片。くすぐったいだけの、小さな気配。優は思わず笑った。笑えたから、今日は大丈夫だと思えた。思えただけで、少し強くなれた。


 借りた朝は、返す。

 だけど、返すとき、少し形が変わって戻る。

 パンケーキの甘さが指に残り、指輪の光が目に残り、助けた手の重みが肩に残る。

 それらはどれも、返し終えても残る借りものだ。

 残ったものを、明日へ持っていく。持っていって、また借りる。


 観測棟のドアが開く。冷たい空気が迎える。

 優は深呼吸した。浅い世界で、できるだけ深く。

 名前を呼ぶ準備をする。何度でも呼べるように、喉を軽く開く。


 「美凪」


 呼ばれた名前が、すぐ近くで静かに返った気がした。

 聞き間違いでもいい。聞き間違いでさえ、今日はまっすぐに支えになる。


 借りた朝は、たしかに、ここにあった。

 そして、彼女の歩幅で返しにいく。

 返しながら、もう一度、借りる。

 明日のぶんまで。

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