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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第26話「星屑の呼吸」

 出発の合図は、誰の口からも出なかった。

 校舎の玄関前、朝の光は海からの青を少しずつ運び、廊下の埃に薄い金色の膜を置いていく。見学室のベッドで毛布を畳み終えたとき、老女が静かに「そろそろ」と言った。言葉は短いほど重くなって、床板がその重さを支えた。

 棺は用意しなかった。

 白いシーツで包む。角はきっちり折らない。風が触れやすいように、少しゆるく。折り紙の指輪は彼女の掌に、金魚飴は枕元から胸元へ。飴の赤は朝の光で薄く透け、泳いでいるように見えた。澪が結び直した風太の耳は、ゆっくり揺れている。加瀬は封筒の「ここ」をシーツに挟み、誰にも見せないようにそっと位置を決めた。

 優は彼女を抱き上げた。

 体は軽い。軽いのに、腕の中で世界の重さが増えたように感じる。足元の白い粉が舞い、階段の一段目に落ちた。粉は線にならず、点で残る。点は靴底の縁に移り、また床へ移り、誰かの袖へ移る。線で繋がっていないのに、繋がっている。

 廊下の壁に、雨に一度流されてから上からなぞられた「また明日」が、朝の角度で読みやすくなっていた。優は短く会釈する。言葉にすると嘘が混じりそうで、会釈に変えた。澪も同じように会釈し、海斗は手のひらを帽子のつばに当て、加瀬は肩をすこし落としてから上げた。短い動作で、いろんな意味を分け合う。

 玄関を出ると、町の人たちが道を開けていた。

 誰も黙祷の姿勢をとらない。手は動いている。箒を持つ人、脚立を支える人、風鈴を吊るす人、氷のブロックを運ぶ人。動きながら、目だけがこちらを見て、通りすぎる瞬間に小さく頷く。風鈴がひとつ鳴る。ちり、と低く。続けて別の家からもうひとつ、少し高い音。重ならないように鳴って、すぐ止まる。鳴らない時間の方が、長い。

 アーケードの入口で、魚屋のシャッターに貼られた「ただいま」の紙が、風で角を持ち上げた。店主の親父さんが脚立の上で金具を締めている。顔を上げ、優と目が合うと、彼は短く頷いて口を結んだ。その口の形は、ありがとう、に近かった。

 避難車列は引き返していた。

 赤い尾灯の流れは町の内側へ方向を変え、歩道に人が増える。小さな鉢植えを抱えた女の子が母親の袖を引っ張って、風鈴へ手を伸ばす。母親は首を振って、でも笑っている。アーケードの端で老女が紙袋を振って見せた。

 「あとで寄りな。金魚飴、二つ余ってるよ」

 海の匂いは濃くなっていた。

 港の旗はまっすぐで、鳥は低い高さで群れを組み、海面に短い線を引く。潮の甘みは、鼻の奥を痛くしない甘みになっている。昨日までの香りではない。今日の香りだ。恒星炉の出力は落ちているのに、世界は自分で息をしている。機械の音ではない、柔らかい音。吸って、吐いて。吐いた息が誰かの吸う息になる。

 道は、海辺へ向かう坂に繋がっている。

 途中、風鈴の列をくぐるように歩き、アーケードを抜ける。澪はぬいぐるみの耳を握り、海斗はケースに入れた銃を肩から下ろし、道の脇のベンチに置いた。置く動作は、武器を手放す型ではなく、物を元の場所へ返す型だった。

 「任務終了。個人的判断だけど、今日に限っては、誰も俺を咎めない」

 誰も咎めなかった。

 咎める代わりに、道を開けた。

 加瀬が少し後ろを歩き、端末は持って来なかった。メガネを胸ポケットに挿し、髪を耳にかけ、掌の温度を確かめるみたいに指先を重ね合わせている。

 「医者としての手より、母親としての手に戻しておく。今日は、それでいい」

 砂浜が見えた。

 朝の光は斜めに差し、砂の粒が白く光る。波は小さく、太陽を細かく砕いては返してくる。砂に足を入れると、靴の中までひんやりした。海は浅いところから透明で、遠くまで青が積み重なっていた。青は厚くない。薄い層が何枚も重なって、厚さを作っている。

 優は座り込んだ。

 膝を砂に落とし、彼女の体を胸に引き寄せる。肩と肩が合う位置を探す。何度も確かめてきた位置は、今日も同じだった。頬と髪の距離も、眉とまつげの角度も、指の曲がり方も。違うのは、温度だけ。温度は、世界へ返っている最中だと思うことにした。

 町の人たちは輪になった。

 輪は遠すぎないし、近すぎない。子どもは大人の影から顔を出し、犬が一度吠えてすぐに黙る。風鈴が順に鳴り、鳴らない時間に波が寄せる。誰も、泣き声を上げない。上げなかった泣き声は、胸の奥で丸くなる。丸くなると、空気を押し出す力に変わる。

