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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第19話「裏切りの定義」

 避難命令は、昼の町内放送で届いた。

 灰色の雲を押し上げるような高い音のあと、機械の声が町の名前を呼び、数字を読み上げる。四十八時間後。全域退去。指定の集合所。持ち出せる荷物の重さ。家畜は放すこと。鍵は掛けず、窓を開けること。最後に、繰り返す、が二度。

 優は母の店に駆け込んだ。シャッターは半分下りたままで、奥の台所で鍋の蓋が震えている。母はいつものエプロンで、両手を腰に当てて立っていた。立っているだけで、もう答えが決まっている背中だった。

 「行かない」

 言う前からわかっていた言葉が、やっぱり出た。母は鍋のちいさな湯気を見ている。見るものがないから、湯気を見ている。

 「行こう」

 優はまっすぐ言った。声を柔らかくしない。柔らかさで負けたくなかった。

 「家は置いていける。鍋も置いていける。母ちゃんは置いていけない」

 「ここが家だよ」

 「俺もそう思ってた。でも、家って、人にくっつくほうが強い」

 背中が一度だけ揺れた。エプロンの紐が左右に小さく跳ねる。母は鍋の火を落とし、振り返った。目の縁が赤い。怒っているときの赤ではない。

 「誰に頼まれたの。研究の人?」

 「頼まれてない。俺が連れていきたい」

 言い切ると、母は目を細めた。細めた目で、子どものころから変わらない癖を探すように彼を見た。嘘をつくときに口角が下がる、と昔言われた。今は下がっていない。それを確認すると、母はタオルで手を拭いた。

 「わかった。行く。けど、あの子は」

 美凪のことだ。店のカウンターの上には、風鈴祭りの写真立てが置かれたままになっている。二人で笑っている。笑い方は、今とほとんど同じだ。

 「あの子は——」

 言いかけて、優は言葉を変えた。

 「あの子は、俺たちの先に行く。だから、俺たちは追いつく準備をする」

 母は薄く笑った。笑いながら泣くときの顔。両方の力を半分ずつ出す顔。

 「追いついたら、怒られるよ」

 「怒られに行く」

 店の戸口から顔を出したのは海斗だった。制服ではなく、作業着に近い簡素な防護ベスト。背中の小さなプレートが擦れて白くなっている。

 「妹、乗せる。老女も。三人席に四人詰める」

 言いながら、彼は店の奥を覗く。「おばちゃん、支度を」と勝手知った調子で鍋を片付け、非常用の水の入ったタンクを肩に担ぎ上げた。肩に当たる部分だけ、古い包帯でクッションが巻いてある。

 「海斗」

 優は短く呼び、目で礼を言う。海斗は顎を上げただけで、奥の棚に置かれた豆皿を新聞紙で包んだ。

 「いるものだけ」

 「いるものが、むずかしい」

 母が言った。言いながら、包丁を布で包み、肩に掛けた布袋へ入れる。鍋の蓋は置いていく。蓋を置く音が、案外大きい。置いていくものの音は、持っていくものより大きい。

     *

 避難リストは、町のあちこちで同じ光景を作った。誰かが戸口に立ち、誰かが泣き、誰かが笑う。笑いは、泣きに負けない。優は母を海斗の車へ送り、妹が抱えた猫のキャリーを受け取った。猫は静かだった。静かなのに、キャリーの網の部分から鼻先を出して空気を嗅ぐ。空気が変わる前に、匂いを覚えようとしているのだ。

