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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第23話「世界の息」

 夜明けは、まだ輪郭だけだった。

 空の低いところが白く薄まり、海の灰が少しだけやわらいで、港のクレーンの影が長く伸びる。屋上のコンクリートは冷たく、ダクトの口に巻いた白いフィルタが夜露を含んで重くなっていた。風はある。弱いが、確かにある。耳で聞くより、頬でわかる種類の風だった。


 「始める」


 加瀬が短く言う。白衣の上のカーディガンは昨夜、澪に貸してそのままだ。シャツの袖を二度たくし上げ、端末の電源を入れる。端末の小さな起動音は、体育館にひとりで入った時の床の軋みのように、頼りなくまっすぐだった。


 「準備よし」


 海斗が無線に口を寄せる。校門側、通学路、アーケード、港の角、ぞれぞれの見張り。短い返事が四つ、重ならずに返ってくる。誰も余計なことを言わない。言葉を節約したぶんだけ、呼吸に合わせる余白が増える。


 簡易カプセルの蓋は半分開いたまま。美凪と澪は並んで横になり、背に沿って貼った薄い端子の冷たさに一度だけ肩をすくめた。美凪の胸の芯子は、昨夜よりゆっくり明滅している。澪の脈は一定。二人とも目を閉じ、吸って、吐いて、と口の中で数えた。


 「共鳴、浅く。肩だけ。山は外す」


 加瀬の声は落ち着いている。

 端末の二つの波形が、同じ高さで揺れた。揺れは大きくない。ぶつからない。寄り添って、触れ合う。屋上の風がそれに合わせるみたいに角度を変え、ダクトの内側を撫でる音が一度高くなった。


 「点火、いくよ」


 優はガラス越しに深くうなずいた。握った拳に白い粉の感触が残っているのを、指先が覚えている。夜のあいだ乾いたチョークの粉だ。アーチの続きは、まだ描いていない。


 加瀬の指が端末を二度、軽く叩いた。

 静電が髪の先に触れる。ダクトの口から吸い込まれた風が細い線でスパイラルを描いて管の奥へ進む。供給ユニットのライトが一斉に点き、透明だった計器の針が右へ跳ねる。共鳴二重核、点火。


 世界が、わずかに音を変えた。

 海の面に白い波紋が広がり、空の低いところに薄い輪が生まれる。輪は音を持っていない。でも、胸の奥で確かに鳴った。港の旗が最初はためらいながら、次にためらいなく持ち上がる。鉄の高い匂いと潮の甘さが混じり、鼻の奥が少し痛い。


 「入った」


 澪が低く言った。

 彼女の波形はなめらかに上がり、下がる。美凪の波形がそれに重なる。重なるとき、屋上の風がつられて変わる。学校という四角い箱が、肺の形になっていく。正面の海に、白い筋が増えた。岸壁の鳥が一斉に羽を鳴らし、まだ弱い風をまっすぐ切って飛び立つ。


 世界地図の無風域が、スクリーン上でゆっくり縮んだ。

 灰色だった大陸の塊に細い青が差し込み、山の稜線に薄い霧が現れて尾を引く。等圧線は書き直され、海面温度のグラデーションが滲みを帯びる。紙の上の色鉛筆を指でこすって広げたときにできる柔らかい境目のように、硬かった線がゆるむ。


 「このまま、十分。持続でいく」


 加瀬が言う。

 美凪の指が布の上で、何かを掴むように動いた。空を掴む練習だ。澪はその動きに合わせて肩を少しだけ傾け、波形の幅を合わせる。二人の呼吸は数を数えないでも合った。合うとき、優の胸の固さもほどけた。