 雲が薄く裂け、光が降りてきた。

 粒になって、砂浜の上で細かく跳ねる。星屑みたい、と誰かが小さく言った。声は海に吸われて、波の白さに混じった。光の粒は、触れると消える。消えると、触れた場所が少しだけ温かくなる。恒星炉の残響、世界に撒かれた再生粒子の最後のきらめき。そんな言葉は、誰も口にしなかった。言葉にしなくても、目が知っていた。

 「優」

 加瀬がそっと近づき、ノートを差し出した。

 世界の呼吸の記録。最初のページは、止まった風の寂しさで始まっている。中ほどに、鳥の数。波の音。雨の味。祭りの夜の星が戻りかけた線。借りた朝のパンケーキの高さ。アークの火柱。等圧線の隙間。臨界の赤と、安定の二文字。

 最後のページだけ、白い。

 「最後の行、あなたが書いて」

 優はボールペンを受け取った。

 指に粉のさわりが残っている。チョークではないのに、粉の感覚が離れない。手が震える。震える手でも、字は書ける。読めるように、ゆっくり。声に出して読まなくても届くように、まっすぐ。

 今日も、世界は呼吸している。

 書いて、息を吐いた。

 風がページを閉じた。閉じ方は、やさしい。置いた掌を弾かない。そっと押し返す力で、紙は自分の場所へ戻った。ノートの角はさらに丸くなって、表紙に指の跡が増えた。

 「ありがとう」

 澪が小さく言い、風太を胸に抱き直す。

 彼女の眼差しは海の方角へ向いている。終わりの練習と、終わらせない練習。二つを両方覚えている目だ。いつか笑い方を忘れそうになったら、ここへ来ようと思った。風鈴の音の揺れ具合と、波の白さを見れば思い出せる。

 海斗は敬礼した。

 敬礼は長くない。終わりに線を引く動作ではなく、はじまりへ渡す動作に近い。敬礼を解くとき、彼は銃のケースをもう一度持ち上げ、港の方角を見た。

 「網の修理、明日の朝。ロープの締め直し、午後。……あと、皆で食べるもの。パンケーキ、また焼こう」

 老女が前へ出てきた。

 小さな包みを差し出す。中には金魚飴が二つ。赤は朝よりも濃く見え、光をよく拾う。

 「一つは、彼女に。もう一つは、持っていきな。溶けるの早いから、歩きながら舐めるのに向いてる。泣きながらでも、甘いのは甘い」

 優は頷き、包みを受け取った。

 砂浜に膝をつき、シーツの端を直す。額に触れ、髪を耳にかけ、手をそっと胸の上に置く。折り紙の輪が指に触れて、紙の角がかすかに当たる。紙の硬さは、指に覚え込まれている。

 「行こう」

 誰に言うでもなく、口にした。

 立ち上がると、風が足元から体の内側へ入ってくる。吸って、吐いて。吐いた息は冷たくない。海の匂いは甘すぎない。鼻の奥が痛くならない。痛くないと、笑いやすい。笑えると、息が続く。

 町の人たちが道を開け、砂の坂をゆっくり上る。

 帰り道、風鈴はさっきよりも少しよく鳴った。吊るす重りの加減を誰かが変えたのかもしれない。鳴って、止まって、また鳴る。鳴るたび、顔が上がる。

 魚屋の前を通ると、氷のブロックがもう一つ置かれていた。店主の親父さんがタオルで首元の汗をぬぐい、氷に手を当てる。冷たい。冷たさを確かめて、笑う。

 「夕方、イワシが入るかもしれねえ。網は破れてるけど、鳥が増えた」

 「鳥が増えた」で、十分だった。

 それは報告というより、合図だ。世界の呼吸が届いている合図。届いたところから、次の段取りを決める合図。

 アーケードの中ほどで、子どもがひとり走って、すぐに母親の声で歩きに変える。変える早さは、町の速さだ。急がない。遅れない。呼吸に合わせる。

 学校に戻ると、澪は屋上へ向かった。

 風の道をもう一度確かめるのだろう。今日の道は午前と少し違うはずだ。違っていい。違いは、地図になる。明日の線を描くための下書きになる。彼女は階段を上がる前に振り返り、優に手を振った。

 「あとで、アーチの続き、書こう」

 「少し手前で止める」

 「うん。続きがある、って合図になる」

 加瀬は役場へ戻る準備をしながら、振り向かずに言った。

 「午後、役場の前で簡単な説明をする。長い言葉は使わない。『どうしても』と『できれば』を分けて話す。それで十分」

 海斗は港へ向かった。

 足取りは迷いがなく、制服の名札はポケットの中。名札のない胸は、少し軽く見えた。人の名前で動くときと、町の一員として動くときと、同じ体で二つの使い方を覚えた背中だった。

