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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 林 凍


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第3話「恒星炉計画(コア・プロトコル)」

 研究棟の廊下は、病院の白さとは少し違っていた。壁は艶のない灰色で、照明はやや低い。明るすぎると人の目が疲れるから、という誰かの配慮が感じられるのに、そこに立つ人間たちは疲れを隠していなかった。靴音の数が多い。扉の向こうで何かが回り続けている音。無風の町で唯一、風がある場所がここだとしたら、それは機械の吐息に近い。


 美凪は肩に薄いブランケットを掛けられ、車輪付きの椅子で運ばれてきた。眠っているわけではない。眠れない種類のまばたきで、天井の角を数える。加瀬が歩調を合わせ、ゆっくりと進む。軍警の黒い制服が二人、その前後に付く。


 「怖い?」

 「怖いよ。怖くないって言ったら嘘になる」

 「それでいい」

 加瀬は、立ち止まらないまま言った。声の調子はいつもと同じだが、足取りには迷いがない。彼女は迷わないことで、ここに居場所を作っている。


 角を曲がると、ガラス越しに丸い部屋が見えた。第二区画観測室。天井の中央から降ろされた金属のアーチが、椅子を囲うように弧を描く。昨夜と似ているのに、何もかもが一段階厳密だ。床の線は白ではなく青白い。踏み外せば、叱られるというより、記録されるとわかる種類の線。


 「先に説明を」

 加瀬は車椅子のブレーキをかけ、しゃがんで目の高さを合わせた。白衣の胸ポケットにはペンが三本。一本は青いキャップがひび割れている。

 「“恒星炉”。正式名称は地表統合循環復元装置。大気の流れを再起動し、海の死層を起こし、地磁気の乱れを揃えるための、最後の手段。——本来なら無人で動かすはずだった。でも、起動のための制御核が、思ったよりも“人間的”だった」

 「人間的?」

 「意思というより、癖に近い。世界の呼吸は、膨らんだり萎んだりする。その揺れを、装置が自分で掴みに行くには感度が足りない。だから、生きている何かと同調して、ズレを測り直す必要がある」

 「それ、わたし?」

 「可能性は、ある」

 加瀬は言葉を選んだ。はっきり肯定も否定もしない言い方はずるい、と誰かが言うなら、それは誰かがまだ生きている証だと思う。迷いを残す余地があるのは、まだ選べるからだ。

 「ただ、一つだけはっきりしている。制御に必要な“燃費”を、装置は同調先から補う。長く稼働すればするほど、同調している生体が擦り減る」

 「擦り減るって、どれくらい」

 「数字で言うなら、ここではなく会議室で言う」

 「ここで聞きたい」

 「段階に分かれる。短時間なら倦怠、貧血、微弱な神経炎症。中時間で臓器への負担と発熱。長時間は……人間の側が装置を優先する。つまり、身体が勝手に『続けたい』と思うようになる」

 「やめられなくなる?」

 「やめられないわけじゃない。けれど、やめるには誰かが呼んでくれないと難しい。名前で、何度でも」

 美凪は短く息を吸って、吐いた。深く吸い込もうとして、吸えないのに気づく。世界の空気が浅い。自分の肺だけが悪いわけじゃない。

 「わたしでも……世界、直せる?」

 「可能性はある」

 答えは先ほどと同じだった。けれど、今度の声は少しだけ人の体温を含んでいた。医師が患者に寄せる距離ではなく、町の住人が町の子どもに寄せる距離。ここはもう俺たちの町じゃない、と誰かが言う前の距離。


 扉の向こうで、軽い騒ぎが起きる。金属がぶつかる音。短い怒号。続いて押し殺した声。優だ、と美凪はすぐにわかった。足音の癖がある。誰かに止められても、一歩だけ余計に踏み込む足音。体育館で列を抜け、先生に呼び止められて、戻るふりをして別の列に繋がる、あの足音。


 「待って。優が」

 美凪が身体を起こそうとするのを、加瀬がそっと制した。

 「彼は来てる。止めてはいるけど、連れてくる」

 「乱暴にしないで」

 「乱暴にしない。——する余地を与えない」


 数分後、扉が開き、二人の軍警に両腕を押さえられた優が現れた。口の端に切れた跡。目は怒っているのに、泣く直前の子どもの目にも似ている。止めたいのは喧嘩ではなく、何かの進行だと、自分でもわかっているからだ。


