表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/26

第25話「余白」

 静けさは、音のないことではなかった。

 屋上のコンクリートに落ちる薄い影の境目が、風に合わせて少しずつ形を変える。そのたびに、世界のどこかが動いているとわかった。耳を澄ませば、海が砂を撫でる音が、少しだけ厚みを増していた。潮の匂いが鼻の奥をゆっくり押し上げ、朝日がフェンスの金属を温める。遠くから、笑い声がする。子どもの声の高さ。記憶かもしれないし、今ここで本当に起きていることかもしれない。区別はまだつかなかった。

 優は、美凪を抱いたまま、動かなかった。

 腕の中の重さは軽い。軽いはずなのに、腕は震えていた。震えが止まるまで、呼吸を合わせる。彼女の呼吸は、もうない。それでも合わせる。合わせると、胸の奥の硬いものが少しだけ丸くなる。

 風が、ノートのページをめくった。

 世界の呼吸の記録。角がすり減って、紙は指の脂を吸って柔らかくなっていた。めくれたページに、小さな字が並ぶ。「鳥+」「波+」「風++」。昨夜の記録のすぐ下に、今日の余白が白く残っている。書いていない空白は、今は脅しではなく、救いに見えた。

 校庭の方から足音が近づき、踵が砂を踏む乾いた音で止まった。

 「戻ったか」

 海斗だった。ヘルメットを片手に、もう片方の手で無線のスイッチを静かに切る。彼は屋上の入口で立ち止まり、優と美凪を見て、ゆっくり敬礼した。敬礼は短く、まっすぐで、風に負けなかった。

 「任務を離れる。銃を置く」

 そう言って、背から外した銃をケースに戻し、ケースごと床にそっと置く。金属がコンクリートに触れる音は、驚くほど小さかった。置いてしまえば、それはただの形のある物に戻る。彼は一度目を閉じ、開けた。目は泣いていない。代わりに、少し赤くなっていた。

 澪は、その横をよろめきながら通り、フェンスに手をついた。

 膝が、空気の抜けたボールみたいに崩れた。金網に額を当て、空を見上げる。空は薄い青で、雲は細く裂け、太陽は目を細めれば見えるくらいに眩しい。彼女は泣いた。泣きながら、笑った。

 「聞こえる。風の高さ、音の幅。……音が戻ってくるのって、こんな感じなんだ」

 笑い声は、誰のものなのか最後までわからなかった。澪自身の声にも聞こえたし、校庭のどこかで走り回る子の声にも聞こえた。遠くの避難車列が、ゆっくり方向を変える。赤い点が海沿いの道から町の内側へ向かい、ゆるく蛇行しながら戻ってくる。誰かが窓を開け、誰かが戸を押して外へ出る。動く人の影は短く、足元に集まっては離れた。

 加瀬は、端末の電源を落としてから、メガネをはずした。

 そのまま指で目頭を押さえ、長く息を吐く。吐いた息は、言葉よりもよく伝わった。

 「うちの子にも、これを見せたかった」

 彼女の声は、何かをこらえている音ではなく、手放した音だった。校舎の壁に、やっと朝の光が素直に当たりはじめる。白い外壁がすこしだけ黄味を帯び、窓ガラスの内側で埃が金色に光る。

 「先生」

 澪が呼んだ。泣き笑いの顔で。

 加瀬はメガネを握ったまま微笑み、首を横に振る。

 「今は、名字で呼ばないで。加瀬でいい」

 「加瀬」

 呼び直すと、澪の声は不意に低くなった。名前を呼ぶことで、自分が今、ここにいることが確かになったのだろう。彼女は鼻をすすり、フェンスから手を離した。

 「終わりの練習、役に立った。終わり方、忘れない」

 「終わらせない練習も、役に立つよ」

 加瀬はそう言って、屋上から見える町を一緒に見下ろした。

 アーケードのシャッターの赤い文字が、風でめくれて揺れる。避難済のスプレー。そこへ、手押し車を押すおばさんが歩いてきて、シャッター前で立ち止まる。首を傾げ、書かれた赤い文字を指でなぞり、新しい紙を貼る。紙にはマジックで大きく「ただいま」とだけ書いてある。雑で、強い字だった。

