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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第15話「三日の暮らし(3)」

 朝の白さは、これまででいちばん軽かった。

 窓を開けると、借りていた風が、待ち合わせに遅れた友人みたいに息を切らせて部屋へ入ってきた。潮の匂いは相変わらず薄いけれど、鼻の奥に届くまでの距離が、昨日より半歩短い。優は網戸の枠の埃を指で払ってから、背中越しに声をかけた。

 「起きてるか」

 「起きてる。半分」

 美凪の声は、まくらに沈んだまま笑っていた。雲——二人が布団に付けた名前——の端から顔だけ出して、目だけで朝の匂いを嗅ぐ。目でも匂いは嗅げるのだと、ここ数日で知った。

 「今日は、式をやる」

 優が言うと、美凪は体を半分起こし、半分だけ驚いて見せた。

 「うち、教会ないよ」

「屋上に作る。チョークのアーチ。花は野のやつ。指輪は折り紙。全部、ぜいたく」


 「ぜいたくの定義、やさしい」

 「今の世界基準」

 台所で湯を沸かす。銀河——鍋の名前——の底が、弱く鳴いた。パンを焼く音はいつもどおり片側が先に色づき、ジャムの瓶は、蓋を開けると小さく息を吐いた。朝食は薄いトースト。耳は今日もよく鳴る。彼女は耳を先にかじり、目を細めて頷いた。

 「音、合格」

 「式の前に腹ごしらえ、ってやつだ」

 「式の最中にもお腹は空くよ」

 「じゃあ、途中で一回休憩入れよう」

 食べ終えると、二人は役割分担をした。優は折り紙で指輪を作る係、美凪は野花のブーケ係。折り紙は、老女が「若いの、何でも使いなさい」と押し入れから出してくれた千代紙の束だ。赤と青。金の縁取り。角が少し折れていて、紙の繊維がところどころ顔を出している。指で押さえると、繊維が生き返る。

 「サイズ、どうする」

 「気持ち大きめ。むくれるから」

 「むくれる?」

 「むくんでも入る」

 「なるほど」

 優は笑って、折り筋を一本ずつつけた。紙が音を立てて折れる。ぱちん、とも、からり、とも違う、もう少し小さい音。小さいのに、聞き逃せない。彼はその音をひとつずつ指先に覚えさせた。

 美凪は廊下を抜け、階段をゆっくり降りて、アパートの裏手に出た。誰も手入れしていない空き地に、背の低い花がいくつか咲いている。白いナズナ。薄紫のホトケノザ。名前のわからない黄色いの。彼女は慎重に茎をつまみ、謝ってから折る。折るときの音が、実はきれいだと気づく。この音を忘れないように、ノートに書く言葉を決めておく。

 帰ってくると、老女が廊下で待っていた。竹ぼうきを持った手が、今日は少しそわそわしている。

 「若いの、式をやるんだってね」

 「どこから」

 「壁には耳。うれしいねぇ。司会、していい?」

 「もちろん」

 「任せなさい。司会、昔、回覧板で鍛えたからね」

 老女は笑い、エプロンのポケットから水玉のハンカチを取り出して渡した。「涙が出たら、これ使いなさい」と言って。渡す手が少し震えたが、それを見せないのがこの人の上手さだった。

 屋上にあがる。空は灰の層の下で、肉眼で見えるか見えないかの薄い青を隠している。チョークは、教室から拾ってきた短いのが二本。白と薄い水色。床にアーチを描く。真ん中が少し歪む。歪んだところに、彼女が花を置く。少し離れた場所に指輪を置く。置いたことで、そこがもう式場になる。

 「招待客、何人」

 「二人と一人。あと、鳥が来れば四」

 「足りない分は、風で」

 「風、万能」

 準備ができたころ、老女が息を弾ませながら屋上に現れた。エプロンを正し、真面目な顔に変える。司会の顔は、町内会の会議にも似ているが、少しだけ楽しそう。

 「それでは、始めます。お集まりの皆さま……って、二人と一人だけどね。若いの、前にどうぞ」

 アーチの前に立つ。美凪はいつものパーカーの上に、浴衣の帯だけを巻いてきた。帯は昨日の祭りで使った白色。結び目は小さく、胸の芯子の灯りが布の隙間から薄く透ける。優はシャツの襟を指で直し、折り紙の指輪を掌に乗せた。