 老女は、台所の引き出しから小さな鍵束を取り出し、優に渡した。

 「部屋の鍵、全部。開けっ放しにするほうが怖いから、若いのに預ける」

 「預かります。戻ってきたら返す」

 「戻ってきたら、壁、三回」

 「三回」

 指で空気を叩く。老女も叩く。彼女の叩く音のほうが軽い。軽さは、強さの別の形だ。

 海斗は一度だけ時計を見た。秒針の位置を覚える癖がある。覚えた時間を、体の中のカレンダーに重ねる。

 「三十分で第二集合所。そこから護送車」

 「行ってくる」

 優が言うと、海斗は短くうなずいた。彼はそのまま運転席に乗り込み、窓の外に身を乗り出して「任務に戻る」とだけ告げた。言い方は軍警のままなのに、目は町の人のものだった。車は煙のような排気を小さく残して、交差点の向こうへ消えた。

 残った町は、いつもより音が多いのに、静かだった。静けさは、音の種類の問題じゃない。音が同じ方向へ進むとき、静かに聞こえる。避難の準備は、音をひとつの方向へ並べる作業だった。

 優は研究棟へ走った。靴底がアスファルトの継ぎ目を踏むたび、白い補修の線が眼の端で跳ねる。門の前、警備の交代。海斗の顔は今はいない代わりに、知らない兵士の顔が二つ。無表情の作り方が雑だ。雑な無表情は、逆に感情が透ける。

 「通る」

 短い。番号札を見せる。加瀬の許可印。兵士は一瞬、眉を動かし、通した。

 集中区画の前室で、加瀬が待っていた。白衣に薄いカーディガン。髪は後ろでひとつに結ばれている。結び目のきつさで、彼女の疲れがわかる。今日はきつい。きついけれど、ほどけていない。

 「避難の段取りは」

 「海斗が回してる。母は行った。老女も」

 「よかった」

 よかった、と言える材料が一つでも増えると、部屋の空気が少し軽くなる。軽くなった空気は、機械の音をやわらげる。

 「上から、通達」

 加瀬はそう言い、腕の端末を机に置いた。画面には短い文が並ぶ。上位施設への移送命令。適合体一名、即時。同行者不要。研究責任者には追って通達。理由、極秘。

 「強行?」

「強行」


 彼女は目を細くした。細め方は怒りに似ているが、怒りではない。決めるときの顔。

 「時間、稼ぐ」

 加瀬は端末のケーブルを一本抜き、別のスロットに差し込んだ。差し込み口の金属が小さく鳴る。小さな音に、決意の半分が入っている。

 「データを偽装する。彼女のコアの状態を『移送不可』にして、上位施設の自動審査を通れないようにする。短い。長くは持たない」

 「十分でも、助かる」

 優は頷いた。頷きながら、自分の肩が強くなるのを感じた。強くなる肩は、まだ震えももっている。震えごと、強くなる。

 「澪は」

 「訓練室。待機させてある。必要なら、動かす」

 必要。言葉はうつくしくないが、こういうときに一番信用できる。

     *

 夜になると、研究棟は外から黒く見える。窓の灯りは落とされ、内側の光は通路の足元だけを照らす。すべてが見えないわけではない。見える部分がきちんと選ばれている。

 侵入は、照明の影を拾うように始まった。

 最初の足音は、いつもの見回りと同じリズムで、階段を上ってきた。次の足音は、階段を使わずに壁の向こうから突然近づいた。エレベーターのドアが開く音はしない。非常用のリフトだ。音を減らすつくりになっているが、ゼロにはできない。ゼロにならない音を、訓練された耳は拾う。

 加瀬は端末の画面を二つに分割し、一方にコアの状態を、一方に施設内の監視の足跡を映した。足跡は温度の濃淡で表現される。薄いのが通路の巡回、濃いのが武装。武装の点が四つ。一列には並ばない。二と二に分かれて、部屋を囲むように動く。

 「来る」

 加瀬は短く言い、制御卓のカバーを外した。中に、灰色の金属片が並んでいる。灰色は、目に入るのに記憶に残らない。残りにくい色だ。

 「優、搬出用の車両は北のスロープ。澪と一緒に、止めて」

 「わかった」

 「私は、美凪を『別室』扱いにする。ベッドごと車輪をロックして、カードを偽装。押せない。押せても、動かない」

 彼女は無駄を嫌う手つきで操作を続けた。指は細いのに、動きは骨太い。骨が決めて、肉が従う動きだ。

 通路の端で、武装の影が現れた。暗視ゴーグルの緑の点が二つ。銃口の黒は光を吸う。先頭の隊員が、静かに手で合図を送る。二秒ののち、扉の鍵が外側から解錠された。光学印。静かな音で、ドアが左右に開く。

