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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第20話「逃避のない逃避行」

 朝の港は、片手で持てるほど小さくなっていた。

 海面はまだ灰色の膜に覆われ、波と呼ぶには頼りない皺がよどんでいる。避難命令から一夜。トラックの列はとうに出て行き、交差点に立つ警備の標識は風もないのに揺れて見えた。揺れているのは景色じゃなくて、僕の体のほうかもしれない。

 それでも足は、海から離れなかった。

 逃げるなら山方面だ、と言っていた誰かの声を背中で聞きながら、僕らは反対へ向かう。町の中心。学校へ。美凪がそう決めたからだ。

 「最後の稼働、ここがいい」

 彼女はそう言った。

 病衣の上に着たパーカーの袖口を指先でつまみながら、校門の錆びたプレートを見上げた。潮で白くなった文字は、昔はきっともっと立派だったんだろうけど、今はもう、ほとんど町の影になじんでいる。

 「ここで始まったしね、わたしたち」

 「ここでサボったし、ここで怒られたし、ここで唐揚げ食った」

 僕が並べると、美凪は笑った。笑い方は前よりもゆっくりで、胸の芯子の灯りに歩幅を合わせている。

 「あと、ここで“また明日”って言った」

 校舎の廊下は、潮の匂いを吸い込んでひんやりしていた。窓は半分が割れ、半分は開かない。階段の踊り場のガラスの向こうに、海が水平に横たわっている。昔、あそこを青い筆でなぞった図工の時間のことまで、変に鮮明に思い出す。

 教室の前まで来て、僕らは一度立ち止まった。

 黒板の上の“また明日”は、誰かの手が拭おうとしたみたいに滲んで、最後の「日」の棒だけがくっきり残っている。雨が染み込んだせいだろう。教卓の引き出しを開けると、まだ湿った紙の手触りが指先に貼り付いた。

 「あるかな」

 「あるよ」

 引き出しの底の段ボール封筒を切ると、中から写真が出てきた。風鈴祭りの夜。屋台の灯り。金魚の袋。浴衣の裾。画面の端に、小さな僕と、美凪。たぶん中一くらい。二人とも、口に綿飴の砂糖をくっつけて笑っている。背景の風鈴に書かれた「また明日」の札が、ぼんやり白い。

 「かわいかった」

 美凪が真顔で言う。

 「いまもかわいい」

 僕が言ったら、さすがに彼女は吹き出した。咳に変わる前の短い笑いだ。笑うと胸の灯りが微かに明るくなって、皮膚の下で星の道がやさしく結び直される。

 「持っていく?」

 「持っていこう。海斗に見せる」

 そう言って、写真を厚いファイルに挟んだ。加瀬が持ってきた“濡らしても大丈夫”なやつだ。彼女は扉の向こうで、ケーブルの束を両肩に担いでいた。白衣の上にグレーのカーディガン。ポケットから見える細いドライバーの柄が、今日の仕事を示している。

 「屋上、開けるわよ」

 加瀬が言うと、澪が先に階段を駆け上がった。

 濃紺のジャージ。髪はタイトにまとめられて、襟足に汗が見える。彼女の足は軽い。軽いけれど、急がない。段差の隙間をたしかめる目の動きを、体が覚えている。

 鍵のかかった重い扉を押し開けると、そこに空があった。

 風はまだ弱い。でも、ゼロではない。港から吹き上げてくる空気が、コンクリートの床で一度渦を巻き、屋上のフェンスを撫でて抜ける。鉄の匂いと潮の匂いと、塗装がはがれかけた匂い。

 「ここ、好き」

 澪が小さく言った。

 好き、という言葉が彼女の口から出るのは、最近になってようやくだ。言ったあと、少し照れたみたいに目線を落とし、すぐに上げ直す。上げ直した目の先に、海が広がっている。

 僕らは、持ってきたものを並べた。

 バッテリーユニット。風向を読む簡易センサー。ケーブル。軽量のダクトを折りたたみ式の支柱で固定するためのクランプ。廃材の鉄パイプ。養生テープ。油性ペン。チョーク。バケツ。全部が全部、どこかで見たような町の部品から借りてきたみたいに雑種で、でも今の僕らにはぴったりだった。

 「海からの風、直に取り込む。ここを『呼吸の穴』にする」

 加瀬が指で示す。

 「研究棟みたいな精密な吸気じゃないけど、最終段階の前に、町の風の癖を身体に覚え込ませておきたい。数字じゃなくて、感触で」

 「感触、大事」

 美凪がうなずき、ダクトの先を両手で抱えた。軽いアルミの管が、彼女の胸の灯りへ向けて延びる。管の口に、コットンのフィルタを二重にして、砂と虫を除ける。テープで巻く。巻く音が、風の音と混ざって、少しだけ心が落ち着いた。

