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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第22話「星屑の前夜」

 夜の町は、ほとんど影だけになっていた。

 避難車列のテールランプが一本の赤い線になって、海沿いの道路をゆっくり移動していく。音は遠い。ここから聞こえるのは、風がダクトの口を撫でる擦れた息と、校舎のどこかで時々鳴る古い配管の小さな水音だけだ。

 屋上の床は昼の熱を残していない。コンクリートはひんやりして、靴底の薄いきしみがよく響いた。簡易の支柱に括りつけたダクトは、潮の湿り気で柔らかくなっている。白いフィルタは昼よりも透けて見え、内側の金具が月光に細く光った。

 「よし、焼ける」

 優はカセットコンロの火を最小まで落として、浅いフライパンに小さく流した生地を見守った。夜に火を使うのは好きじゃないけれど、今日だけは例外だ。最後のパンケーキ。分厚いのは無理だった。小さく焼いて、四つに分ける。それでちょうどいい。

 「匂い、もう甘い」

 美凪が言った。

 胸の芯子の灯りは、布の下で落ち着いている。明滅の間隔は少し伸びた。彼女はパーカーの袖をきゅっと指先でつまんで、風の方へ顔を向ける。鼻先が赤い。海の匂いが戻っている証拠だ。鼻の奥が少し痛いのだろう。それを確かめるみたいに、目を細めて息を吸う。

 澪はダクトの角度を耳で測って、クランプをほんの少しだけ緩めた。

 「右に一度、上に半分。風が変わる。音が高い」

 「いい音」

 加瀬は短くうなずき、端末の画面を一度だけ覗くと、すぐにポケットへしまった。数字よりも、今は空気の手触りを優先したいらしい。白衣の上のカーディガンは、夜の湿気でわずかに重たそうだった。

 「焦げる」

 優はフライパンを持ち上げて、焼き目を確かめた。片面にうっすら色がついたところでひっくり返す。昼のガスより弱い火でも、鉄は仕事を忘れない。もう一枚。焼けたら一口大にちぎって、紙皿の上へ置く。蜂蜜はない。バターもない。かわりに、ポケットから取り出した小袋の砂糖を指でつまんで、ほんのすこしだけ落とした。

 「はい、最後」

 四人で囲むと、風が一度だけ強くなって、白い粉が少し宙に舞った。粉が薄く顔にかかって、笑いが漏れる。紙皿は軽い。軽さは頼りないけれど、今は悪くない。

 「借りた朝、返すね」

 美凪が、右手の薬指の小さな指輪を撫でながら言った。

 ガチャ景品の、おもちゃみたいなリング。昼の光ではきらきらしたが、夜の月の下ではすこし青く光った。

 「延滞金、取られるぞ」

 優が笑って言うと、美凪は素直に笑って、すぐに目尻を指で押さえた。涙は落ちない。押さえた指先の粉がほっぺにうつって、白い点ができる。点は小さいのに、妙に目についた。

 「取られないように、真面目に返す」

 「じゃあ、延長料金」

 海斗が紙皿から一切れつまんで、ふっと息をかけた。「俺が払っとく」

 「何で払うの」

 「字で」

 彼は胸元の包帯をかばいながら笑い、ベンチに腰をおろした。笑うと痛むのだろう。顔が少し歪む。それでも、笑う。屋上の夜に、笑いの形が残る。形はすぐに風に溶けて、なくなる。なくなるのに、残る。こういうのを覚えておきたいと、優は思った。