 「戻ってくるんだ」

 海斗が小さく言った。

 「それぞれのやり方で」

 港の方では、漁船の一つがエンジンを試運転していた。以前よりも音は低く、控えめだ。波に合わせて浮き沈みするたび、船体の古いペンキがきしむ。桟橋の棒杭に結ばれたロープが湿った音で引き絞られ、戻る。

 優は、ノートの余白に視線を落とした。

 書かれていない面積が、やけに大きく見える。埋めようと思えば、いくらでも埋められる。思いつく言葉を全部乗せれば、真っ黒にできる。でも今は、白いままが良かった。呼吸をするには空気がいる。紙の上にも、空気がいる。

 指先でページの端を押さえていると、遠くから鈴の音が一度だけ届いた。

 風鈴の音。屋上ではない、どこかの軒先。誰かが指でつついたのかもしれないし、風がちょうどいい角度で通ったのかもしれない。鳴って、すぐに止まる。止まった静けさが、しっかり残る。

 「降りよう」

 海斗が言った。

 「下で人を迎える。ここだけじゃない。町じゅうで合図を出す。『大丈夫』って言い過ぎないように、でも、ちゃんと伝わるように」

 優は頷いた。

 美凪の体を抱き直し、毛布で包む。額にかかる髪を、いつものように耳にかける。指輪は、彼女の掌の中。折り紙の小さな輪は形を保ち、朝の光で柔らかく透ける。

 「一緒に、行こう」

 澪は先に階段へ向かった。足取りはまだぎこちないけれど、踊り場で振り返り、優を待つ。扉のわきの白い壁には、昨夜のチョークの粉が手の跡を残していた。上へ、下へ、行ったり来たりした手の動きの跡。線はぼやけ、こすれ、今朝の風で少し薄くなっている。それでも、残っていた。

 一階へ降りると、玄関の前で老女が待っていた。

 隣室の老女。漬物をくれた人。手には、白い紙袋。

 「戻ってこられたのね。おはよう。……これはね、さっき町内会の人が配って行ったのよ。乾いた手に、なにか」

 紙袋を開けると、中には小さな石鹸がいくつかと、きれいなタオルが入っていた。石鹸は、並べて嗅ぐと、少しだけレモンに似た匂いがする。湧き水の匂いにも似ていた。

 「これで手ぇ洗って、顔をぬぐって、笑う練習をしなさいって。……そんなこと言わなくても、あんたたちはできるけどね」

 老女は目尻を濡らしながら笑い、優の袖口を軽くつまんだ。

 「あとで金魚飴も持ってくるよ。あれはね、溶けるの早いから、気を付けな」

 「ありがとうございます」

 優は礼を言うと、玄関の手洗い場へ向かった。蛇口をひねる。水は最初、茶色っぽく濁っていたが、すぐに澄んだ。手の平で水を受ける。冷たい。ひどく、気持ち良い。顔を洗うと、頭の中が少しだけ静かになった。鏡に映る自分の顔は赤く、目は腫れていた。笑ってみる。ぎこちない。それでも、口角は上がった。

 外へ出ると、通りの向こうから人が歩いてくるのが見えた。

 避難車列から引き返してきた人たち。段ボールを抱えた若い父親。両手に小さな鉢植えを持っている女の子。自転車の前かごに布団を詰め込んだおばあちゃん。誰も走らない。早歩きでもない。歩幅を合わせるように、ゆっくりと歩く。

 アーケードの入口では、町内の若者たちが脚立を立て、風鈴を新しく吊っていた。

 「鳴り過ぎると近所迷惑だから、重りちょっとつけて」「いや、今は鳴らせばいいだろ」「じゃあ、初日は鳴らそうか」

 そんなやりとりのまま、風鈴がひとつ、ふたつ、三つと並ぶ。音はばらばらで、重なるところもある。重なった音は、けんかしない。ずれて、揺れて、また離れる。

 アーケードの中、半分シャッターの閉まった魚屋の前で、誰かが覗き込んで「空っぽだ」と笑った。

 「いいじゃん、空っぽから。すぐに並べよう。並ぶものがなくても、氷だけでもいい。冷たい空気があるだけで、人は集まる」

 子どもが駆け出して、すぐに母親に呼び戻される。呼び戻す声は強くない。子どもは返事をして、走るのを歩きに変える。歩くと、靴の底の音がアーケードの天井にやさしく返ってくる。