 「誓いますか」

 老女は、少し照れたように笑いながら言った。言葉は冗談みたいだけど、声に込められた重さは本物だ。屋上の四隅にまで届く重さ。

 美凪は、ゆっくりと息を吸った。吸ってから、一度喉に溜めて、吐く。吐きながら、口だけで笑う。

 「誓います。世界にも、優にも」

 「二股じゃん」

 優が小声でからかう。彼女は押し返す。

 「世界のほうが年上。怒られない」

 「俺は俺で、誓います。世界に嫉妬するけど」

 老女が笑い、すぐに鼻をすすった。すすり方が、子どものころから変わっていない。

 「指輪を」

 優は折り紙の輪を、美凪の左手の薬指にはめた。紙が肌に触れるときの音が、思ったよりもきれいだった。美凪の指は少し冷たく、指先に薄い震えがある。紙が震えと一緒に揺れて、ぴたりと収まる。彼女は優の手からもう一つの折り紙を受け取り、右手の薬指にそっとはめた。

 「サイズ、合格」

 「むくれても入る仕様だし」

 「信用した」

 老女が胸の前で手を合わせる。司会は、役目が尽きると同時に観客にもなる。観客になった老女の目が、濡れている。風が、ほんの少しだけ強くなって、屋上の端で埃が跳ねた。遠くで誰かが拍手をした。誰かが、というより、町が拍手をした音。どこで鳴ったかはわからないのに、屋上の真ん中に届いた。

 「新郎新婦、退場……って言う前に、写真」

 優はカメラを構えた。三脚はない。老女が嬉々として「任せて」と受け取り、両手で重そうに構える。「ここ押すのね」と確認し、アーチの向こうに立つ二人に向けて片目をつぶる。

 「はい、笑って」

 シャッターが落ちた。音は小さいのに、今まででいちばん大きく聞こえた。カメラから出た小さな機械音が、屋上の空気に混ざる。混ざった音が、風に似ている。写真の中で、二人の肩が少し触れ、花の束が白いアーチを彩っている。紙の指輪は、光ではなく、指の温度で輝いていた。

 式のあと、小さな披露の時間を作った。といっても、干し柿を二つと、老女の「おこし」をもう一個。紙コップに水。老女が司会を続け、即興で挨拶をした。「本日はお日柄もよく……はないけど、風柄はよろしい」と言って笑い、次に急に真顔になった。

 「若いの。幸せは、うるさくしていいのよ」

 美凪は両手でコップを包み、頷いた。頷いた拍子に、まつげの先で光が跳ねた。彼女は深呼吸をし、椅子を屋上に運んでもらって腰かけた。座った体勢のほうが楽だと、身体が覚えているから。優が背中に薄いタオルを入れる。背骨の弯曲が整う。

 「司会、以上です」

 老女がぺこりと頭を下げ、竹ぼうきを杖代わりにして屋上の隅へ下がった。彼女の背中が、舞台袖の役者みたいに満足している。屋上の真ん中には、二人と花と、チョークのアーチと、風だけが残る。

 「音がする」

 美凪がそう言って目を閉じた。耳を澄ますというより、耳が勝手に拾い始めた、という風だった。彼女の胸の芯子が、服の下で明滅を少しだけ強める。脈拍に合わせてではなく、空の上の薄い雲の流れに合わせるみたいな速度だ。

 「どんな」

 「遠くの雲が割れる音。薄い膜を指でやぶるみたいな。あと、鳥の羽の内側の音。風車、ひとつだけ回る音。……世界が、ちょっと息を吸う音」

 彼女の言葉に合わせるように、港の向こうで雲が緩んだ。灰色の層に小さな裂け目ができ、向こう側の青が、まるで水の底から差し込んだ光みたいに覗いた。青は本物かどうか決められない。でも、見えた人にとっては本物だ。

 「見える」

 優が言った。言いながら、彼は彼女の横顔を見た。横顔は、光のほうを向き、目はゆっくり閉じている。閉じた瞼の下を、薄い影が横切る。呼吸の影だ。胸の灯りは少し強くなり、そのぶん彼女の肩の力が抜けた。

 「眠くなってきた」

 「寝ていい」

 「式のあと、寝る新婦。聞いたことない」

 「あるよ。うちの式は初めてだから、歴史は今から作る」

 彼女は笑って、椅子に身を預けた。笑ったあと、そのまま、ほんの数秒で眠りに落ちた。眠りは、体の判断が早いときにだけやってくる。早い判断に逆らわないのが、今の暮らしのルールだ。

