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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第5話「雨の味」

 昼前、空の色がいつもと違っていた。

 灰が重なったままなのに、どこか薄く透けている。窓硝子に映る町は、洗い流される準備をしているみたいに張りつめて、そして、降り出した。


 最初の一滴は、学校の正門前に落ちた。鉄の門扉がじゅっと鳴る。酸の匂いは薄い。鼻の奥が痛まない。二滴目、三滴目。路面に丸い斑点が広がり、いつものように黒く焼け焦げない。優は思わず掌を差し出して、落ちてきた水を受けた。


 「しょっぱく、ない」


 言ったのは美凪だった。アーケードの端、壊れたたこ焼き屋の赤い提灯の下で、彼女は自分の掌を見つめる。薄い水膜が照明を受けて、ほんの少しだけ揺れる。舌先に触れたときの顔が、子どものそれに戻っていた。


 「しょっぱくない。苦くもない。なんか……水だ」


 その言い方に、優は笑った。ふつうに帰ってきたものを、どう表現していいのかわからずに、結局いちばんふつうの言葉に着地する。ふつうがいちばん難しい。


 商店街の軒先には、濡れた段ボールの匂いがしみ込んでいる。シャッターの錆に筋ができ、そこを雨が静かに撫でていく。音は小さいのに、遠くまで届いた。アーケードの天井を打つ音が、町全体の鼓動みたいに聞こえる。

 誰かが外へ出て、誰かが顔を上げ、誰かが両手を広げた。町内放送が掠れた声で「降雨。酸性指数、……低下。中性に近づきつつある」と繰り返し、最後のほうは誇らしげに笑った。


 「恒星炉、効いてるんだ」


 優が言うと、美凪は首を傾げた。


 「わたしがやった、って、言っていいのかな」


 「言っていい。お前がやった。正確に言うと、お前と装置と、加瀬さんと、たくさんの人たちがやった」


 「じゃあ……『わたしたちがやった』で」


 彼女はそう言って、小さく笑う。笑うと、胸元の包帯がわずかに持ち上がる。そこに沈む銀の芯子は見えないが、背中の薄い光路は、雨の日の蛍光ペンの線みたいに淡く光ったり消えたりしている。


 雨脚が強くなった。アーケードの隙間から差し込む雨粒が、跳ねて頬を打つ。優も掌で受ける。ぬるい。温いのに、冷たさが混じっている。夏の終わりみたいな温度。舌に触れても、金属の苦味はなかった。


 「しょっぱくない」


 今度は優が言う。

 美凪はうれしそうに頷いた。うれしさは控えめにする訓練を、ここ数日で自然に覚えた。それでも頬の色が少し戻るのは隠せない。


 「ねえ、あの風鈴、また鳴るかな」


 アーケードの向こう、古道具屋の軒先にぶら下がった風鈴は、昨日の朝、一度だけ鳴った。そのガラス玉は今、雨に濡れて透明度を増し、舌の金属が微かに震えている。

 ふっと、音が降りた。雨の粒に押されて、ひとつ。ほんの短い音。昨日よりも確かで、昨日よりも静かだった。町のどこかで、拍手が起きた。拍手は、雨に吸い込まれて広がっていった。


 「雨、好きだったのにな」


 美凪がつぶやく。


 「小学生のとき、雨の日は長靴はいてさ。水たまり、わざと踏んで。帰ったら怒られたけど」


 「俺も踏んでた。怒られた」


 「いつかまた、怒られたいね」


 「怒ってくれる人、残ってるかな」


 「いるよ」


 美凪は少しだけ強い声で言った。

 その瞬間、彼女の眉がわずかに寄った。耳の後ろを押さえる。顔色が変わる。


 「どうした」


 「……呼ばれてる」


 雨音の奥で、別のリズムが鳴り始めていた。目に見えない微弱な脈。皮膚の下でナノインクがわずかに拍動し、芯子の根本から背骨に沿って伝わる。それは言葉ではない。けれど、命令だった。研究棟に戻れ。戻れ。戻れ。