 学校の玄関に戻ると、澪が風太のぬいぐるみを抱えて待っていた。

 ぬいぐるみの耳は片方ゆるんでいて、糸がのびている。澪は爪先で糸の端を探り、指で固結びを作り直した。

 「名前、ほんとに風太でいいの」

 「いいよ」

 優は答えながら、美凪の体を運ぶ段取りを頭の中で整えた。下の見学室に寝かせて、加瀬と海斗とで手続きを決める。町のやり方に合わせる。長い言葉を使わない。必要なことだけ言って、手を動かす。余白を残す。

 「わたし、しばらくここに居る」

 澪はぬいぐるみを抱いたまま言った。

 「上で風鈴の音、聞こえる場所がある。そこに座る。人が来たら、道を教える。……それ、やる」

 「頼む」

 海斗が言う。

 彼は制服の襟を正し、胸の名札を外してポケットにしまった。名で呼ばれないほうが動きやすいと知っている顔だった。

 「俺は港へ降りる。船の係留、少し見てくる。ロープが乾く前に手を打つ」

 「私は役場に行く」

 加瀬はメモ帳を胸ポケットに差し込み、髪をひとつにまとめ直した。

 「医療と生活の線をつなぐ。病棟からここへ、ここから各家へ。『どうしても』と『できれば』の線引きを、今のうちに」

 互いの目を見る。長い言葉は要らなかった。

 優は、美凪の指にそっと触れた。指はもう冷たい。でも、形は残っている。指の曲がり方。爪の丸み。折り紙の輪を握る力の弱さ。そのすべてが、触れれば思い出せる種類のものだ。

 優は見学室へ戻り、彼女をベッドに寝かせた。

 枕元に、加瀬の封筒。その上に、老女の金魚飴。飴の赤は、朝の光の中で小さく泳いで見える。ノートをひらく。余白はまだ白い。ペンを持つ。書ける。書けない。どちらでもいい。

 書かないことを選んで、ノートを胸に置いた。

 窓の外では、誰かがアーチの続きに線を一本足していた。

 チョークの白い線。線は真っ直ぐではなく、少しだけ歪んでいた。歪んだ線は、次の線を呼ぶ。呼ばれて、また一本足される。やがて半円になって、そして輪になるのだろう。輪にならないままでも、しばらくはいい。輪になる前の形を、人はよく覚えている。

 昼が近づくと、町の音はもう少し増えた。

 自転車のベルが鳴り、鍋の蓋がどこかで落ち、誰かが笑い、誰かがため息をつく。ラジオは「無風域縮小」を繰り返すのをやめ、天気図の説明を始めた。等圧線の間隔が広がり、矢羽が海から陸へ向かって並び、午後には小さな雨があるかもしれないと言う。雨の味はどうだろう。もう、しょっぱくないだろうか。少しだけ舌が動いた。

 海斗から短い連絡が入った。

 「港、良好。係留、安定。魚はまだだけど、鳥が増えた。……そういう報告でいいのかわからないけど、鳥が、増えた」

 「それでいい」

 加瀬の声が無線の奥から返ってくる。

 「鳥が増えた、でいい。今日はそれを大事にする」

 澪はフェンス際の段ボールに腰をおろし、風の角度を耳で測りながら、道を尋ねる人に指で合図を送っていた。手のひらは小さく、指の動きは丁寧だった。

 「アーケード、右。魚屋はまだ空っぽだけど、風鈴が鳴る。聴いてから帰るといいよ」

 「聴いてから帰る」

 道を尋ねた老夫婦が復唱する。復唱の音は、相手の言葉を自分の体の中に置くための、古い手つきだった。

 午後の入り口、雲が薄く集まって、山の稜線に影を置いた。

 屋上からは、風鈴の音がもう少しよく聞こえた。鳴り過ぎることはない。鳴らない時間が、音を強くする。鳴ったとき、誰かの顔が上がる。上げた顔が、次の顔を上げる。

 優は、見学室で美凪の手を握った。

 指の一つ一つに、今朝の風の冷たさがわずかに残っている気がした。気のせいかもしれない。気のせいでも、いい。彼女は「笑って」と言った。それは命令でも、お願いでもなく、合図だった。合図は、受け取ったら次へ渡す。