 眠っている間、胸の芯子の光は静かに強まり続けた。強まり方は、呼吸を邪魔しない。邪魔せずに支える。支えながら、世界の浅い呼吸に少しだけ厚みを足すような調子。屋上の空気が、ほつれた糸をほんのわずか縒り直す。優は彼女の手を握り、指先の冷たさが、眠りの中で少しだけ温まっていくのを見守った。

 「よく働くな」

 誰にともなく呟く。屋上の隅で老女が小さく頷いた。遠くで誰かが拍手した。今度ははっきりと。観測棟のほうか、港か、アーケードの抜けた屋根の上か。拍手の回数は少なく、音は短かったが、確かだった。

 雲の裂け目から覗く青は、少しずつ広がった。広がったぶんだけ、日差しが細く屋上に届く。チョークのアーチがまぶしくなり、花の束の黄色が一段明るくなる。紙の指輪は光ではなく、彼女の体温で輝いたままだ。優はその様子をずっと見ていた。たぶん、写真を撮るよりも正しいやり方で、目に焼き付けていた。

 「新婦、起こす時間」

 老女の声で、優は肩を叩いた。どれくらい時間が経ったのか、正確にはわからない。屋上の影の長さが、ほんの少しだけ動いている。彼女は目を開け、少し驚いたように笑った。

 「寝た」

 「最高に」

 「夢、見た」

 「どんな」

 「屋上で式して、眠った夢」

 「それ、現実のダビング」

 「質がいいから」

 二人で笑って、片付けを始めた。アーチは残すことにした。風が持っていかないうちは、ここに置く。花の束は部屋に持ち帰る。折り紙の指輪はそのまま指に。老女は「若いの、今日は掃除、私がやっとく」と言って、竹ぼうきを軽く振った。振った先で、塵がきらきらした。

     *

 夕方の部屋は、いつもの砂嵐の音を消して、静かにした。披露の続きとして、パンケーキを薄く焼いた。甘さは控えめ。焼き目の色は、うまくつかないところがむしろいい。美凪は小さく切った一切れを口に運び、目を細める。

 「甘い。音で倍」

 「音、万能」

 「風と同じ」

 「風、働きすぎ」

 「延滞料、笑い一回で許す」

 ノートに書く。今日という日を刻む文字は、他の日よりも多くなる。

 ——朝:式の準備。折り紙の音、きれい。

 ——屋上:チョークのアーチ。野花。司会、老女。

 ——誓い:世界にも、優にも。嫉妬、可。

——風:やわらかい。拍手、遠くから。

 ——眠り:椅子で。胸の光、静かに強まる。雲、割れる。青、覗く。

 ——甘さ:音で増える。延滞料、笑い一回。

 余白に、アーチの簡単な絵を描く。下手な絵が、今日は上手に見えた。上手に見える日を、信じていい。

 日が落ち、窓の外で黒が増える。電線は濃い線になり、風鈴が一度だけ鳴った。誰かが指で触れたのか、風が通ったのか、判別不能。判別不能でも、いいほうに決めておく。

 ノックの音が、廊下から三回。約束の合図ではない。節のついた丁寧な叩き方。扉を開けると、加瀬が立っていた。白衣に薄いカーディガンを重ね、手には端末を持たず、代わりに何も入っていない封筒を握っている。封筒は空なのに、重そうだ。

 「時間」

 短い言葉。短さの中に、三日の端から端までが折り畳まれている。優は頷き、美凪は笑って「ただいま」と言った。まだ帰っていないのに、先に言ってしまう挨拶は、彼女の得意技だ。加瀬は目を細くし、口の端を少しだけ上げた。

 「おかえり」

 そのやりとりだけで、部屋の温度が一度ぶん上がる。返事のできる言葉は、室温を変える。

 「今日、式をしました」

 優が言うと、加瀬は屋上のほうへ視線をやった。チョークのアーチが遠くからでも見える高さで残っている。

 「見えた。いい線」

 「老女の司会、最高でした」

 「でしょうね」

 短い会話のあと、加瀬は机の上のノートに気づいた。「世界の呼吸記録」。表紙を撫で、今日のページを開きかけて、すぐに閉じた。

 「あとで、貸して」

 「はい」

 「約束は守る。三日、貸した。返してもらう」

 きっぱりとした声だった。でも、刃物ではなく、糸切りばさみみたいな声。大きな布を傷つけず、余分だけを落とすやり方。優はうなずく。うなずいてから、美凪のほうを見た。

 「帰ろうか」

 「帰る」

 言葉は早く、身体はゆっくり。立ち上がるときの膝の角度、足の裏の置き方、手すりの握り方。全部、身体が覚えてきた動き。三日の暮らしが体の中に残した記憶が、今の一連を滑らかにする。