 「針金、ちょうだい」

 僕が言うと、澪がすぐに差し出した。

 針金をフェンスに回して、ダクトの角度を微調整する。海の表面を舐めてくる流れが、屋上の角度でどう変わるのか、耳ではっきりわかるほどになってくる。風が息をする。息が風になる。

 加瀬は、ケーブルを発電ユニットに接続しながら、ぽつりと呟いた。

 「娘と見たかった景色、今やっと見える」

 その声は、風の上に置かれた。

 僕は振り向いた。彼女は視線を落とさない。そのまま、ケーブルの端を確認する。観覧車のゴンドラを見上げるみたいな目で、海を見ている。

 「見えます?」

 「見える。あなたたちのおかげ」

 「見てって」

 美凪が笑う。

 「わたしたち、けっこう、いい感じだから」

 「知ってる」

 加瀬の口元がやわらいだ。

 いつからだろう。彼女の笑いは、無理に唇を引っ張り上げるものではなく、内側からゆっくり出てくるものに変わっていた。研究棟の白い蛍光灯の下では見えなかった変化が、屋上の風の下だとちゃんと見える。

 屋上の一角に、僕は白いチョークで半円を描いた。

 指先で粉が落ちる。アーチは半分で止めた。最近の儀式だ。止めておく。誰かと続きが書けるように。

 「さて」

 海斗の声が階段から聞こえ、全員が振り返った。

 作業用のベストの上から薄手のコート。胸元の痣は包帯の下に隠れている。顔色は悪くない。悪くないけど、動作に痛みが混ざるときだけ、肩の筋がわかりやすく動く。

「集合所の最後尾、見てきた。紙、効いた。怒るやつ、しばらく黙った」


 「紙のくせに偉いね」

 美凪が言うと、海斗は肩をすくめた。

 「字がきれいだと、人はちょっと立ち止まる。先生が言ってた」

 「どの先生?」

 「国語の。チョークの音が嫌いだった先生」

 そんな話も、もう笑える。

 海斗は屋上の隅に座り、工具の箱を開けた。僕らが作った支柱の固定を見て、何も言わずにベルトの位置を直す。沈黙のうまい手が、ここにもいる。町の人はだいたい、沈黙で手を動かす才能を持っている。

 準備は、太陽の高さをひとつ分、下げさせた。

 夕方の光が海面で揺れて、屋上のコンクリートにオレンジの帯を転がす。加瀬が出力計を覗き込み、首を傾げた。

 「どう?」

 僕が問うと、彼女は数字の画面を手で隠し、耳に手を当てた。

 「風の音が変わってきた。高い。たぶん、硫黄が落ちてる。海の甘さが少し戻る」

 「甘い海」

 美凪が目を細め、フィルタを通した空気を両手で掬うように受けた。

 彼女の鼻先が、ほんの少し赤くなる。鼻の奥が痛いほど気持ちいい、と言っていたいつかの言葉が、現実に触れる。

 「ねえ」

 美凪が僕を見た。

 「お願いがある」

 「なに」

 「黒板、もういちど書いて」

 「“また明日”?」

 「うん。滲んだやつ、上書き」

 僕は教室に戻り、チョークを握って黒板の前に立った。

 手が震える。震えをごまかさずに、そのまま一画ずつ置いていく。曲がっても、欠けても、白い線がつながっていけばいい。書いて、離れて見る。さっきよりは、はっきりしている。