 ノートを開き、ペンを取る。余白に、短く書いた。

 ——鳥+。波+。風++。

 ——余白、残す。

 ——ここにいる。

 書いてから、やっと笑えた。無理にではなく。じわっと口角が上がり、喉の奥の硬さが少し融ける。笑うという動作は、痛みを完全に消さない。でも動けるくらいには軽くしてくれる。

 加瀬が戻ってきて、見学室の扉にもたれた。

 「町の人たち、賢い。言葉を少なく、手を多く。食べ物は少しずつ、順番に。……ここは、うまくいく」

 「先生」

 優は立ち上がった。

 「今日のうちに、やっておくこと、ありますか」

 「ある。多分、山ほどある」

 加瀬は笑い、首をかしげた。

 「けど、今、あなたにお願いするのは一つだけ。夕方になったら、屋上へ行って、アーチの続きに線を一本足して。真ん中じゃなくて、少し手前で止めること」

 「わかりました」

 「それで、合図になる。『続きはある』って。……それで十分」

 夕方、雲の切れ間から光が一本降りてきて、校舎の壁に長い四角を置いた。

 優は屋上に上がり、チョークを指でつまんだ。白い粉が爪の隙間に入り、指の腹にさらりと残る。アーチの途中に、短い線を足す。真ん中より、少し手前で止める。止めると、続きが生まれる。

 風が線の粉を運んで、誰かの肩につけた。誰かは気づかない。気づかなくても、粉は残る。粉のさわりは、あとで指で触れたときにわかる。そういう残り方をする。

 港の方角から、低い汽笛が一度だけ鳴った。

 町のどこかの家では、鍋の蓋がもう一度落ちた。笑い声が二つ重なり、風鈴が三度鳴り、止まる。止まった静けさに、鳥の羽ばたきが一枚分だけ深く聴こえた。

 夜が来る前、澪が屋上へあがってきた。

 「道、覚えた。風の道。今日はここを通る。明日は、たぶん、少しずれる」

「ずれていい」


 優はチョークを澪に渡した。

 「ずれたら、その線も書こう。ずれた線は、重ねたら太くなる」

 澪はうなずき、アーチの端に小さな印をつけた。

 「私の線。細いけど、いるよ、って」

 「いる」

 優は笑った。

 「ここにいる」

 加瀬が遠くの階段の踊り場から顔を出し、手を振った。海斗の無線が短く鳴り、「明日、朝一で網の修理」とだけ聞こえる。老女は下から「金魚飴、二つ余ったから、あとで取りにおいで」と声をかけた。全部が短い。短いから、消えない。

 夜の入り口、空は薄く紫に沈み、風は昼よりも少し冷たくなった。

 風鈴は鳴らない。鳴らない時間が長いほど、次に鳴ったときの音は深い。屋上のダクトは、まだ細く風を吸い続けている。世界の呼吸は浅く、でも確かに続く。浅い呼吸は、止まらないでいてくれるだけで、十分だった。

 見学室へ戻り、優は美凪の寝顔の横に、ノートを置いた。

 余白は、まだ残っている。残っているから、明日も書ける。書けなくても、白いままでいていい。白いままでいることを、怖がらない。

 「また明日」

 黒板の「また明日」は、午前よりもはっきり読めた。夕暮れの影が字の溝に入り、輪郭を濃くする。誰かが帰り際にもう一度なぞったのかもしれない。誰かが鳴らさずに通り過ぎた風が、粉を運んだのかもしれない。どちらでもいい。

 優は美凪の額に指を当て、短く、笑った。泣きながら、笑う。笑い終える必要はない。笑いながら、息を吸う。吸った息は、ただ気持ちよかった。

 外で、風鈴が一度だけ鳴った。

 世界は、音のある静けさで満ちていた。

 そして、余白は、明日の場所を空けて、そこに在った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