 「深いところから」


 美凪の声は震えた。震えの先が、優の指先にも伝わる。彼女の手を握ると、その震えが自分の手に移ってきて、どちらのものかわからなくなる。


 「行こう」


 と、優は言って、反対方向へ歩き出した。


 「え、逆。観測棟は」


 「いまは行かない」


 「でも、呼ばれてる」


 「だから、呼び返す」


 雨は止まない。アーケードを外れ、濡れた路面を踏む。靴の中に水が染みてきて、指が冷たくなる。優は歩調を早めて、商店街の端を抜け、港と反対側の坂を上った。


 「どこへ」


 「トンネル。中学のとき、近道で使ってたやつ」


 「懐かしい」


 懐かしい、と口にしたとたん、胸が少し軽くなった。

 トンネルの入口は、いつのまにか半分塞がれていた。工事途中のフェンスと警告テープ。雨に濡れたテープは、色を失って肌に張りつくようだ。優はフェンスの隙間を見つけ、体を横にして滑り込む。美凪も続いた。背中の包帯がフェンスに引っかからないように、優が手を添えて通した。


 中はひんやりしている。雨の音は急に遠くなった。トンネルの壁には昔の落書きが残っている。消そうとした跡がうっすらと浮き出て、上からまた新しい文字が重なっている。

 「バカ」「最高」「卒業おめでとう」。

 そして、誰かが小さな字で書いた「すきだ」。


 蛍光苔がところどころに生えて、薄い緑に光る。誰が塗ったのでもない、自然のハイライト。床は湿って滑りやすい。息を吐くと、白いものがわずかに見える。美凪は耳の後ろをまだ押さえていたが、さっきより表情が柔らいだ。


 「ここ、好きだった」


 「俺も」


 「雨の日、ここ通ると静かで。外が世界で、ここが私たちの部屋、みたいな」


 「じゃあ今日は、部屋」


 優は笑い、濡れた床に段ボールを敷いて座らせた。軒先で拾ってきたやつだ。役に立つ。

 美凪は背中を壁につけ、息を整える。震えはまだある。けれど、さっきの「戻れ」の脈は遠のいた。トンネルの厚いコンクリートが、外からの合図を鈍らせているのだろう。世界の呼び声が、ここでは少し小さい。


 「ねえ、優」


 「ん」


 「ひとつだけ、わがまま言っていい?」


 「いくらでも言え」


 「ほんとに、ひとつでいい。……普通のデート、してみたい」


 「普通の、デート」


 言葉にすると、その線が浮かび上がる。二人で映画に行って、ポップコーンを分け合って、終わったあとに感想を言い合う。商店街の安い喫茶店でナポリタンを頼んで、ケチャップで口の端を赤くして笑う。帰りがけに本屋に寄って、立ち読みして、バス停で別れる。そんなやつ。


 「宿題の話とか、先生の愚痴とか。靴擦れしたから歩くの遅い、とか。そういうので、つまずきたい」


 「つまずかせる」


 「それは違う」


 美凪はふっと笑って、また真顔になった。


 「ほんとはね、わかってる。わたし、呼ばれたら戻らなきゃいけないんだと思う。戻らなきゃ、町が困る。世界が、困る。でも、ひとつだけ」


 「ひとつだけ」


 「普通のデート。してみたい」


 優は頷いた。頷くより先に、手が動いた。美凪の冷たい指を包む。トンネルの光が二人の指の間をゆっくり流れていく。蛍光苔の光は弱い。弱いけれど、なぜかよく見える。


 「明日、海へ行こう」


 「海」


 「港じゃなくて、あの砂浜のほう。波が止まってるやつ。砂に名前を書いて、風がないから消えないって笑って。背中に砂が入って、痛いって怒られて。帰りに、かき氷。シロップは、三色全部」