 「研究責任者、加瀬——」

 先頭の隊員の声は低く、よく通る。名乗りに続く呼称は、職名ではなく番号だった。番号で呼ぶのは、責任を切り分ける便利な癖だ。

 「命令だ。適合体を上位施設へ移送する」

 「状態が悪い。移送不可」

 加瀬は間髪入れずに言った。モニターに映した美凪のデータ——心拍の波形がゆっくり揺れ、隅の数字が赤く点滅する。偽装だ。けれど、完全な嘘ではない。一日の終わりの彼女は、いつも疲れきっている。

 「上位施設で判断する」

 隊員が一歩進む。背後の二人が部屋の隅を確認し、もう一人がベッドのロックに手を伸ばした。指がカードを差し込む。カードは正しい場所に、間違った番号を持って入る。ロックは反応しない。

 「カードが違う」

 「私の許可がないと動かない」

 加瀬は端末を持ち、隊員の視線の高さに掲げた。「患者だ」と続ける前に、一度だけ呼吸を整える。整えた呼吸は、言葉の背骨になる。

 「この子たちは資産じゃない。患者だ。移送の決定権は、担当医にある」

 隊員の口角がわずかに動いた。笑いではない。面倒の前に出る顔だ。彼は無言で銃口をベッドの車輪へ向け、利き手ではないほうの手でロックを外側から蹴った。金属が嫌な音を立てる。

 「やめろ」

 優の声が、廊下から飛んだ。別の扉。別の影。それが澪だった。濃紺のジャージの上に簡易ベストを着け、顔は青白い。手には、スロープの鍵。鍵は扉を開けるだけではない。扉の向こうの車輪も止める。

 「搬出車両、止めた」

 澪が言った。息が上がっている。上がった息に、少し笑いが混じる。笑いは勝手に混ざるのではなく、混ぜたのだ。混ぜる技術を、彼女は覚えはじめている。

 「退け」

 武装の男の視線が澪へ流れる。そのとき、廊下の奥で甲高い金属音が響いた。北のスロープ側。優が回り込み、車止めのバリケードを起こしたのだ。古い鉄の塊は重く、上下に錆びた傷が幾筋も走っている。人の背丈より低い。低いのに、車輪の前では高い。

 「止めたぞ」

 優の声は小刻みに震えている。震えをごまかさない。ごまかさないと、足が前に出る。

 状況は一瞬で飽和した。

 ベッドのロック。偽装データ。搬出口のバリケード。武装の男たちの短い合図。澪の息。美凪の胸の灯り。加瀬の端末。廊下の角で、誰かの靴が床を擦る音。

 最初の銃声は、驚くほど乾いていた。

 音は高くも低くもなく、散らず、刺さらず、まっすぐ抜けた。どこに当たったのかわからない感触を残して、空気が一枚、背中を撫でる。次の瞬間、優の視界の左側で、海斗が崩れた。

 「海斗!」

 名前が、喉の奥で鋭く割れた。割れた音が、廊下の壁に跳ねて戻る。海斗は床に片膝をつき、胸の前で腕を交差させるように倒れている。倒れ方が素直だ。素直な倒れ方は、守る姿勢だ。彼はまるで今そこへ飛び込むために生まれてきたみたいに、二人の間に身を入れたのだ。