 「無線、入れる」

 海斗はポケットから無線機を取り出して、短く開いた。

 「校門、問題なし。避難列、計画通り。上へは来ない」

 「ありがとう」

 加瀬が答えて、ダクトの口へ手をかざした。

 「風の温度が少し落ちた。甘さは保ってる。夜の空気、いい」

 澪は紙皿の一切れを半分に割ってから口に運んだ。

 「甘い。砂糖の甘さじゃない」

 「海の甘さ」

 美凪が続ける。

 彼女はひと口食べて、目を閉じた。咀嚼の音は小さい。その小ささが、なぜか心地よかった。誰も無理に声を大きくしない夜だった。

 「星、戻る?」

 優が空を見上げると、雲の隙間に薄い点がひとつ、滲むように現れていた。

 昼間の人たちが昔つけた名前があるのかもしれない。でも今は、名前はなくていい。見えた、で十分だった。

 「少しずつ」

 加瀬が応える。

 「星だけじゃない。波の音も。今日の夕方から、音が増えた。小さいけど、数がある」

 「数がある音」

 澪が繰り返して、微笑んだ。笑いは薄くて、まっすぐだ。

 「いい言い方」

 「ありがとう」

 加瀬も薄く笑った。

 彼女の笑いは、無理に口角を上げるものじゃない。内側から、空気に押されて出てくる。あの研究棟の白い灯りの下では見えなかった、校舎の夜に似合う笑い方だった。

 「優」

 美凪が、指輪を撫でたまま優の方を見た。

 「もし、明日、怒ったらどうする」

 「怒るよ」

 優は正直に言った。

 「そのあと、食べる」

 美凪の目が、細くなる。

 「よかった。約束、守ってくれる」

 「守れなかったら、書く」

 優は胸ポケットのノートを軽く叩いた。世界の呼吸の記録。今日の分はまだ書いていない。あとで書く。今は、言葉より空気を吸う時間だ。

 「録画、見る?」

 澪が尋ねた。昼に撮ったビデオ。再生したら、ここにいない誰かに話しかける声が、夜に差し込んでくる。差し込んだ声が風に混じって、屋上の隅で一回転して、また空へ上がっていく。

 「今は、いい」

 加瀬が首を振った。

 「明日の朝、確認する。今は、空を見て」

 無線機が小さく鳴った。海斗が受ける。

 校門からの連絡は短い。「異常なし」。彼は同じ言葉を返した。二言で終わる業務の話が、今夜は少しありがたい。言葉を節約できると、呼吸の伴走がうまくいく。

 「寒くない?」

 優が美凪のパーカーの袖をつまんだ。

 「大丈夫」

 彼女は言って、袖口から左手を出した。手のひらは薄い。指は細い。指先は冷たく、でも、芯まで冷えてはいない。優はその手を両手で包んだ。包み方も、もう慣れている。慣れてしまった手つきは好きじゃないけれど、今は役に立つ。

 「指輪、似合ってる」

 「練習だからね」

 美凪は照れたように笑って、指輪を軽く回した。

 「本物は、もっとださいやつがいい。傷ついてもわからないやつ。いっぱい働いて、洗い物して、落としても見つかるやつ」

 「ださくて、強い。いいやつだ」

 優は頷いた。

 「俺も、ださくて、強いの、なりたい」

 「なってるよ」

 美凪は短く言って、視線を空へ戻した。

 星は二つになっていた。遠くの赤い車列が一度角を曲がって、海沿いの道に新しい赤い線を足す。町の灯りは増えない。増えないのに、暗さはもう最初ほど重たくない。

 「ねえ、澪」

 美凪が呼ぶ。

 「普通の女の子になったら、夜どこ行く」

 澪は少し考えて、答えた。

 「コンビニ。新作のアイス、買う。溶けるから急いで帰る。帰り道で友だちに会って、半分あげて、帰ったらもう溶けてる」

 「いい」

 美凪は笑う。

 「わたしは海。夜の海。危ないから、ほんとはあんまり近づけないところ。だけど、明るい足場がひとつあったら、そこに座って、ずっと波を見る」

 「俺は、屋上」

 優は白いアーチを指差した。

 「明るいときも、暗いときも、ここ。チョークで線を引ける場所。誰かと続きが描ける場所」

 海斗は肩をすくめて、無線機をいじりながら言った。

 「俺は風呂。長い風呂。ゆっくり入って、上がったら麦茶。氷を入れ過ぎて腹を壊す」

 「それも、いい」

 加瀬は静かに笑った。

 「私はね、観覧車。ここにはないけど。夜に乗って、動いている間、何も言わない。降りたら、言葉を一つだけ残す。忘れないように」

 「なんて言うの」

 美凪が身を乗り出す。

 加瀬は少し考えるふりをして、短く答えた。

 「ここ」

 「短い」

 「短いほうが、消えない」

 四人で、少しだけ笑う。笑いは風に乗ってどこかへ行く。どこへ行くのかは知らなくてもいい。戻ってくるときがあるから。それで十分だ。

 「記録、書く」

 優はノートを開いた。ページの角はすっかり丸くなり、めくるたびに指が覚えている線の跡が見つかる。今日の欄に、ゆっくりと字を置く。

 ——夜。風、冷たい。甘さあり。

 ——パンケーキ、最後。砂糖少し。音、する。

 ——美凪、指輪。借りた朝、返す。延滞金、話。笑い。

——澪、風の音を耳で測る。右に一度、上に半分。

——加瀬、数字より感触。観覧車の話。言葉は「ここ」。

——海斗、無線。異常なし。字で払う延長料金。

——星、二つ、三つ。戻る。

——赤い車列、線。町の灯り、少ない。暗さ、軽くなる。

——アーチ、半分。続きは明日。

 書きながら、優はパンケーキの粉が指の腹に残っているのに気づいた。白い粉はすぐ落ちる。落ちるけど、落ちたらまたつければいい。明日、チョークをつかむとき、粉はまた指につく。そういう循環を一つでも保てるなら、世界は思ったより頑丈だ。

