第4話「最初の風」
朝の港に、音が戻った。
最初は誰も信じなかった。風鈴がひとつ、控えめに鳴っただけだ。錆びたアパートの軒先、色あせたガラス玉がぶつかって、鈴の舌がかすかに震える。たった一度。波はまだ動かない。空は灰の層のまま。けれど、その一音が、町全体に電気のように走った。
優は港の階段に座っていた。夜勤明けの巡回が引いて、通りはからっぽだ。風鈴の音が止むと、空気はまた固まる。聞き間違いかもしれない。そう思いかけたところで、スピーカーが古びた金属音を吐き出した。
「風鈴確認。繰り返します、風鈴確認」
町内放送の声が、本当にうれしそうだった。声だけじゃない。あちこちの窓がわずかに開いて、住民が顔を出す。拍子抜けするほど静かな拍手が、ばらばらと起きる。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが両方同時にやる。風は一度鳴っただけで止まったのに、町は「鳴ったこと」を大切に抱き上げた。
優は立ち上がる。観測棟のほうに目を向ける。昨夜から点きっぱなしの白い灯りが、眠そうに揺れている。あの灯りの中に美凪がいる。風鈴が鳴ったとき、彼女は何を見ていたのか。耳鳴りの奥で、潮騒に似た音が少しだけ近い。
観測棟のエレベーターは、相変わらず遅い。扉の中に自分の顔が映る。目の横の薄い傷は、まだ赤い。昨夜は扉の縁で、今日は寝不足で。鏡の中の自分はいちいち理由を聞きたがるけれど、ここでは理由のうち半分は「世界のせい」で片づく。
加瀬が廊下の突き当たりでタブレットを抱えていた。白衣の袖を少し折って、手首に青いペンの線が一本。記録の最中だ。
「風鈴、聞いた?」
「港で。ほんの一回」
「こちらも計測できた。空気の流速、港周辺で最大〇・二メートル。持続時間は一秒未満」
「一秒……」
「でも、一秒は一秒。ゼロではない」
彼女の声にだけは、少しだけ誇らしさが混じっていた。数字を好きな人が、数字の側からこちらを見ている。
病室の保護ガラスの向こうで、美凪が半身を起こしていた。顔色は白く、唇の色が薄い。胸元には小さな包帯。そこから覗く芯子の仮キャップが、ぬくもりのない銀で小さく光る。背中の薄い光路は昨夜より弱い。星座の線がところどころ切れかけている。
「おはよう」
優が手を上げると、美凪は笑って、同じように手を上げた。ガラスに薄い掌の跡が残る。爪の色がよくない。加瀬が体温の表示を示す。三五度二分。低い。思わず息を呑むと、息は喉の手前で引っかかった。世界の空気は薄いままなのに、心配だけはやけに濃い。
「適合は良好。ただし回復は追いつかない」
加瀬はさらりと記す。その言い方は冷たいのではなく、温度調節の効いた声だ。焦りで手元を狂わせないための温度。
「優、今朝、鳴ったね」
美凪が言う。声はかすれているが、耳元に落ちる質量は変わらない。
「うん。一度だけ」
「風鈴ってさ、音が鳴ると風が通った形がわかるんだよね」
「形?」
「ほら、誰かが走ったあとに空気がよれるみたいに。目に見えないけど、音なら残る」
「理科の教科書が好きだったやつの言い方だ」
「うそ。体育が好きだった」
「それは信じない」
「ほんと。走るの、好きだった」
背中の星座が小さく瞬いた。点滅のリズムが不規則で、見ていると不安が胸に広がる。加瀬は画面の心電を見つめ、ペン先で小さく机を叩いていた。
「飯、食え。唐揚げは正義だろ」
優は鞄から弁当箱を取り出した。昨夜のうちに、美凪の家で残っていた材料をかき集めて作った。味噌が少し足りなくて、衣の粉が少し余計。完成度はお母さんの味にはほど遠い。けれど、蓋を開けた瞬間のにおいは、ちゃんと、安心させる力を持っていた。