 「大丈夫……っ」

 声が床に密着するくらい低い。彼の胸の下で、鈍い音がした。防弾板が、弾を受けた音だ。板の表面に亀裂が走り、割れてはいないが、次は守れない傷が残る。

 「撃つな!」

 加瀬の声が、部屋の空気を二つに割った。短く、太い。命令の声。命令に従う訓練を受けた男たちが、一秒だけ止まる。その一秒のあいだに、優は海斗の腕を引き、壁の陰へ滑らせた。澪がベッド側へ寄り、白い布の穴から美凪の手を握る。

 「生きてる?」

 「生きてる」

 海斗は短く答え、歯を食いしばった。額に汗が出る。汗は、痛みの上に薄い膜をつくる。

 「押すな。押したら、倒れる」

 彼は自分の胸を拳で叩き、板を示した。叩くときの拳の形が、昔の喧嘩のままだ。昔の形が、今は頼もしい。

 加瀬は端末を持ったまま、上官回線に通した。通すときの指の動きは早い。早くても、打ち間違えない。誰かと長く付き合ってきた人の速度だ。

 「こちら研究責任者。移送命令、違法。患者状態、移送不可。武装部隊は撤収を。繰り返す、撤収を」

 返答は、機械の声だった。定型句。専門用語。責任の所在は上位。判断は後回し。命令は有効。

 「撤収を」

 加瀬は繰り返した。繰り返し方が、一回目より強い。強いのに、叫ばない。叫ばない強さは、相手の耳の穴に残る。

 「この子たちは資産じゃない。患者だ」

 言い切ると、部屋の空気が変わった。変わったことを認めたくない空気が、廊下のほうに押し戻される。隊員のひとりが、ほんの少しだけ銃口を下げた。もうひとりが目だけ動かす。動かした目の先で、美凪の胸の灯りが不規則に明滅した。

 「やめて」

 澪が言った。言い方は、お願いと命令の中間だ。彼女は指を強く握る。握った指の関節が白くなる。

 「やめて。山は合わせない。肩だけ。肩だけ重ねる。ここも」

 言葉は訓練の言葉だが、意味は全然ちがう。彼女は銃口と銃口の「山」が合わないように、二人の間に言葉を置いている。置かれた言葉に、加瀬が短く息を吐いた。吐いた息を、次の言葉の燃料にする。

 「撤収を。患者に銃口を向けるな」

 沈黙が、数秒分、伸びた。

 伸びる沈黙は、善い兆候だ。悪い沈黙は、潰れて短くなる。伸びた沈黙のあと、先頭の隊員が通信機に顎を寄せ、短く何かを言った。返ってくる声は聞こえない。聞こえないが、彼の肩の力がほんの少し抜ける。

 「……上位判断待ち」

 退かない。けれど、進まない。中断。中断は、時間をくれる。時間が、今いちばん足りない。

 「バリケード、外せ」

 隊員が半歩下がり、別の兵士へ顎で指示を出す。命令ではない。提案の形。提案が通らないことも、彼は知っている。提案は、こちらへ敬意を見せる手段にもなる。

 「外せない。手が足りない」

 優が返す。嘘ではない。海斗を支え、澪を見て、美凪の呼吸を確認する。手は足りない。足りないものは、言うと増えることがある。増えないこともある。今日は、増える。

 廊下の奥で、別の靴音。重く、規則正しい。上官ではない。町の人の歩幅。歩幅で、誰かわかる。

 「どけ」

 海斗が体を起こし、壁を背に立った。防弾板の中心に大きな傷。彼は痛みをごまかさない顔で、隊員と優の間にもう一度入る。入る動作が、さっきより遅い。遅いけれど、正確だ。