 「世界の息、記録」


 優はノートを開き、足元の台の上に置く。

 ——白い波紋、空と海。旗、上がる。鳥、飛ぶ。

 ——等圧線、ゆるむ。山に霧。

 ——屋上、肺。ダクト、声。

 ペン先が震える。震えを字に残す。残せば、あとで読める。読み返すときの顔も、今のうちに想像しておく。


 「出力、上げ幅二。安定」


 加瀬は端末の左右を見比べ、息を整えた。「澪、肩。美凪、腹式を少し深く」


 「了解」


 澪の声は低く、短い。

 美凪は目を閉じたまま、耳で風を測るみたいに顔をわずかに上げる。胸の灯りが一瞬遅れて強くなり、皮膚の下の光路がゆっくり流れを増す。流れは線ではなく、点の集まりだった。点は星座のように結び、動く。


 港の灯台の白が夜の名残を削る。

 アーケードのシャッターに貼られた避難済の赤い文字が、海からの風でわずかにめくれて揺れた。校庭の砂が薄く走り、掲示板の紙が一枚だけ剥がれて宙で踊る。誰かが教室の奥で置き忘れた笛が、どこからともなく短く鳴った。


 そこまでが、予定通りだった。


 「出力曲線、乱れる」


 加瀬の声が半拍、硬くなる。

 端末の右側の波形がわずかに尖り、左の波形が引きずられる。共鳴の肩が滑る。屋上の風がふっと低くなり、ダクトの内を擦る音が濁る。港の旗が一瞬、逆らうように引き戻され、鳥の一群が空で円を描く。


 「右に寄ってる。負荷、美凪側」


 澪が言った。

 彼女の眉間に、細い縦の皺。彼女の波形は揺れ幅を保ったまま、相手の乱れに合わせて呼吸の深さを変える。美凪の胸の灯りが強くなり、皮膚の下に走る光路がまぶしい。指先の色が薄くなる。唇の端が乾く。


 「私が持つ」


 澪は言い切った。

 「切り替え、許可を」


 「待って。まだ、自動範囲」


 加瀬が制止する。

 端末の上に赤い文字が点滅した。個体損耗率 臨界の一歩手前。ベルは鳴らない。鳴らさないで戻せる範囲。戻せるはずの範囲。


 「美凪。腹式、浅く。肩、深く。重心、左」


 加瀬の声は静かだ。

 美凪は目を閉じたまま、首をわずかに振った。振り方は、子どもが嫌だと言うときのように、弱くない。


 「私が始めた呼吸、最後まで届かせたい」


 声は落ち着いている。

 「始まりは、わたしの体で聴いた。だから、ここはわたしの仕事。澪は、終わり方で助けて」


 「でも」


 澪の声が少しだけ高くなる。

 「このままだと、あなたの側が——」


 「知ってる」


 美凪は言った。

 胸の灯りが一段強く光る。光は一瞬、布を透かして外に出た。白い、でも白よりも透明に近い。屋上のコンクリートに落ちる影がほんの少しだけ薄くなる。皮膚の下の光路は星座の線のように結び替わり、背骨に沿ってまっすぐ通る。


 「切り替え提案、保留」


 加瀬が端末に指を置いたまま、視線だけで全員の顔を一周した。

 目が合う。優の喉が乾く。言葉を探す時間は、いつもより短い。


 「怒ってもいいよ」


 昨夜の録画の声が、ふいに頭の奥で再生された。

 怒ってもいいよ。でも、ちゃんと食べて。ノート、続けて。約束は守れないことがある。でも、守れなかったって覚えている力がある。そういう言葉が同時に浮かぶ。今ここで怒るのは、違う。今ここでできるのは、呼吸を合わせることだ。


 「持ち時間、計算」


 加瀬の指が動く。

 「この負荷の偏りのまま継続した場合、六分で臨界。二分を目安に分散へ移行。ベル二回で再接続。澪、肩から背中へ、浅いリンクを増やす。優、呼吸のカウント、声に出して」


 「了解」


 澪の返事は早かった。目が戻る。

 優はガラスに額を寄せ、三つ、四つ、五つ、とはっきり数え始めた。自分の耳が、自分の声を聞き、胸の固さを忘れる。声は薄いガラスを通って中へ入り、機械の音と重なって揺れる。