「食べたい」
美凪が座り直す。看護師がガラス越しの小窓を開き、小さなスプーンを差し入れる。衛生規定が増えすぎて、いちいち説明しないと誰も動けないような空気の中で、食べることだけは単純だ。口を開け、舌にのせ、喉を通す。
「味、する。よかった」
「するに決まってる」
「昨日はあんまりしなかった」
「今日はする」
「するね」
小さな一口が喉を通っていくのを、優はガラス越しに見届けた。唐揚げの角が舌に触れる感覚なんて、普通は想像しない。今は想像できる。想像できること自体が、救いだ。
食後の測定で、ほんのわずかに体温が上がった。三五度四分。加瀬は記録に印をつけ、冷えた足先に温熱パッドを足した。やれることはすべてやる、という姿勢には迷いがない。それでも彼女は、全部はできないことも、よく知っている目をしている。
面会時間は短い。短いのに、廊下は長い。扉を出てすぐに、軍警の黒が二つ、道をふさいだ。あごをあげのぞくと、奥にもう一人。海斗だった。バイザーを上げた額に汗はない。眠っていない目だ。だが、落ちてもいない。
「優」
「帰るだけだ」
「話がある」
「耳はある」
海斗は一歩近づき、声量を落とした。仕事の声を人間の声と同じ高さに戻す。近い距離のための温度。
「適合体は国家資産だ。情は挟むな」
「挟むな、ってどういう意味だよ」
「規定では、適合体周辺の人間が与える刺激は、観測値のブレの原因とされる。リスクは排除しろってことだ」
「俺がブレだってのか」
「違う。今のルールだと、そうなるって話」
「じゃあルールを変えろよ」
「変えられる側にいると思うか」
「お前はどっち側だ、海斗」
それはずっと前から、たぶん互いに聞けなかった質問だ。校庭でボールを蹴っていたころ、どっち側も選ばなくてよかった。今は違う。側を決めないと、立つ場所が消える。
海斗は返事をしなかった。代わりに、肩に手を置き、力を込めずに押した。止まれ、という圧。優は一歩下がる。引いたのは身体だけで、言葉は引かなかった。
「俺は挟む」
「わかってる」
「俺がそばにいると、美凪の反応が荒れない。加瀬さんはそう言った」
「データがあるなら、持ってこい」
「データがないと信じないのか」
「データがあっても、信じられないときがある」
「じゃあ、お前の目で見ろ」
海斗は目だけで笑った。笑いは短く、乾いていた。
「今夜の観測に、お前は入れない」
「なんで」
「新しい規定が出た」
「誰が」
「上の、上」
「上ってどれくらい上だ」
「届かないくらい」
空気がきしむ。無風なのに、音だけが軋んだ。ふたりの間に、規定のゆがみが目に見えない壁のように立ち上がる。優は唇を噛む。噛んだところで、壁に歯形はつかない。
観測棟を出ると、夕方の空が少し赤かった。雲の下のほうが薄く透けて、表面の灰色の裏に赤が仕込まれている。遠くの対岸、製鉄所の黒い塔がかすんで見える。あそこはずっと昔から、町の景色の一部だった。遠足のバスで通るたび、無関心なくらい当たり前に眺めた風景。子どもは当たり前に甘える。世界は終わらない、と信じきって。
「崩れるぞ」
誰かが小さく言った。一拍遅れて空気が振動する。風はないのに、振動だけが来る。塔の根元が波打つように歪み、ページの角が折れるみたいに、静かに傾いていく。音は遅れて届く。金属の骨が折れる音、鉄が引き裂かれる音。夜が用意した赤い布が、そのまま空に広がった。火ではない。赤い粉塵が光を反射して、空の低いところが一面、薄く染まったのだ。
誰も悲鳴を上げない。代わりに、息が揃って止まる。止まった息の間を、ラジオのノイズが這う。