 屋上へ戻ると、美凪は黒板の写真を見せてくれと言った。

 スマホの画面を二人で覗き込む。夕方の光で少し黄色っぽく写った「また明日」が、指先の油でぼやける。指で拡大すると、チョークの粉の粒まで見える。

 「これ、ノートに貼ろう」

 「貼る」

 ノートの余白に仮留めして、ページを閉じる。ページが胸に当たる。硬い。硬いのに、落ち着く。

 「さて、配線は完了。吸気良好。昼より風がある。いける」

 加瀬の声が、少しだけ上ずっていた。

 「ここで軽く回し、身体で確かめる。負荷はかけない。夜にはいったん落とす。明日の朝、最終の前に、もう一度」

 「ここで、やる」

 美凪が言う。屋上のアーチの片方の端に腰を下ろして、海のほうへ足を伸ばした。足首が細い。靴のつま先をくるくる回して、日が暮れるまでの短い時間を数える。

 「逃げないの?」

 澪がその隣にちょこんと座って訊いた。

 「逃げないよね、って意味じゃなくて。逃げるみたいに見えるけど、違うよね、って」

 「うん」

 美凪は笑って、うなずいた。

 「逃避のない逃避行。名前、長い」

 「タイトルっぽい」

 僕が言うと、海斗が喉の奥で笑い、痛そうに胸をさすった。

 「逃避って、さ」

 海斗が言った。

 「逃げる先に、誰かの顔があるなら、それは逃避じゃなくて移動だと思う」

 「移動」

 僕が反芻する。

 移動なら、悪くない。移動なら、次がある。逃げ切ってしまう物語じゃなくて、次の場面に繋がるスタッフロールの途中、みたいな。

 加瀬の合図で、簡易出力が入った。

 ダクトの口から取り込んだ風が、管の内面を擦って低い音を鳴らす。発電ユニットのライトが点き、ケーブルの被膜が指先に静電の痺れを持ってくる。美凪の胸の芯子が、いつもより穏やかなテンポで明滅し、澪の首筋の脈と合う。二つのリズムが、屋上の風と一緒にゆっくり揺れる。

 「肩だけ、重ねる」

 加瀬が言う。

 澪はうなずき、美凪の手の甲に自分の指先を重ねた。屋上の白いチョークの粉が、彼女の爪に薄く付く。粉の白は月の前借りだ。夕陽の下で、もう夜の色を少しだけ持っている。

 僕は見学室代わりに立てたガラス越しに、二人の呼吸に合わせて呼吸を重ねた。

 吸って、吐いて。三回目で肩の力が抜ける。四回目で足の裏の感覚が整う。五回目で、海の表面の皺がほんの少し滑らかになる。今この屋上と海のあいだに、見えない細い管が一本通って、世界の浅い息が、ひとかたまりだけ深くなる。

 「……いい」

 加瀬の声が、素直だった。

 「ここでいける」

 風の音が強くなる。

 町の中心にあるこの四角い屋上は、思った以上に風の分岐点だった。海から上がってくる流れが校舎の角で二つに割れ、一方は港、もう一方はアーケードのほうへ戻っていく。遠くで、誰かが打ち上げ花火の残骸を片付ける金属音がした。祭りの最後の夜みたいに、少し寂しくて、少し清々しい。

 「見ろ」

 海斗が顎で海を指した。

 さっきまで灰色だった海面に、オレンジが一筋落ちていた。反射じゃない。水自体の色が、ほんの一滴だけ変わる瞬間。夕陽が海に落ちていく。落ちる音はしない。音がないのに、胸の奥で確かに音がする。

 「写真」

 美凪が小さく言う。

 僕はスマホを構え、連写しなかった。シャッターを一度だけ押した。押すまでの間が長い写真のほうが、あとで何度も見返す。何度も見返すと、そこにいなかった人にも見せられる。

 「加瀬さん」

 僕が呼ぶと、彼女はすぐには振り向かなかった。

 代わりに空を一度見上げてから、こちらに顔を向けた。目の中に、夕陽がひと欠片入っている。

 「娘さんがいたら、叱られると思いますか」

 「叱られる。きっと」

 彼女は少し笑った。

 「“また無茶して”って。でも、最後には同じ景色を見ると思う。私とじゃなくて、君たちと。だから、叱られてもいい」

 「叱られてもいい」

 美凪が復唱して、笑い、咳を二回した。

 咳は短く収まった。咳のたび、胸の灯りが揺れる。揺れて、戻る。そのたび、屋上の風の向きがほんの少し変わる気がした。

 「そろそろ落とす」

 加瀬が言って、出力を静かに下げた。

 ダクトの音が薄くなり、ユニットのライトが二段階暗くなる。風は止まらない。止まらなくていい。止まらないで、夜に引き継がれる。

 「腹、減った」

 海斗が正直に言った。

 「唐揚げ、ないの」

 「あるよ、たぶん」

 僕はリュックを漁って、紙袋から冷めた唐揚げを取り出した。

 祭りの夜、余った分をもらって、なんとなく詰めておいたやつだ。油の匂いは弱くなって、代わりに紙の匂いが強い。でも、噛めばちゃんと音がする。

 「カリッ」

 美凪が嬉しそうに言う。

 「音、する。それで充分」

 四人で分け合う。

 澪は一つ目を半分に割ってから口に運び、二つ目はそのまま食べた。加瀬は最初、遠慮していたが、結局最後のひとつを取った。海斗は「うまい」と言って、胸の包帯をかばいながら慎重に噛む。

