第24話「笑う」
太陽は、ためらいもなく上がってきた。
校舎の屋上のコンクリートに、薄い金色の帯が一本、ほぐれるように伸びる。海は、灰を脱ぎ捨てたばかりの青を見せた。深い青ではなく、洗ったばかりのガラスみたいな、少し頼りない青だ。だけどその頼りなさが、ずっと見たかった色に思えた。
風は、吹いた。
ダクトの口で白いフィルタが微かに揺れ、管の中を抜ける音は夜よりも明るい。港の旗はためらわず前を向き、波の面が薄い皺を繰り返し、屋上の端に掛けた風鈴が一度だけ鳴った。ほんとうに一度きり。鳴る直前まで鳴らないふりをしていたみたいに、ためて、放して、すぐ黙った。
美凪は、優の腕の中にいた。
カプセルの縁から半身を預け、優の右腕に背中を、左手は優のシャツの胸のあたりを掴んでいる。胸の芯子の灯りはさっきより弱く、しかしまだ規則を刻んでいた。規則は短く、呼吸は浅い。浅いのに、世界の息にぴたりと重なっていた。
「ほら」
彼女は、息を整えてから言った。
声は小さいのに、風に負けなかった。
「世界、ちゃんと息してるよ」
優は頷くしかなかった。喉の奥が熱い。言葉はすぐに溶けてしまう。だから、うなずく。うなずき続ける。腕に感じる体の重さは軽くて、軽さの意味を悟るのが怖い。でも逃げない。逃げたくない。彼女が逃げなかったから。
「聞こえる」
やっと、それだけ言えた。
屋上の風は、さっきよりも高い音でダクトを鳴らし、港の方角から遠い歓声がいくつも重なって届く。家々の窓を叩く風の手、干した布の香り、遠くの犬の吠え声。町じゅうの小さな音が、朝の一段目に乗って流れてくる。
「ね」
美凪は笑った。
唇の色は薄い。頬も白い。それでも、笑った。頬のあたりにうっすら影ができて、目尻の小さなしわが一本、いつもより長く伸びた。
「この風、借りた分、ちゃんと返せたね」
「延滞金、どうする」
優が冗談を返すと、美凪は肩を揺らして笑った。笑いは咳に変わらない。自分の体の使い方を、最後まで選べる人の笑い方だった。
「海、青い」
彼女が小さく呟いた。
優は横顔を見た。長いまつげが、震える。まつげの先に朝の光がほこりみたいに留まって、目の縁が湿っているのがわかる。涙ではない。風の刺激だ。それでも、泣いているみたいに見えた。
「写真、撮って」
彼女が言う。
「私じゃなくて、海」
優はうなずき、スマホを取り出す。シャッターは一度だけ切る。連写はしない。一度だけの写真は、あとで何度も見返せる。画面には青が写っていた。ほんの薄い、頼りない、でも確かな青。
「ありがとう」
彼女が言った。
優の頬に、冷たい指が触れる。冷たさは最初の一瞬だけで、次の瞬間にはその冷たさが体の中を静かに埋めていくのがわかる。どんどん冷える、ではなく、澄んでいく感じ。氷を口に含んで、溶けるまで黙っているときのあの感覚。
「何が」
優は本当に聞いてしまった。
何に対してのありがとうか、わかっていたのに。わかっていたのに、聞いた。聞くことで、彼女からもう少し言葉を引き出してしまう。ずるい。でも聞いた。
「ぜんぶ」
美凪は目を細めた。
「借りた朝、パンケーキ、屋上のアーチ。唐揚げも。指輪も。世界の呼吸のノートも。……優が、いてくれたこと、全部」
指が、頬から滑る。
優は頬を動かさないで、その冷たさを皮膚に覚え込ませる。覚え込ませてしまえば、なくなりにくいと思った。肌はぜんぶ毎日入れ替わっていくのに、そんな理屈、関係ないと勝手に思う。
彼女の胸の灯りが、ふっと弱まった。
胸に耳を寄せれば、まだ聞こえる速さ。目で見れば、光はゆっくり短く。皮膚の下を走る光路の線はやさしく薄れて、星座のような結び目は、まだほどけない。