 「離せ。触るなって言ってるだけだ」

 「規定です」

 「規定は知ってる。ここ、俺たちの学校の体育館の備品も持ってきてるよな。規定に『借りたら返せ』ってあるか?」

 「やめなさい」

 低い声で割り込んだのは、軍警の一人ではなかった。廊下の影から、バイザーを上げた巡回兵が出てくる。顎の線、耳たぶのほくろ。海斗だった。優より少し高い背。中学のときから何もかも出来すぎて、出来すぎるほどつまらなそうに笑うやつ。

 「やめろ、優。ここはもう俺らの町じゃない」

 「なんでお前が、それを言う」

 「それが俺の今の仕事だから」

 「仕事なら、俺は友達やる」

 「友達でいるなら、ここで止まれ」

 視線がぶつかる。海斗の目は、優の知っている目のままなのに、その奥に規定のページ番号が透けて見えた。番号に従って体を動かすほうが、余計な怪我をしないと知ってしまった目だ。

 「一緒に入る」

優が言うと、最初に押さえていた軍警が鼻で笑った。加瀬がその方向に顔を向け、「付き添い一名は許可。昨夜と同様」と短く告げる。軍警は口をつぐむ。ここでのルールの紙を、誰が書いているのか、彼らも知っている。


 美凪は優に手を伸ばした。握ると、指の奥の細かな振動が伝わる。昨夜よりもはっきりしている。振動の回数を数えると、落ち着かなくなるから、数えない。


 「大丈夫」

 「大丈夫じゃないだろ」

 「うん。だから、手」

 「離さない」

 「離したくない」

 二人の言葉が重なる。海斗はそのやり取りを見て、ほんの一瞬だけ視線を落とした。誰よりも規定に沿って動きながら、いちばん規定の外を覚えている目。


 観測室の中央の椅子に美凪が座る。背もたれの形が昨夜より体に沿っていて、固定具が増えている。手足の固定はされない。逃げられると思わせるためではない。逃げられないのに、縛ればもっと逃げたくなるからだ。そういう種類の賢さが、この部屋には多い。


 加瀬が説明を続ける。言葉はやはり無駄がない。

 「今日は“同調域の確認”と“芯子の挿入”まで。芯子は制御核との橋。細い銀の棒。埋めるのは胸骨の裏と、背骨に沿って皮下のライン。電気ではなく光に近いものが走る。痛みは麻酔でできるかぎり抑えるけれど、感覚はゼロにはならない」

 「怖い」

 「怖いときは、怖いと言って。合図を決めよう。指を二回、握る」

 「わかった」

 「優くんは、名前を呼ぶ役。呼ばれたら戻れるように」

 「何度でも呼ぶ」

 優は言い、手のひらの汗を拭う。汗は嫌な汗ではなく、生きている汗だと信じたい。


 支度が進む。金属の器具が音を控えめに鳴らす。看護師が薬剤名を読み上げ、記録担当が復唱する。海斗は扉の内側に立ち、外の騒音を遮る壁の役を自分に課す。


 麻酔が入る。冷たい液体が血管を流れるのがわかる。まぶたが重くなる。重いのに、落ちない。落ちないまま、天井に白い点が生まれて、細い線で結ばれる。星図のまねごと。子どものころに貼った蓄光シールの記憶が、少しだけ温かい。


 「始める」

 加瀬の声。灯りが落ち、縁だけ残る。手術室と観測室の境は曖昧だ。医療と工学の境も曖昧だ。曖昧な場所で人が決めて、決めたことを記録が固定する。


 胸の中央に、冷たい圧がかかる。呼吸が浅くなる。吸って、吐いて。世界のほうが浅いのだから、自分だけ深くしようとしても無理だ。浅い呼吸をやさしく繰り返す。


 「美凪」

 優の声が耳元で落ちる。名前は重くない。落ちた瞬間に、掌の中で跳ね返るやわらかさがある。

 「ここにいる」

 「いる」

 指先が二回、ぎゅっと動く。わたしは怖い。わたしは怖い。言葉にしてしまうより、正確に伝わる。


 銀の芯子が、胸の奥に触れた瞬間、世界が一瞬だけ明るくなった。照明の明るさではない。耳の後ろで何かが開く。海沿いの夏、昼寝から起きたときの光の感じ。痛みはある。鋭いのが一瞬、そのあと鈍いのが続く。耐えることはできる。耐える理由がここにある。