 「寒くなってきた」

 澪が肩をさすった。薄いジャージの袖では夜の冷えを全部は防げない。加瀬が黙って自分のカーディガンを外し、澪の肩にかけた。澪は驚いた顔をして、それから小さく礼を言った。

 無線機が再び鳴った。海斗が受ける。

 「校門、準備完了。合図を待つ」

 「こちらも」

 加瀬は短く答えて、四人の方を見た。

 「ここまで、よく来た。ありがとう。私はたぶん、明日の朝、忙しくて言えないから、今言っておく」

 美凪が、うん、と頷いた。

 「ありがとうは、明日も言って」

 「言う」

 加瀬は、珍しく即答した。「何度でも」

 夜はさらに深くなり、空は黒さの中に青を混ぜはじめた。星は四つ、五つと増え、目に見えない線で勝手につながっていく。昔の誰かの線引きとは違う。今ここにいる四人の視界が勝手に選ぶ線だ。

 「星座の名前、つける?」

 美凪がいたずらっぽく言う。

 「四つある。何にする」

 「唐揚げ座」

 海斗が真顔で言って、三人を笑わせた。

 「真面目なやつで」

 「じゃあ、風鈴座」

 澪が提案する。

 「鳴るか鳴らないか、わからない。鳴ったら、その夜はいい」

 「それ、いい」

 優は空を見た。確かに、さっきから耳の奥で一度だけ、風鈴が鳴った気がしていた。誰も触れていないのに鳴る音。鳴ってから、すぐに消える音。残るのは気配だけ。気配だけで十分な夜もある。

 「前夜って、静かだね」

 美凪がぽつりと言った。

 「静かにしてると、怖さが増える夜と、やさしさが増える夜がある。今日は、やさしい」

 「うん」

 優は頷く。怖いのが消えたわけじゃない。そこにいるまま、隅へ寄ってくれている。寄ってくれているから、今はパンケーキを食べられる。指輪の話をできる。星を見て、勝手に線を引ける。

 「そろそろ、コンロは消そう」

 加瀬が言って、火を小さく絞ってから切った。

 匂いはすぐに薄くなり、代わりに潮の匂いが濃くなった。風の高さが一度下がり、また上がった。ダクトの口の白いフィルタが、月の光でわずかに透ける。

 「中に入りましょう。体を冷やさない」

 四人は立ち上がった。片付けは簡単だ。紙皿をたたんで袋に入れ、コンロを箱に戻し、ダクトの固定を一度だけ確かめる。支柱はしっかり立っている。夜のあいだ、屋上は空気を吸い続けるだろう。明日の朝まで。明日の朝からも。

 階段へ向かう前に、優は白いアーチの真ん中に、チョークで短い線を一本だけ足した。真ん中ぴったりではなく、すこし手前で止める。止めると、続きが生まれる。続きがあると、人は呼吸を忘れない。

 「また明日」

 美凪が小さく言った。

 「また明日」

 四人で重ねる。音は小さい。小さいのに、屋上の四隅へ届く。届いて、壁に当たって戻る。戻った音が、誰かの背中を押す。

 廊下へ降りると、蛍光灯は一本だけが生き残っていて、床に長い白い帯を落としていた。掲示物の端がめくれて、体育祭の写真が一枚だけ残っている。そこに写っている誰かが、今の自分たちに似た笑い方をしているのが、少し不思議だった。

 見学室まで戻ると、海斗は無線を置いて椅子の背にもたれ、加瀬は端末をチェックしてからテーブルに置いた。澪は窓の外の星をもう一度だけ確かめて、うなずいた。

 「寝る前に」

 優はノートの最後の行に、ひと言だけ足した。

 ——前夜、静か。やさしい。星、戻る。ここにいる。

 ペンを置くと、胸の上のノートの角が骨に当たって、妙に安心した。

 息を吸う。吐く。三回目でまぶたが重くなる。四回目で背中が椅子に馴染む。五回目で、遠くの海がひとつ分だけ深く息をする音がした。今夜は、それで十分だった。

 灯りを落とす前に、加瀬が短く言った。

 「おやすみ」

 「おやすみ」

 声が重なり、静けさに溶ける。

 外では、避難車列の赤い線が、まだ遠くをゆっくり移動している。屋上のダクトは夜の風を細く吸い込んで、校舎の四角い箱の中を静かに満たしていく。星がひとつ増え、またひとつ増える。誰にも名前を呼ばれないまま、光の点は空に残る。

 世界はまだ浅い息をしている。でも、確かに息をしている。

 前夜は静かに終わっていく。明日が始まる場所まで、しずかに連れていってくれる。四人の呼吸が並んで、そこへ世界の呼吸が一つ重なって、夜はようやく満ちた。

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