「加瀬」
優は呼んだ。
声は自分でも驚くほど静かだった。
加瀬は一歩、近づいてくる。白衣は風を含んで膨らみ、髪は耳にかけてある。彼女の目は泣いていない。泣いていない代わりに、全部を見ている。見ることが彼女の仕事だと、ずっと決めている目だ。
「数、落ちてる。けど、整ってる」
彼女は端末を見ないで言った。
「最後に乱したら、嘘になる。だから、触らない」
澪は黙って立っていた。
美凪の手の甲に自分の指を重ね、呼吸の拍に合わせてごく浅く圧をかける。圧は支配ではない。合図だ。合図の分だけ、怖さが隅へ寄る。
「海斗」
加瀬が短く合図すると、海斗は校門側へ無線を入れ、港へも入れ、最後に町の放送系へ一言だけ載せた。「完了、間近。騒がず、聞いて」。音の使い方のうまい人の声だ。
優は、彼女の額に前髪がかかるのを片手で払った。
すぐに、またかかる。風が遊びで戻す。何度でも払う。払うたび、指に細い髪のさわりが残る。ひとつひとつが残る。
「優」
美凪は、最後まで名前を呼ぶ人だった。
「怒っていいよ」
「怒る」
「でも、食べて」
「うん」
「書いて」
「書く」
「笑って」
その言葉だけ、彼女はすごくゆっくり言った。
発音の最後の母音まで、落とさずに運ぶ。笑って。命令でも、お願いでもなく、合図だった。受け取った人間が、次に進めるように置いて去る種類の合図。
彼女の胸の灯りが、止まった。
点いて、消えて。消えたまま。音は鳴らない。機械も鳴らない。鳴らない静けさが、屋上を満たす。風鈴は鳴らない。鳴らないのに、確かに風がいくつも通り過ぎた。
優は、ただ抱きしめた。
強くは抱かない。強さを間違えると、何かを壊してしまいそうだった。壊れないものを壊してしまったと勘違いするのが一番怖い。だから、抱く。重さは軽い。軽いのに、重い。世界の重さがここに集まっているように思えた。
「時刻」
海斗が小さく言った。
加瀬は頷き、端末に短く打ち込んだ。声に出して読み上げない。読み上げる必要のない相手へ向けた作法は、要らない。代わりに彼女は小さく頭を下げた。誰に対してかは、たぶん誰にでも、だ。
澪がそっと手を離す。
手のひらに白い粉がついていた。屋上のアーチの粉。昨夜、指で描いた半円の続き。粉は指の線に沿って残り、肌の熱で少し湿って光る。澪はその手を見つめ、そして力を抜くみたいに指を開いた。
遠くで、風鈴が二度、鳴った。
町のどこだろう。誰かが鳴らしたのか、風のいたずらか。鳴って、止まる。止まって、静か。静けさの使い方だけは、この町は上手だった。葬列より前に、静けさで見送ることを知っている。
優は、ノートを開いた。
手が震える。震える手で、書く。
——太陽。海、青。風。鳴る。
——美凪、笑う。「世界、息してる」。
——「怒っていい」「食べて」「書いて」「笑って」。
——胸の灯り、止まる。
——静けさ、満ちる。
書き終えてペンを置いた指が、白い粉でうっすら染まっていた。粉はさっき美凪の髪に落ちた。指で払って、払えなくて、残った。その残りが、今度はノートの端についた。すべては移る。移ったものは、簡単には消えない。そう信じることにした。
「ここで、少しだけ」
加瀬が静かに言った。
「町のやり方でやろう。大声を出さない。長い言葉を使わない。手を動かす。目を合わせる」
澪とうなずき合い、四人は屋上の片隅に場所を作った。カプセルの側ではなく、アーチの足元。半分で止まっている白い線のちょうど真ん中に、折り紙の指輪と、風太のぬいぐるみを置く。ぬいぐるみの耳は片方がゆるんでいて、風が吹くとぱたぱた揺れた。