 日が落ちる。

 オレンジ色は薄くなり、海は深い藍へ近づく。屋上のアーチの白い線が、月の光をまだ借りられない暗さのなかで、かすかに浮いている。僕はチョークを取り出して、今日のぶんの続きの線を一本だけ足した。真ん中の少し手前で止める。続きは明日だ。

 「戻ろう」

 加瀬が言った。

 「夜の冷えは、体に悪い。ここはしばらくこのまま。朝いちで上げる」

 「鍵は」

 「開けておく」

 彼女は少し笑って、口元に指を当てた。

 「泥棒は、今この町には来ない」

 階段を降りると、廊下の蛍光灯が一列だけ生き残っていて、薄く床を照らしている。掲示物の端が風でめくれ、体育祭の写真が一枚だけ残っている。そこに写っている誰かの笑い方が、今ここにいる僕らの笑い方に似ていた。

 教室の前で、僕は黒板の前に立った。

 “また明日”。さっき書いた文字は、もう乾き始めていて、粉が落ちない。粉が落ちないというだけで、明日は本当に来るのかもしれないと思える。根拠はない。根拠のない思い込みが、今は役に立つ。

 「明日」

 美凪が小さく言った。

 「また明日」

 「また明日」

 僕らは声を重ねた。四人の声は高さがばらばらで、でも拍は合っている。合っていればいい。屋上のアーチと同じだ。線がまっすぐじゃなくても、真ん中で会える。

 校門を出ると、海のほうから冷たい風が一度だけ吹き抜けた。

 風鈴は鳴らない。鳴らないけれど、どこかで誰かが指で鳴らしたような気配だけが、耳の奥に残った。町の灯りは少なく、遠くの避難列の赤いテールランプだけが、細い川みたいにずっと続いている。僕らはその川を横目に、研究棟のほうへ歩いた。

 歩く途中、アーケードのシャッターに残る赤いスプレーの「避難済」を見た。

 塗りたてのときほど派手じゃない。少し剥がれて、街の色と混ざっている。混ざっているのに、読める。読めるうちは、帰って来られる。帰ってきたとき、この文字は剥がす。剥がすなら、僕の手で。

 「なあ」

 海斗がふいに言った。

 「今日、やったこと。なんて言うんだろうな」

 「リハーサルと……逃避のない逃避行」

 僕が答えると、澪がうん、と頷いた。

 「それ、好き」

 「長いタイトル、いいよね」

 美凪も笑う。

 笑うたび、胸の灯りがひと呼吸だけ明るくなる。明るくなった分だけ、周りの暗さが薄くなる。薄さはすぐ戻るけれど、戻る前に、誰かの足音が前へ進む。

 研究棟の前まで戻ると、門の脇に避難の案内板が立てかけられていた。

 矢印は海とは逆を向いている。僕らはそれを横目に、いつもの通用口から中へ入る。加瀬が端末で最小限の電源を上げ、夜勤の技師に短く挨拶をする。夜勤の技師は「おかえり」と言った。誰に言うでもない挨拶だ。

 「今日はここまで。寝る」

 加瀬が言った。

 「三時間。食べるやつは食べる。ノート書くやつは書く。録画するやつは、……そうね、今日はもういい」

 「はい」

 僕はノートを開いた。

 今日の日付の欄に、ゆっくり書く。手が震えたままだと、字の形が子どものころに戻る。戻ってもいい。戻った字は、読み返したときに照れない。

 ——町の中心へ。学校。黒板「また明日」上書き。

 ——教卓の引き出し、風鈴祭りの写真。砂糖の口。笑い。

 ——屋上、簡易設備。ダクト。風、入る。

 ——加瀬「娘と見たかった景色」。

 ——澪「ここ、好き」。

 ——夕陽、海へ落ちる。写真、一枚。

 ——アーチ、半分だけ。続きは明日。

 ——逃避のない逃避行。移動。

 ——風、冷たい。鳴らない風鈴の気配。

 ——明日。また明日。

 ページを閉じる。ノートの角が胸に当たる。硬い。硬いのは、覚悟の形だ。

 ベンチに体を預け、目を閉じる。機械の明滅が二つ分だけ落とされ、廊下の奥から誰かの靴音が一度だけ響く。遠くで海がひとつ息をして、その息がこの建物の中へ届く。届いたと信じる。信じることが、今は仕事だ。

 明日は、今日の続きにある。

 逃げないで、でも、走る。

 逃避のない逃避行は、僕らの足跡の名前になる。そう決めて、呼吸を整えた。吸って、吐いて。三回目で、眠りが来た。四回目で、眠りが深くなった。五回目で、世界の浅い息が、少しだけ深くなる音が、夢の手前で確かに聞こえた。

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