 老女が廊下に顔を出した。いつもより少し背筋が伸びている。

 「若いの、うるさくていいねぇ、は、また明日言う」

 「また明日」

 二人がそろって返すと、老女は泣き笑いの顔で頷いた。「壁、三回、忘れずに」と言い、指で三回、空気を叩いた。空気は手触りがないのに、叩いたところだけ柔らかい気がした。

 部屋の鍵はかけない。潮見——窓の名前——を少しだけ開けておく。帰り道——部屋の名前——に、帰る匂いだけ残して、電気を切る。雨雲——テレビ——はスイッチを入れないまま。銀河は火を落として、台所に小さく座る。雲は畳んで、枕に日の光を一枚分だけ溜める。

 廊下を歩く。階段を降りる。踊り場で一度だけ深呼吸。外に出ると、夜の匂いがやさしかった。港のほうの灯りは少なく、観測棟の窓がいくつか白く光っている。遠くの雲は、さっきの裂け目を細く残したまま、また閉じようか迷っている。

 観測棟の入口で、海斗が立っていた。制服の上着は脱いで、シャツの袖をまくっている。姿勢はいつもどおり真っ直ぐだが、目の硬さは昨日より少ない。彼は何も言わず、扉を押して開けた。押しながら、優と目が合う。会って、合図もない合図が交わる。ありがとうも、さよならも、同じ長さで首の動きに変わる。

 「行ってくる」

 優が小さく言うと、海斗は顎で「どうぞ」と示した。示し方が、初めて会った日の体育館みたいに素直だった。

 廊下は明るすぎず、暗すぎない。光は床に落ち、天井は影を集める。扉の前で、加瀬は立ち止まり、振り返った。

 「条件、もうひとつだけ」

 「え」

 「中で、笑って。三日に負けないくらい。笑い声は、機械の動きをよくする」

 「医学的根拠は」

 「今のところ、私の家内工業」

 「最高です」

 扉が開く。空気が入れ替わる。消毒の匂い。機械の音。窓の外の夜。すべてが、少しだけやさしく見える。見えるのは、三日のせいだ。

 ベッドの横に、椅子がある。今日は座らない。手すりに手を置き、背中を伸ばして立つ。美凪は自分でベッドに上がる。上がり方を覚えている。覚えていることが、誇らしい。

 モニターの明滅が、屋上で見た胸の灯りと同じリズムになる。リズムは少し早い。早いのは緊張のせいか、期待のせいか。どちらでもいい。どちらでも、呼吸は合わせられる。優は彼女の手を握り、額を軽く寄せた。

 「また明日」

 「また明日」

 二人の声が重なり、観測棟の窓の外で、風鈴が一度だけ鳴った。音は短い。短いけれど、長く残る。屋上のアーチの粉が、風で少しだけ飛び、夜のどこかに白い点を残す。残った点は、消えずに、誰かの目に入る。

 世界は確かに良くなっている。雲の割れ目が、もう一つ、遠くに増えた。増えたと信じるぶん、息は長くなる。長くなった一秒に、三日の暮らしが丸ごと入った。大事に使える長さだ。延滞料は、明日の笑いで払う。

 優はノートの最後のページを開き、ペンで一行だけ書いた。

 ——式、完了。返却、時間どおり。笑い、延長。呼吸、二人合わせ。

 書き終えると、ペン先が少し震えた。震えは止めようとしなくていい。震えごと、字になる。字になった震えは、読む人の中で呼吸に変わる。呼吸が変われば、世界の浅さがほんの少し厚くなる。

 加瀬がうなずいた。うなずいたあと、医者の顔をやめて、町の人の顔になった。

 「おつかれさま」

 それは、式の司会の締めの言葉にも聞こえた。三日の暮らしのカーテンコール。拍手はなくても、音はあった。胸の灯りが、やわらかく、一度だけ強く明滅した。

 夜は深くならず、ただ長くなった。長くなった夜は、二人の呼吸の間で静かに伸びた。伸びたところに、「また明日」が置かれて、落ちずに、ちゃんと追いついていった。

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