 「背中、行く」

 薄く温められたジェルが塗られる。背骨に沿って、冷たい何かが走る。皮膚の下で光が通る。見えないのに、確かに“見える”。線が結ばれていく。肩甲骨の間、腰の上、首の付け根。点と点が繋がるたび、天井の星図が連動していくように見えるのは、麻酔のせいだけではない。


 「優」

 声が出た。自分の声なのに、別の誰かが喉を借りて出している。夢の中の自分に似ている。

 「いる。ここ」

 「名前、もう一回」

 「美凪」

 呼ばれて戻る。戻る場所があるのは、それだけでずるいくらい幸せだ。


 観測パネルの一部が色を変える。数値が上がる。下がる。整う。乱れる。スタッフの声が短く交差する。海斗は視線で動く。優は手で動く。加瀬は声で動く。美凪は呼吸で動く。装置は光で動く。そして、世界は、まだ動かない。


 「コア・プロトコル、仮挿入完了。同調域、一次安定」

 記録担当の声。加瀬がうなずく。

「恒星炉の仮想接続に移る。三秒前、二、——」

 そのとき、遠くで何かが鳴った。単音。鐘の一撃のように乾いた音。町の端の鉄橋が、風もないのに鳴ったのかもしれない。耳鳴りの底が震え、胸の奥の熱が昨日よりも早く目を覚ます。


 接続。天井の光が、呼吸の速度で脈を打ち始める。装置の側の息遣いが、部屋の空気に忍び込む。浅い。ほんの数ミリだけ膨らんで、すぐに萎む。深く吸おうとして、吸えない。それでも、生きようとしている。


 「感じる?」

 加瀬の声は、いつになく静かだった。

 「うん」

 美凪は目を閉じる。暗闇の中、線がたくさん伸び、それぞれが別の速度で震えているのが見える。大陸の縁で溜まった冷気、海の表面で動けなくなった薄い層、砂漠の上で止まってしまった熱の柱。全部が、息をするのを忘れている。

 「優、聞こえる?」

 「聞こえる」

 「世界の息——すごく浅いよ」


 言葉が部屋に落ちる。誰も返事をしない。数字では言い換えられない一文が、記録の中で最も重要になることがある。


 「同調を上げる。二段階、ゆっくり」

 加瀬の指示に従って、光がわずかに強まる。浅い呼吸の底が、ほんの少しだけ深くなる。美凪の胸も、それに合わせるように上下を始める。優の手のひらに、振動のリズムが伝わってくる。昨夜より、今朝より、すこし速い。すこし軽い。


 「痛む?」

 「痛い。でも、大丈夫」

 「どこが」

 「全部。でも、全部じゃない」

 言葉にならない境界を、言葉で囲もうとする。囲いは歪む。歪むけれど、かたちになる。


 「安定域、確保。一次接続、停止」

 光が一段落ちた。美凪の身体から力が抜け、椅子がそれを受け止める。深く息を吐く音。優も、つられて吐いた。加瀬がブランケットをかける。銀の芯子の端に仮キャップが装着される。胸の中央に小さな封印。背中に沿う薄い光が、点々と星座を描いている。