 「妹と老女、護送は任せた。俺はここ」

 「無茶すんな」

 「無茶は、昔から」

 彼は少し笑った。笑うと、血の味が強くなる。強くなると、笑いが薄くなる。それでも笑う。

 「裏切り、ってさ」

 海斗が言った。言いながら、隊員の銃口を真正面から見た。真正面から見ても、目が細まらない。

 「誰に対しての話なんだろ」

 隊員のひとりが、ほんの小さく肩を動かした。動きは肯定でも否定でもない。考えるときの動きだ。

 「俺は任務を裏切ったかも。けど、町を裏切りたくない。妹も、老女も、この子らも。お前らの上官は、俺を裏切り者って呼ぶだろうな」

 「呼ぶだろう」

 優は小さく頷いた。その上で、海斗の肩を押して、もう半歩だけ後ろへ下げた。下げることで、前に出る余地を作る。

 「でもな。裏切りって言葉、誰の口から出るかで、意味が変わる。俺は、俺の口で、お前を裏切り者って呼ばない」

 隊員は無言だった。無言のまま、銃口をわずかに下げた。下げ方が、訓練にない角度だ。角度は、彼のものだ。

 上官回線から短い命令が落ちた。撤収。撤収の言い方は、いつでも同じだ。言う側が場所を見ていない証拠でもある。

 「撤収する」

 先頭の隊員が短く言った。言ってから、一秒だけ、目を加瀬に向けた。何も言わない挨拶。加瀬は一度だけ、目で礼を言った。礼を言う目は、武器になる。武器は、乱暴に使わない。

 銃口が離れ、足音が遠ざかる。遠ざかる足音の中に、ひとりだけ、わずかに乱れる歩幅が混じる。乱れるのは若い兵士だ。若い人は、目の前の景色の影響を受けやすい。受けやすいことは、悪くない。

 扉が閉まり、静けさが戻った。戻った静けさに、機械の音と人の息が重なる。重なると、静けさは前よりやわらかい。

 「ふう」

 優は壁に背を預け、息を吐いた。吐く音が、床に落ちる。海斗は防弾板を外した。外すとき、板の裏のスポンジが音を立てて剥がれた。胸の真ん中に紫色の痣が浮かび、じわじわ広がっていく。