「国外都市の一部が無音化しました。繰り返します、無音化。風のない状態が臨界を超え、指標上の音が失われています。交通の——」
途中で言葉が切れる。別の放送が、上書きするみたいに割り込む。音がなくなった街、という言い方は、テレビの中だけの言葉だと思っていた。でも今は、ガラスの向こうだけでなく、地図の上でも起きている。
港のほうから、小さなざわめきが起きた。誰かが顔を上げる。頬に、風が触れたのだ。掌の中で火を起こそうと息を吹いたときの、あのわずかな動き。髪の先が揺れる。スカートの裾が一センチだけずれる。たったそれだけで、拍手が起きた。大げさじゃない。ほんとうに起きた。拍手はうねり、呼応し、恥ずかしさがどこかへ逃げる。
「風鈴、鳴った」
誰かの声。別の場所でもう一回。もう一個。町内放送が、泣いているみたいな笑い声で言った。
「風鈴、複数確認」
優は自分の頬を指で押した。皮膚の下を風が通っていく感覚を、どうにかして掴まえようとする。掴まえたところでポケットに入れて持ち帰ることはできない。けれど、確かに、今はここにある。
観測棟へ戻る足を、夜が追いかけてくる。海斗は別の持ち場へ走り去った。背中で規定を背負い、靴音で人間を残す。優は一人で病棟の廊下に立つ。廊下の時計は動かない。針が止まって、代わりに心臓が針の役をする。
保護ガラスの向こうで、美凪が咳き込んだ。乾いた咳が三つ、続けて短く。背中の線が明滅する。昨夜より不規則で、点と点の間が一瞬だけ飛ぶ。胸の芯子の灯が打ち寄せる波みたいに乱れ、戻り、また乱れる。呼吸が浅い。浅いのは世界のせいだ。だけど今は、彼女のせいでもある。彼女が世界を背負って、世界が彼女に重なる。
加瀬が駆け寄る。手順が速い。酸素のカニューラ、温熱パッドの追加、投薬の再確認。看護師が手元のメモを復唱する。パネルの数値はうそをつかない。けれど、真実はいつも全部は語らない。
「美凪」
優はガラスに額を寄せた。冷たい。冷たさで額の熱が吸われる。自分の体温でガラスに丸い曇りができる。子どもの悪戯みたいに、そこに指で小さな丸を描く。意味はない。あるのは消えそうな躊躇いだけ。
「聞こえる?」
「……聞こえる」
声が細い。ガラスがないふりをして、声が届く距離で話す。名を呼ぶ。いつでも戻れるように。名前は戻り口だ。
「飯の残り、明日も持ってくる。唐揚げ、もう少しうまく作る」
「今日、じゅうぶん」
「じゅうぶんでも、まだやる」
「意地っ張り」
「お互いさま」
笑うと、胸がわずかに上下した。上下の幅が、空気の層をかき混ぜるのが見える気がした。見えるはずはない。けれど、見えないもののために作られた機械に同調している彼女が、いちばん先に見ているなら、優は信じたい。
夜は深くなる。観測用の灯りだけが残り、外は赤い残滓を置き去りにして暗くなった。対岸の塔は、やっぱりそこにはない。残像が空の低いとこに残り、時折、風鈴の残響とまちがえる。
加瀬が短く言う。
「小出力作動を停止。休息へ切り替え」
パネルの数字が落ち着く。背中の線の明滅が、呼吸の速さに戻る。芯子の灯は弱いが、絶えない。絶やしてはいけないと、身体が知っている。
「適合は良好。ただし回復は追いつかない」
彼女はもう一度、同じ文を記し、最後に句点を強く打った。規定の文章に、彼女の個人の筆圧が混ざる。混ざることを、誰も責めない。責めないでいられるうちに、混ぜてしまう。
「優」
呼ばれて、顔を上げる。美凪が目を細める。眠い目だ。眠い目のまま、真剣だ。
「風、また来たらさ」
「来たら?」
「今度は、二回鳴らすね」
「なにを」
「風鈴。さっきは一回。次は二回。わたしの合図」
「わかった。三回は?」
「三回は、走る合図」
「走れる?」