 「ひとつ」


 美凪が笑った。

 「ふたつ」


 澪が続ける。

 二人の口の動きがそろい、波形の乱れがわずかに整う。屋上の風が再び角度を変え、ダクトの音が細くなる。港の旗がためらいをやめ、鳥が輪から直線へ戻る。地図の無風域がまた小さく削られ、山の霧が太くなる。


 「よし、二分」


 加瀬が息を吸う。

 「澪、浅いリンクから深度一段。肩、背中、腹を割って三割ずつ。美凪、腹式を半分に分けて、上と下。胸の灯り、点滅を短く」


 「いける」


 澪の指が美凪の手の甲の布の上から重なる。

 触れた場所に白い粉が少し移る。粉があると、目がそこへ向く。視線が結ばれ、波形がまたひとつずつ、合う。合うだけで、世界の浅い息がひとつ分だけ深くなる。


 「個体損耗率」


 加瀬が、数字を読み上げずに画面を閉じた。

 大きな声では言わない。言葉を増やせば、手が遅れる。遅れた手は、今日は許されない。彼女の背中は小さくない。誰かの母親の背中だと、優は思った。娘と観覧車に乗って、降りたところで短い言葉を残す人の背中だ。


 「港、はためき、良好」


 無線が短く鳴った。海斗の声だ。

 「避難列、最小速度。逆走なし。学校の方角に視線。皆、見てる」


 見られているとわかると、背筋が伸びる。

 優はノートに一行書き足した。——見られている。背筋、伸びる。字はきれいに、と海斗が言っていた声を思い出して、少し丁寧に書いた。


 「出力、上げ幅一。最後の段差」


 加瀬の指が、端末を軽く叩く。

 世界地図の灰色に、青が細い道を開ける。海の表面に白い筋がぶつかり、ほどけて、また結ぶ。風鈴のある軒先では、鳴るでもなく鳴らないでもなく、紐の結び目が揺れた。アーケードのシャッターの赤は、風の中でやわらいだ。


 「くるよ」


 澪が言うと同時に、曲線が再び尖った。

 同じ場所。美凪側。さっきよりも高い山。澪が肩を入れ、深度を一段上げる。波は少しだけ戻る。戻り切る前に、新しい波が来る。重なる。重なると、下の波が見えなくなる。


 「ベル、二回の準備」


 加瀬が短く言った。

 「まだ。まだ、いける」


 美凪の声は押し出すようではなかった。

 静かだ。静かなのに、よく通る。胸の灯りが強く、明滅が短く、皮膚の下の光路がまぶしく走る。背骨の線は太く、肋骨の間を通る光は細い。細い光は組み紐みたいにねじれ、強くなる。