 優は見学室に入り、彼女をベッドに寝かせた。

 空になった胸の前で両手を重ね、折り紙の輪をそっと掌に戻す。金魚飴を枕元へ。ノートを開く。最後の行は、もう書いてある。ページの端に指を滑らせると、粉のさわりは消えていた。消えたのに、指先は粉の触感をまだ覚えている。皮膚ではなく、指の中のどこかで。

 窓の外、光は少し白くなり、昼の気配が強くなる。

 外から、鍋の蓋が落ちる小さな音がして、続けて笑い声が重なる。風鈴は鳴らない。鳴らないときに、呼吸の音だけがわかる。吸う、吐く。吐く、吸う。

 優は椅子に座り、ノートの表紙を胸に当てた。胸の骨に硬さが当たる。硬さは安心の形だと、この数日でやっと知った。

 午後、屋上に上がると、澪がアーチの前に立っていた。

 チョークを指でつまみ、細い線を一本、足す。真ん中より手前で止まる。止めた白い粉が風の中にほどけ、誰かの肩に移った。誰かは気づかない。そのまま町の中で別の場所へ移り、別の人の袖へ移り、階段へ落ち、机の角へ残る。

 「私の線、ここ」

 澪は小さく印をつけた。

 優はその横に、短い点を三つ続けた。線ではない。点だ。点は、つなげば線になる。つなげなくても、点のまま在る。

 「在る、ってわかる合図」

 「うん」

 澪は頷き、線を見た。

 「明日は、もっとずれる。たぶん。風の道が変わるから」

 「ずれたら、また書こう」

 夕方が来ると、空は薄い橙を経て紫に近づき、海は深い青へ戻っていく。

 港から低い汽笛が一度、鳴った。鳥は波打ち際に降り、風鈴は一度も鳴らなかった。鳴らない音の中で、呼吸だけが続く。呼吸が続くと、次の段取りを考えられる。段取りを考えると、少しだけ笑える。

 夜の入口で、加瀬、海斗、澪、老女、そして町の何人かが屋上へ上がってきた。

 輪になる。輪は狭くない。広くもない。目を合わせる距離。声を出さない距離。

 加瀬がノートを両手で包むように持ち、優に返した。

 「預かっていて。町のものでもあるけど、最初に書いたのはあなたたちだから」

 優は受け取って頷いた。

 「ここにいる、って書いた。今日の昼」

 「読んだ」

 澪が短く言い、風太の耳をつまんだ。

 「ここにいる。ずっとじゃないけど、いる」

 海斗はフェンスにもたれ、夜の海を見た。

 「うるさくない静けさって、こういうのか」

 老女は風鈴の紐を指でつまんで、わずかに引いた。音は鳴らなかった。

 「今日は、鳴らさないでおくよ。鳴らないのも、ごちそうだよ」

 そのとき、雲の切れ目から細い光が降り、校舎の壁に長い四角を置いた。

 光は砂浜のときのように粒にならない。まっすぐな帯のまま、屋上の白いアーチの少し手前で止まる。止まったところの粉が薄く光り、点が浮いた。星のような、粉の明るさ。

 優はノートを開き、最後のページを静かに撫でた。書いたばかりの行が、紙の繊維の上で落ち着いている。「今日も、世界は呼吸している」。音にしなくても、読める。読めると、息が深くなる。

 遠景へ引いたら、この町は小さくなるだろう。

 小さくなっても、音は残る。旗のはためき。波の返す音。風鈴が鳴るかもしれない予感。誰かが笑う前の吸う息。誰かが泣かないための吐く息。

 青が広がる。無風域は地図から消え、等圧線はゆっくりと書き直される。海は周りの海と繋がり、雲は山を越えて流れる。鳥は方角を思い出し、花粉は道を探し、雨は味を変える。

 風がページを閉じた。

 閉じた音は小さく、胸の奥で大きく響いた。指の腹に紙の角の硬さが残り、その硬さが骨に届く。届いた硬さは、痛みではない。立っていられる重さだった。

 ほんの一瞬だけ、風の中に彼女の笑い声が混じった気がした。

 証拠はない。確かめようもない。けれど、誰も否定しなかった。否定よりも、呼吸を続ける方が大事だった。笑い声は風に溶け、海の上で薄くほどけ、空の色に混じる。

 優は目を閉じ、うなずいた。うなずくと、胸の中で言葉が並ぶ。ありがとう。また明日。ここ。

 そして、笑った。泣きながら、笑う。笑い終える必要はない。笑いながら、次の呼吸へ移る。

 星はまだ少ない。

 でも、数えられるくらいにはある。

 鼻の奥が痛くならない夜の匂いの中で、町は静けさをうまく使う。長い言葉を避け、手を動かし、目を合わせ、風を通す。余白は、明日の場所を空けて、ここにある。

 今日も、世界は呼吸している。

 星屑の呼吸。

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