「いつか」
「伴走する」
「遅いよ」
「今はな」
ふたりの会話は、どこからどう聞いてもふつうで、今の世界に似合わないくらいふつうで、だからこそ、ここに置いておく価値があった。ふつうは、いつでも、最初に壊れる。壊れたら拾えばいい。拾えばまた、ふつうになる。ふつうのかけらを集める方法なら、もう覚えた。
廊下の角で、海斗が立っていた。交代の時間だ。規定に忠実な足取りで持ち場に着き、面会室の窓から中を覗く。目が優と一瞬だけ合う。何も言わないのに、「見た」と「わかった」のやりとりはできる。昔から、それは上手かった。
ラジオがかすかに鳴った。ノイズの向こうで、誰かが笑っている。遠くの局のアナウンサーか、ここで働く誰かの微笑か、判別はつかない。どちらでもいい。笑いがある。
「外、拍手してたよ」
優が言うと、美凪は目を丸くした。
「風に?」
「うん。風に」
「すごいね」
「すごいよ」
「じゃあ、わたしたちも」
美凪はガラスに向かって、軽く掌を打ち合わせた。音は鳴らない。鳴らないのに、拍手は拍手だ。優も同じように掌を合わせる。ガラス越しの音のない拍手は、まるで新しい言葉みたいだ。意味は一つ。続け、だ。
看護師が灯りを一段落とす。時間だ。今夜はここまで。明日、また。明日があると、はっきりは言えない。けれど、予定にはある。予定は、信じるためのしるしだ。
ガラスの向こうで、美凪が目を閉じる。まつ毛が震え、呼吸が浅く、肩がわずかに上下する。芯子の灯が、不規則に明滅する。リズムは不安定だが、確かに生きている灯りだ。世界の息も、きっと同じように明滅している。浅く短く、でも、消えていない。
優は椅子を窓際に寄せ、背を預けた。目をつむっても、耳鳴りの底に風鈴の音が残っている。あの朝の、一度だけの音。町の人たちは、きっと寝る前にそれを話題にする。今日、風が鳴った、と。何度も何度も、同じ話を。明日の風のために、使い回して温めるように。
海斗が小声で言った。
「さっきのは、見なかったことにする」
「どれ」
「お前の“挟む”。今夜は、見逃す」
「明日は?」
「明日も、見逃せるといい」
願いの言い方を、海斗は忘れていなかった。規定の中にも、願いの形は残る。残るように、人がわずかに工夫をする。人は上手い。世界のほうが乱暴すぎるだけだ。
夜半、外の風鈴が二度、鳴った気がした。夢の境目で聞いた可能性もある。証拠はない。それでも優は、静かに笑った。二回は走る合図。今はまだ走れない。だからせめて、呼ぶ。
美凪、と優は口の中で言う。ガラスのこちら側で、名前は柔らかく跳ね返る。呼ぶと、彼女の唇が少しだけ動いた。眠っていても、呼ばれると反応する。名前は戻り口だ。何度でも、そこから戻れる。
世界はまだ息を忘れがちだ。大人がため息をつくみたいに、途中で止めてしまう。それでも、最初の風は鳴った。音は小さく、短く、遠かった。だけど、その一度のために、町は拍手を覚えた。拍手は、人を呼ぶ。呼ばれた人は、名前を返す。名前は、風を呼ぶ。
保護ガラスの向こうで、芯子が静かにまた点いた。ほんの針の先ほどの光。それでも、夜の中では星になれる。優はその小さな星を、朝まで見張る役を買って出た。見張るしかできないけれど、それは仕事だ。世界に挟む情の、正しい使い方だと信じて。
風鈴の残響が、耳鳴りの奥でほどけていく。誰かが眠りに落ちる音と、誰かが持ち場に立つ気配が、同じ部屋の空気に混ざる。扉の外の気配は減らない。規定は増える。増えたページの隙間に、今日の拍手のことを書いておこう。読んだ誰かが、うっかり笑ってしまえるように。
最初の風は、確かに、ここを通った。
次は二回鳴らす。
そう決めた夜だった。