 「痛そう」

 澪が言った。言い方がまっすぐだ。海斗は「ばか」と短く返し、笑って、顔をしかめた。

 「加瀬さん」

 優が振り返る。彼女は端末を机に置き、目を伏せた。伏せる目は、泣く前の目ではない。次の手順を選ぶ前の目。伏せた目の中で、言葉が並び直されている。

 「時間は稼げた。明け方まで、彼らは戻らない。上位は、紙を回すのに忙しい」

 「ありがとう」

 「礼はいらない。私は私の仕事をした」

 彼女は白衣の袖を折り返し、端末の画面にひとつ、大きな数字を映した。五十八。昨日のまま。さっきの衝突で上がりも下がりもしなかった数字が、妙に頼もしい。

 「裏切り」

 加瀬が言葉を口の中で転がす。

 「上の言う『忠義』と、私たちの『忠義』は、別物だ。上の忠義は命令に向かう。私たちの忠義は、人に向かう。だから、互いに相手を裏切り者と呼ぶ」

 「どっちが正しい」

 優の問いは、子どものころの癖が残る。正しさを一つにしたがる癖。世界が二つに割れても、どちらかを選びたい癖。

 「どっちでもない。どっちもだ」

 加瀬は答え、少し笑った。笑うときの頬の筋肉の使い方が、最近変わった。柔らかくなっている。

 「定義は、状況で反転する。反転するから、怖い。反転するから、救われる。今日、彼らは撤収した。私たちも撤収する。避難の流れに紛れて、明日の夜明け前に、ここを出る」

 「出る?」

 「上位施設はもう一度、来る。次は書類も整っている。私は、外で戦う」

 「外で?」

 「外でしか、戦えないときがある」

 彼女はベッドの側に座り、美凪の髪を軽く撫でた。撫でる手つきは、医者の手と母の手のあいだにあった。間の手つきが、いちばんやさしい。

 美凪は薄く目を開けた。開けて、辺りをゆっくり見渡し、指先でものの位置を覚えるように空気をなぞった。

 「撃った?」

 「撃たれた。防弾板が守った」

 優が答えると、美凪は海斗に向かって、指先で小さく拍手をした。拍手の音は出ない。出ないけれど、意味はある。海斗は照れたように首を振り、また顔をしかめた。

 「裏切りってさ」

 美凪が言った。

 「わたし、小さいとき、嘘をつくのがいちばんの裏切りだと思ってた。約束を守らないとか。でも、今はちょっと違う。誰かの『明日』を軽く扱うのが、裏切りだと思う」

 「明日を軽く」

 澪が繰り返す。繰り返すことで、言葉が自分のほうへ寄ってくる。寄ってきた言葉は、胸の芯子の灯りに当たって、少し温かくなる。

 「だから、わたしたちは——」

 美凪は一度、息を整えた。整えた息で、短く、はっきり言う。

 「明日を重くする。笑って重くする。そういう裏切りなら、いくらでもする」

 加瀬は小さく頷いた。頷くと、目尻の皺が一つ増える。皺は、表情の地図だ。今日の地図は、昨日より親切な道案内になっている。

     *

 深夜。

 海斗の胸の痣は広がりきって、色が落ち着いた。呼吸は浅くない。痛み止めは最低限。彼は壁に背を預け、目を閉じた。閉じたまま、耳が働いているのが見て取れる。聞きたい音と聞かなくていい音を振り分ける耳だ。

 澪は窓の外の月を見上げた。昨日より丸い。昨日と同じように冷たい。冷たいのに、昨日より近い。近いのは、見る側が近くなったから。屋上のアーチの粉は、風に少しずつ削られている。削られたぶんだけ、朝が近づく。

 優はノートを広げた。今日の欄に、ペン先を置く。指先がまだ震える。震えは止めない。震えごと、字にする。

 ——避難命令。母、行く。老女、鍵。海斗、護送。

 ——武装侵入。データ偽装。ロック。バリケード。

 ——銃声。海斗、被弾。板、守る。

 ——撤収。上からの声は遠い。目の前の息は近い。

 ——裏切り。定義は反転する。忠義の向きも、反転する。

 ——私たちは、明日を軽くしない。笑って重くする。

 ——成功率、五十八。数字は変わらないのに、意味は変わる。

 余白に、小さな四角を描く。バリケードの形。四角の中に、通れない線を一本引く。線は太くしない。細くて、強い線にする。

 「明け方」

 加瀬が言い、時計の針を指でなぞった。「出る」。簡単に言う。簡単に言うと、難しいことが少しだけ現実になる。現実になった難しいことは、対処できる。

 優はうなずき、海斗の肩に毛布を掛けた。毛布の端が、防弾板の傷を隠す。隠しても、傷は消えない。消えないけれど、冷えを防げる。

 廊下の向こうで、遠くの風鈴が一度だけ鳴った。夜風はない。誰かが指で触れたみたいな、小さな音。音はすぐに消え、消えたあと、部屋の中に薄い余韻を残した。

 裏切りの定義は、今夜変わった。

 命令を守ることが正義だった人が、目の前の息を守るために命令を遅らせた。患者を資産と呼ぶ正しさを、医者の小さな声が押し戻した。撃つべき場所に、胸を差し出して入った人間が、昔の喧嘩の癖で笑った。笑いは、裏切りの反対側に立った。立って、こちらを見た。

 明け方まで、あと数時間。

 眠りは交代で、短く。荷物は最小限。鍵は預かったまま。戻るつもりで出る。出るつもりで戻る場所を作る。

 優はノートの最後に、一行足した。

 ——裏切り、定義:誰かの明日を軽く扱うこと。従って、今日、俺たちは誰も裏切っていない。

 ペン先が紙から離れる音が、やけに大きく聞こえた。

 光を落とす。機械の明滅が二割落ち、胸の灯りがそれに合わせて穏やかに上下する。海の向こうで、雲が薄くほどけた。ほどけた場所に、朝の名前が書かれる。書いたのは、誰でもない。ここにいる、全員の呼吸だった。

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