 「優」


 美凪が、呼んだ。

 ガラス越しに、目が合う。距離はある。距離のせいで声は小さくなる。小さくなった声を拾うために、耳が広がる。広がった耳は、世界の息も拾う。


 「約束、覚えてて」


 「覚えてる」


 優はうなずく。

 「怒る。食べる。書く。描く」


 「うん」


 美凪は笑って、すぐに真顔に戻る。

 「あと、ひとつ。わがまま」


 「言って」


 「鳴ったら、聞いて。鳴らなかったら、待って」


 何が、とは言わない。風鈴の話かもしれない。胸の灯りの話かもしれない。海の波の話かもしれない。どれでもいい。どれでも、約束になる。


 「ベル、用意」


 加瀬が指を上げ——そこで、端末に赤い文字が走った。


 個体損耗率 臨界。


 音は鳴らない。赤い文字は光でしかないのに、耳が勝手に鐘の音を重ねる。ちりん、ではない。金属ではない。柔らかく、それでいて決定に近い音。


 「切る」


 澪が言い、身体を起こしかける。

 加瀬が首を振る。わずかな、しかしはっきりした横の合図。美凪の口元がわずかに緩む。笑いではない。何かを受け取って、胸の中で整えるときの顔。


 「もう少し」


 美凪が言う。

 「わたし、ちゃんと終わらせるから」


 終わらせる、の言い方が怖くない。練習した言葉だ。澪は目をつぶって、頷いた。目を閉じると、涙は戻る。戻った涙は、体の内側で水になる。水は肺を開く。


 「肩、合わせる」


 澪が低くつぶやき、波形を落ち着かせる。

 「終わり方、忘れない」


 優はノートに短く書いた。——終わり方、忘れない。書いた字の上に白い粉が落ち、指で払う。粉は落ちる。落ちても、明日また指に付く。


 世界の画面では、灰の塊がさらに小さく削られていた。

 海の白い筋が増え、山の霧が谷へ流れ、川へつながる。港の旗はためき、漁具のロープが鳴る。鳥が一斉に飛び立ち、校舎の窓の隙間から入った風が廊下の掲示物の端を持ち上げる。去年の体育祭と書かれた文字が一瞬、昼のように見えた。


 「あと九十秒」


 加瀬の声が、初めて震えた。

 震えは小さい。小さいが、はっきりわかる。彼女は端末をもう見ない。視線は二人にだけ向けている。指はベルの位置にいない。鍵盤のないピアノで誰かの演奏に合わせるみたいに、宙で拍を取っている。


 「八十」


 海斗の声が無線越しに重なる。

 「海、白い筋、増加。見てる。皆、見てる」


 「七十」


 澪の声が追う。

 「肩、合ってる。いける。いけるよ」


 「六十」


 優は数え続ける。

 声が震える。震えた声でも、数は数だ。数に意味を与えるのは、あとでいい。今は、数える。黒板に書いた時間割のように、まっすぐ並べる。


 「五十」


 風鈴が鳴った。

 屋上ではない。どこか遠く。誰かが指で触れたのか、風がちょうどいい角度で通ったのか。鳴った。鳴って、消えた。消えた音の形が、耳の奥に残る。


 「四十」


 加瀬の口元がわずかに上がる。

 彼女は何も言わない。言葉は手を止める。手を止めないで、見守る。背中で合図をし続ける。


 「三十」


 世界地図の灰が薄くちぎれ、青の面に吸い込まれた。

 白い波紋は海から空へ広がり、空の輪は薄く高く伸びる。山の霧が谷へ降り、街路樹の葉が震え、アーケードのシャッターが音を立てずにわずかに膨らむ。港の旗はしっかりと前を向く。


 「二十」


 臨界の赤は消えない。

 美凪の胸の灯りは強く、明滅は短い。目は閉じているが、眉間は緩んだ。指先の色は薄く、唇の端は乾いている。呼吸は速すぎない。深すぎない。終わらせ方を守る呼吸だった。


 「十」


 数える声が重なる。優、澪、海斗。

 加瀬は数えない。数えずに、手のひらを空に向けて広げる。指が小さく震える。震えはすぐ止まる。


 「九、八、七」


 海の白い筋が一度、全ての方向へほどけた。

 ほどけたあとに、一本だけ太い筋が残り、港から真っすぐ沖へ延びる。鳥がその上を渡り、旗が一瞬だけ無風のように静止して、またはためく。


 「六、五」


 美凪の胸の灯りが、一段強くなった。

 皮膚の下の光路が、背骨から指先まで走る。指先の爪の下で、小さな星がひとつ灯る。灯って、消える。消えたあとに、熱がわずかに残る。


 「四、三」


 澪が囁く。

 「終わらせない練習、した。終わらせる練習も、した。どっちも大丈夫」


 「二」


 優はガラスに手をついた。

 指の腹に粉の感触。白い粉はここにはない。あるのは記憶だけだ。記憶でも、粉のさわりを思い出せる。


 「一」


 世界が、息を吸った。


 海の表面の白い筋が、一斉に内側へ巻き込み、空の輪は高く上がって薄く消える。港の旗がまっすぐ前を向き、山の霧が谷を走り、街路樹の葉が裏側を見せて戻る。風鈴の紐が一度だけ真っ直ぐになり、音は鳴らなかった。鳴らないのに、鳴った気がした。