 「どうして星みたいに見えるの」

 うとうとしながら美凪が問う。加瀬は少し考えて、肩をすくめる。

 「きれいな言い方をすれば、世界があなたの体を地図にした。きれいじゃない言い方をすれば、配線」

 「じゃあ、きれいなほうで覚える」

 「そうして」

 加瀬は、ほんの少し笑った。


 扉の外がざわつく。誰かが新しい紙を持ってきたのだろう。規定は更新され続ける。夜ごとに厚くなり、朝ごとに内容が変わる。その厚さのぶんだけ、誰かが眠れない。


 海斗が近づいて、優の脇に立つ。小声。仕事の声ではなく、友達の声。

 「殴って悪かった」

 「殴られてない」

 「目の横」

 「ああ、扉にぶつけた」

 「同じだろ」

 「違う」

 二人のやりとりは短く、雑で、正確だった。中学の頃のサッカーの帰り道に似ている。汗と塩気の混じった空気が、風のない夜にもあったことを思い出す。


 「なあ海斗」

 「何」

 「お前、帰れるのか。家に」

 「今は駐屯。交代で二時間」

 「眠れる?」

「規定では」

 「……そっか」

 海斗はバイザーを少し上げ、優を見た。目の奥に未読のメッセージがいくつも並んでいるように見える。返事は、後で。後でがあるうちに、返事をする。


 「優」

 美凪が呼ぶ。眠気の膜を破るように、薄く目を開ける。

 「いるよ」

 「ねえ」

 「なに」

 「わたし、きっと走れる」

 「今?」

 「いつか。風が戻ったら。港から坂を上って、あの展望台まで。小学生の頃みたいに」

 「俺、伴走する」

 「遅いでしょ」

 「速くなる」

 「それ、楽しみ」

 彼女の笑い方は、いつもの笑い方で、いつもの笑い方ではなかった。背中の星座が淡く呼吸している。世界の呼吸は浅い。けれど、それはゼロではない。ゼロと一の間には、無限に数がある。


 加瀬がメモを閉じ、白衣の袖を下ろした。

 「今夜はここまで。君は付き添いのまま、ここで休める。明日の朝、もう一度同調を試す」

 「朝、来るんですか」

 優が問う。加瀬は頷いた。

 「来る。保証ではないけれど、予定にはある」

 「予定、好きだな」

 「予定がなければ、怖くて立てない」

 彼女のこの一文は、規定のどのページにも載っていない。だからこそ、ここにいる人間の支えになる。


 灯りがさらに落ち、観測室の外の景色が黒に沈む。窓の向こうに見えるはずの町の明かりは、ほとんど点いていない。港の灯台は昨日のようには光らず、遠い沖で白い閃光が走る気配もない。代わりに、ここでだけ、小さく星が結ばれている。


 優は椅子を引き寄せ、美凪の手を包む。振動は弱まり、代わりに脈が整ってきた。耳鳴りは残っているが、底に薄い潮騒のような音が混じる。海が思い出し笑いをしている。昨日の夜話した冗談の続きに、今さら肩を震わせるみたいな笑い。


 「優」

 「うん」

 「聞こえる?」

 「聞こえる」

 「世界の息、浅いけど、さっきより、少しだけ深くなった」

 「お前が押した?」

 「押してない。寄り添った」

 「じゃあ、明日も寄り添え」

 「うん」

 「何度でも呼ぶ」

 「何度でも戻る」


 眠気が本物になる。指を二度、ぎゅっと握る。今は怖い。でも、怖くないふりはもういらない。怖いと言える場所にいるのは、強いことだ。


 加瀬が壁にもたれ、目を閉じた。記録端末が小さく光っている。海斗は扉の前で直立し、規定の姿勢で立ちながら、靴の中の砂利の位置を気にしている。優は美凪の手を離さない。美凪は眠る。銀の芯子は胸の奥に静かに座り、背中の星座は呼吸のたびに淡く明滅する。


 世界はまだ浅い。息はまだ浅い。けれど、まったくの無風ではない。誰かが小さくうちわで扇いでいるみたいに、微風が生まれ、その風が次の風を呼ぶ。宿題が出るかどうかは知らないけれど、明日のページが空白ではないことだけは、今、この狭い部屋で確かだ。


 夜の真ん中。観測室の窓に、遠くの海の気配が一瞬だけ映った気がした。確証はない。証拠もない。ただ、眠りに落ちる直前の人間だけが見られる種類の証明が、そこで小さく灯った。


 「優、聞こえる? 世界の息——すごく浅いよ」


 さっきより少し深く、やわらかく、その声は繰り返された。優はうなずく。うなずいたことは、誰にも見えなかったが、手の中の指がそれに答えた。浅い息は浅いまま、朝へ向けて、ほんの少しだけ長くなる。

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