海斗が古い毛布を持ってきた。
色はくすんでいるが、匂いは清潔だ。朝の風を吸って、ほんの少しだけ湿っている。優はそれを受け取り、そっと美凪の体にかけた。顔は覆わない。彼女の顔は、風に当てておくべきだと思った。
「手、冷たい」
澪が囁いた。
「でも、形が残ってる。指、こうやって曲がってる」
「最後まで、選んでた」
優が言った。
言えば、事実になる。それなら、言う。
「笑うのも、終わり方も。最後まで、選んだ」
加瀬は遠くの海を見た。
「選ばせないと思ってここに連れてきたのに、最後、選ばれたのは私のほうだった」
「違う」
優は首を振る。
「選んだのは、全部、彼女だよ。俺たちは、その選び方を見て、覚えさせてもらった」
彼女は目を伏せ、短く頷いた。頷き方は、観覧車の話をしたときと同じだった。降りて、ひとつだけ言葉を残すときの頷き。
遠くの港で、汽笛が鳴った。
甲高い音ではない。低い、腹に響く音。町のどこかで拍手が少しだけ起きて、すぐに止んだ。止んだあと、風がまた強くなり、紙灯籠の残りが揺れる。
「下に、運ぼう」
海斗が言った。
声は現実の作業に戻るときの声だった。泣き声ではなく、遠慮でもない。必要なことへ向けた声。優は頷き、美凪の体を持ち上げる。軽い。軽いのに、足が沈む。階段の一段目に白い粉が落ちる。二段目にも、三段目にも落ちる。チョークの跡は思いがけず遠くまで続いた。
教室の前を通る。
黒板には、雨に滲んだ「また明日」が、乾いた顔で残っていた。誰かが昨日の夜から朝にかけて一度、上からなぞった跡がある。筆圧の強い、少し曲がった字。それを見て、優は息を吸った。吸って、吐いた。
「あのね」
階段の踊り場で、澪が言った。
「普通の女の子になりたい、って録画で言った。今も思ってる。でも、今、もうひとつだけ思う。こうやって運ぶの、普通の人にはできない。だから、私は、私のままでやる。普通をあとでやる」
「あとで」
優は繰り返した。
あとで、なんて、考えたくない言葉だ。でも、彼女が言うと、信号に見えた。青になる前に深呼吸する時間をくれる信号。
下まで降りると、廊下の蛍光灯はまだ一本しか点いていなかった。
窓の外の青は濃くなり、校庭の砂が小さく走り、掲示板の端がめくれて音を立てる。避難車列は遠くへ行ってしまい、赤い線は見えない。町はあきらかに朝を始めていて、朝は止まらない。
見学室のある階に出ると、扉の前で老女が待っていた。
隣室の老女だ。漬物をくれた人。目の縁が赤い。手には小さな白い布を持っている。
「おはよう。……最後に、これだけね」
彼女は布を差し出した。
「金魚飴。お砂糖、まだ、わかるでしょう?」
袋の中の飴は一つ。赤い金魚の形をしている。光が透けて、朝の光の中で小さく泳いでいるように見えた。優は礼を言って受け取り、そっと布の上に置いた。持ち帰る、ではなく、預かる。預かったものは、後で返す。そのやり方を、この町は知っている。
見学室のベッドに美凪を寝かせる。
毛布を整え、髪を耳にかけ、指輪を一度外して、彼女の掌に握らせる。指は少し硬くなっていた。硬さに合わせて握る。無理矢理ではない。手がそこに収まる位置を探す。見つかる。
「お母さんに、伝える」
海斗が言った。
優は頷く。言葉が見つからないときに、代わりに頷くのは逃げではないと知ったのは、最近だ。頷くたび、決めたことが体に下りてくる。
加瀬はメモをひとつだけ書いた。「最終出力、成功/損耗停止確認」。
それからペンを置き、机の引き出しから和紙の封筒を取り出す。昨日、空っぽだった封筒だ。今は一枚の紙が入っている。文字は短い。「ここ」。