 共鳴二重核は、まだ点いていた。

 加瀬の端末の赤い文字は、消えない。個体損耗率 臨界。その文字の上から、新しい短い文字が重なる。安定。二文字だけ。短い。短いから、消えない。


 「——ここまで」


 加瀬が低く言った。

 声は震えていない。端末を見ないまま、手のひらを下へ落とす。合図。出力はゆっくり落ちる。波形はゆっくり広がり、二人の呼吸は浅くなる。浅くなって、整う。整って、止まらない。


 美凪の胸の灯りは、強すぎる明滅をやめた。

 ふつうの速さに戻るわけではない。今日だけの速さだ。今日のためだけに生まれた拍子。皮膚の下の光路は、まぶしさをひとつ分だけ削り、星座の線のようにやさしく結び直された。


 「持って、戻す」


 澪が短く言い、手を離さない。

 彼女の指の背に付いた白い粉は、もうほとんど見えない。それでも、粉があった事実は消えない。粉のさわりは指が覚えている。


 「港、良好。風、安定」


 無線が言う。海斗の声は低く、安堵を混ぜる余裕が戻っていた。

 「町の視線、こちら。拍手あり。声は少ない」


 拍手の少なさは、この町のやり方だ。

 大声を出すと、風が逃げる気がするから。手を叩く音は硬い。硬い音は、今は要らない。要らない静けさの使い方を、町は知っている。


 加瀬は端末を静かに閉じ、息を吐いた。

 吐く音は小さい。小さいまま、遠くまで届く。彼女は言葉を探して、探すのをやめた。背中で合図を送りやすい位置へ一歩下がり、二人を見守る。


 「優」


 美凪が目を開ける。

 光のない瞳じゃない。ちゃんと世界を映す目だ。薄い色の中に、空のわずかな青が混じる。海の匂いがここまで届く。鼻の奥が、痛いくらい気持ちいい。


 「鳴った?」


 「鳴った」


 優はうなずく。

 「鳴って、すぐ消えた」


 「よかった」


 美凪は微笑んで、目を閉じた。

 眠ったわけではない。深く息を吸った。吸い切らないくらいの深さで止めて、吐いた。吐きながら、胸の灯りがやわらぐ。


 「記録」


 優はノートに書いた。

 ——夜明け前、点火。白い波紋。旗。鳥。

 ——曲線の乱れ。美凪側。負荷。

 ——澪「肩、合わせる」。終わり方を忘れない。

 ——臨界。赤。安定。二文字。

——世界、息を吸う。鳴らない音。鳴った気配。

——鼻の奥、痛い。気持ちいい。

 ペンの跡が濃い。濃さは、手の震えの証拠だ。震えても、字は読める。読めるなら、十分だ。


 屋上のダクトは、出力を落としても細く風を吸い続けた。

 海の白い筋は細くなり、空の輪は消えた。山の霧は谷に残り、街路樹は葉を揃え、アーケードのシャッターの赤は乾いた。港の旗は、まっすぐを覚えたまま、ゆっくりと軽くはためく。


 世界は、息を続けていた。

 浅いけれど、続いていた。ひとつぶん深くなったぶんだけ、確かだった。


 加瀬が口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。

 「ここから、下げる。休む。次の段に備える。終わらせ方は、まだ使わない」


 誰も、反対しなかった。

 美凪はうなずき、澪は手を離さず、海斗は無線に短い報告を送り、優はノートを閉じた。ノートの角は胸に当たり、安心した。白い粉のさわりは、骨の近くでまだ残っていた。


 屋上の端で、昨夜描いたアーチは半分のままだった。

 続きは、まだ描かない。描かない余白が、今日の朝には必要だった。余白があると、人は呼吸を忘れない。忘れなければ、次へ行ける。


 世界の息は、続いていた。

 臨界の赤は、静かに消えた。安定の二文字は、短く残った。短いから、消えない。短いから、覚えられる。


 そして朝は、はっきり始まった。

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