 「贅沢」


 「贅沢しよう。宿題もサボろう」


 「やった」


 美凪は目を細めた。笑うと、まぶたの端に薄い影ができる。

 過去の落書きの上に、今日の影が重なる。トンネルの壁の「すきだ」は、濡れたせいで字が太って、やけに真面目な顔をしていた。


 「海斗、怒るかな」


 「怒る。規定にないから」


 「加瀬さんは」


「悩む。規定に乗せる方法を考える」



 「じゃあ、走って逃げる」


 「走れるか」


 「いつか」


 「伴走する」


 「遅い」


 「今はな」


 二人の声が、トンネルの内側で丸くなる。外の雨音は遠い。世界が一段外側へ移動したみたいだ。ここでは、名前を言っても誰にも聞かれない。規定のページは持ち込めない。代わりに、昔のページ——中学のときのノートの切れ端——だけが床に散らばっている。


 美凪の耳の後ろの脈が、少し落ち着いてきた。呼び出しは続いているのかもしれないが、トンネルがそれを鈍らせ、彼女自身の意思がそれを曇らせる。意思はときどき弱くなるけれど、ときどき強い。今は強いほう。


 「今日の雨、味がしたね」


 「した」


 「雨って、ほんとは味がしてたんだ」


 「昔の人は、たぶん気にも留めなかった」


 「ねえ、優」


 「ん」


 「雨って、匂いのほうが先に届くんだよ。地面が濡れた匂い。わたし、それを嗅ぐと、体育館の床を思い出す。新しい靴で最初に走った日。ちょっと滑って、転びそうになって、笑われて、笑い返した」


 「その日、俺、隣で笑ってた?」


 「いた気がする。いなかった気もする。どっちでもいい。笑ってた」


 「じゃあ明日も笑う」


 「笑う」


 美凪は目を閉じた。まつ毛が薄く濡れて光る。息は浅いが、規則的だ。芯子の灯が衣服の上からでもわかるほど微かに明滅する。蛍光苔の光と重なると、それが星座みたいに見えた。背骨に沿った線が、忘れられていた星座の形を作っていく。


 「ここの落書き、誰が書いたんだろ」


 「『すきだ』のやつ?」


 「うん。書いて、消されて、また書かれて。何回も繰り返されてる」


 「名前がないのが、いいな」


 「名前、書いたら終わっちゃうから」


 「終わらせないために、名前を呼ぶんだろ」


 優が言うと、美凪は笑った。

 彼女の名を呼べば、彼女は戻る。呼ばれれば、戻れる。戻る場所がある。名前は戻り口。ガラス越しでも、トンネルの中でも、同じだった。


 しばらく、二人は黙っていた。雨の音が一定のリズムで流れていく。トンネルの奥の暗闇の向こうから、小さな滴が落ちる音がして、その音が蛍光苔の光をわずかに震わせる。

 美凪の指は、まだ冷たい。けれど、手を離す気はなかった。離さないと決めた。そう決めるだけで、少し強くなれる。


 「そろそろ、戻ろうか」


 優が言うと、美凪は頷いた。頷く動作の途中で、眉をほんの一瞬寄せた。再び、皮膚の下でナノインクが脈を打ち始める。呼び出しは続いている。戻れ。戻れ。戻れ。

 でも、今はトンネルの出口まで、二人分の歩幅で。


 出口のほうがわずかに明るい。雨は小降りになっている。

 暗い内側と、うっすら白む外側。境目に、細い線が浮かぶ。夜明けの線。

 線が、世界を二分していた。


 「行こう」


 「うん」


 二人は腰を上げる。段ボールは濡れて、重くなっていた。足元の水たまりを避ける。避けないで踏む。二人とも踏んだ。小さな音がした。雨の味が跳ねて、頬に触れた。


 出口の手前で、優は立ち止まり、かすれたペンで壁に小さく書いた。

 ——明日、海。


 誰にも怒られない落書きだ。誰かが消すかもしれない。消されたら、また書けばいい。


 トンネルの外、雨の筋が薄くなっている。雲の縁に、わずかな隙間。そこから抜ける光は弱いのに、町の輪郭を少しだけくっきりさせた。

 遠くで、風鈴が二回鳴った。

 打ち合わせたみたいに、二回。


 「合図だ」


 美凪が笑い、胸の前で指を二度、ぎゅっと握る。

 優も同じように握り返した。

 背中の星座がそれに合わせて瞬く。芯子の灯は不規則だが、先ほどより整っている。雨の匂いの中に、塩ではない海の気配が混じっていた。波はまだ動かないのに、海は確かにここにいた。