彼女はそれを封をせずに、ベッドの枕元に置いた。
「観覧車の言葉、やっと届いた」
自分に話しているような口調だった。
澪は頷き、老女はうんうんと二度頷いた。優は、その文字を見て、もう一度だけ笑った。涙と一緒に笑うと、喉の痛みがやわらぐ。笑うという動作は、痛み止めにもなる。
「記録、続ける」
優はノートを膝に置いた。
——下へ。粉、階段。
——老女、金魚飴。預かる。
——加瀬、「ここ」。封をしない。
——笑う。痛み、やわらぐ。
書いている間だけ、手がゆっくり温まる。ひとつの動作に熱が集まるのは、悪くない。熱はあとで消えるけれど、消える前に別の場所へ渡すことはできる。
扉の向こうで、小さな拍手が二回、続けて鳴った。
誰かが遠慮して、指先だけで鳴らした拍手だ。海斗が廊下を覗いて、軽く会釈を返す。町は近いのに、遠慮の距離を知っている。入ってこないやさしさ。外から支えるやさしさ。
太陽はもう屋上のフェンスの向こう側まで上がり、窓の縁に四角い明るさを置いた。風は安定し、旗はまっすぐを覚え、鳥は水面に光の線を引く。ラジオは「無風域、縮小」の言葉を短く繰り返し、やがて黙った。言い過ぎない。黙る勇気を持った声だ。
「食べる」
優は言った。
誰に言うでもなく、でも、みんなの前で。袋から昨夜のパンケーキの最後の一切れを取り出す。冷めて硬くなった生地は、噛むと小さく音がする。カリッ、でもジュワッ、でもない、小さな音。音がすれば、まだ食べ物だ。
「半分」
澪が手を出す。
優はうなずき、半分に割って渡した。渡すとき、二人の指が触れる。触れたところに粉が移る。移った粉は、また別の場所へ移る。線で結ばれたように、渡り続ける。
「美凪、見てる」
海斗が天井を見上げて言う。
「笑われないように、ちゃんと食べる」
「笑われたい」
優は口の端で言い直した。
「笑ってほしい。見て、笑って、指さして、『それ、ださい』って」
「ださいの、いい」
澪が微笑む。
「ださくて、強い。昨夜、言ってた。私も、そうなる」
加瀬が短く息を吐き、袖で目元を押さえた。
泣き声は出さない。泣くときに音を出さないやり方を、彼女は昔から知っている。背中で合図を送る人の泣き方だ。泣くことと、動くことを同時にするための訓練の結果だ。
「少し寝る」
優はベッドの側の椅子に腰をおろし、ノートを胸に置いた。
眠りは来ないと思っていた。来た。短く、浅い眠り。夢は見ない。今日だけは、夢を置く場所がない。
目を閉じる前に、彼は笑った。無理に、ではない。命令でもない。合図に答える笑いだ。頬の筋肉に細い痛みが走って、すぐ引く。引いたあとに、温かさが残る。
「笑って」
耳の奥で、最後の声が繰り返される。
鳴らない風鈴の紐が、短く伸びる。伸びて、戻る。世界の呼吸が窓の外で深くなり、校舎の四角い空間の中に、風が道を作る。道は細いけれど、途切れない。
午前の光が斜めに差し込み、彼女の頬に一本の線を置いた。
その線は屋上の白いアーチの続きに見えた。描かなかった続きを、光が勝手に描き足した。指の粉はもう落ちたのに、線はここにある。
優は笑う。泣きながら、笑う。笑い終える必要はない。笑いながら、次の呼吸へ移る。
世界は、呼吸を取り戻した。
彼女は、静かに止まった。
それでも、笑って終わる。笑って、続ける。
笑う、という動作が、今日の約束の最後の一つだったから。
廊下の向こうで誰かが風鈴を指でつついたらしい、軽い音が一度だけ鳴った。
優は目を閉じ、うん、と小さく頷いた。
ありがとう、と心の中で言って、笑って、息を吸った。
吸った息は、もう痛くない。鼻の奥が、ただ、気持ちよかった。