 坂を下りる途中、巡回の車両が見えた。黒い制服。肩の白い紋章。海斗が先頭にいる。バイザーの奥の目が、二人を見つける。

 優は一瞬、身構えかけた。けれど、海斗は車を止めず、軽く手を挙げただけだった。止まれ、でも行け。相反する合図を、短い仕草に詰め込む。

 すれ違いざま、彼の口が小さく動いた。

 ——明日も見逃せるといい。

 声にはならなかったが、優には聞こえた気がした。

 たぶん、都合のいい空耳。それでいい。


 観測棟のゲートは開いていた。新しい規定が印字された紙が、入口のホワイトボードに増えている。「適合体の外出は担当医の許可を要する」「付き添いは一名」「雨天時は電解質の補助を」。誰かの字。焦っていて、でも丁寧な字。

 中に入ると、加瀬が待っていた。白衣の袖は濡れていない。外へ出なかったのだ。代わりに、廊下の窓が少し開いている。その隙間から、雨の匂いが入って、彼女の記録用紙の端を揺らしていた。


 「雨、味がしたね」


 彼女は開口一番そう言った。美凪はうなずく。

 加瀬は続けた。


 「適合は良好。ただし回復は追いつかない。今日は短時間の同調にして、早めに休む。——ナノインクの呼び出し、強くなった?」


 「トンネルで、少し弱くなった」


 「トンネル?」


 「古いの。昔、落書きした場所」


 「覚えておこう。遮蔽効果があるかもしれない」


 加瀬は淡々と記録する。そこに余計な感情は混ぜない。混ぜないけれど、感情が存在しないわけではない。彼女は「明日」の欄に小さく丸をつけ、誰にも見えないように、その丸を少しだけ太くした。


 「明日、海へ行っていい?」


 美凪が言った。唐突に聞こえるかもしれないが、今しか言えないことを、今言うのは賢い。


 加瀬は少しだけ黙って、窓の外を見た。雨脚は細くなっている。風鈴が、どこかでまた鳴った。

 彼女は頷いた。


 「午前に短時間の同調をして、午後に、短時間の外出。担当医の許可を要する。担当医はわたし。許可する。ただし、距離は短く。付き添い一名。——宿題は、明日も免除」


 「宿題、サボるね」


 美凪はうれしそうに笑った。

 その笑顔は、トンネルの蛍光苔より明るくて、風鈴の音より短くて、でも確かだった。


 部屋に戻る前、優はもう一度だけ、窓の外を見た。

 雨はやんでいない。やんでいないのに、匂いが変わっている。

 しょっぱくない。

 雨の味は、ちゃんと水だった。


 夜、恒星炉は短く動いた。港の空気がほんの少し震え、止まっていた鯉のぼりが、一度だけ布の音を立てた。町内放送が、笑いながら泣いた。

 美凪はベッドでむせ、胸の灯が不規則に明滅する。優はガラス越しに名前を呼ぶ。呼べば、彼女は戻る。戻るたび、灯が少しだけ整う。


 「明日、海」


 「海」


 「三色全部」


 「贅沢」


 「贅沢しよう」


 ガラスに掌を当てると、向こうから同じ形が重なった。

 その間に、雨の匂いが挟まる。

 雨はまだ降っている。

 でも、味が、変わった。


 夜明け前、トンネルの出口のように、世界の端に薄い線が浮かんだ。

 夜と朝が、きれいに別れていく。

 線は、細く、まっすぐで、頼りない。

 けれど二人でまたいで進むには、十分だった。

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