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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第14話「三日の暮らし(2)」

 午前の白さは、昨日より一段、坂道の角をやわらかく見せていた。

 自転車のブレーキは甘く、握ってもすぐには止まらない。優は片足を地面に突き、もう片方の足でペダルをそっと押す。金属の軋む音が、眠そうに遅れてついてくる。後ろで美凪が、前かごに画板を抱え、ハンドルに顎をのせるようにして笑った。

 「行ける?」

 「行ける。今日の坂は、昨日より味方」

 「味方が坂って、たまに敵になる」

 「その時は足で止まる。昔から得意」

 ふたりの自転車は縦に連なり、ゆっくり坂を下りた。道路の白線はところどころ剥がれ、ひび割れたアスファルトの隙間には草の細い先が顔を出している。人の声は遠く、ラジオの天気予報がひとつの屋上からもうひとつの屋上へ渡っていく。風は薄い。薄い風が背中を撫で、ペダルの回転を半回転だけ楽にした。

 海の見える高台へ向かう途中、校門の鉄が半分倒れた旧中学校の前で、優はブレーキを握った。校舎の窓は割れて、ガラスがまだらに残って空の色を拾う。音楽室のプレートが風で揺れ、金の文字がかろうじて読める。美凪は自転車を降り、制服の上に重ねたパーカーのポケットに手を入れた。

 「寄っていく?」

 「五分だけ」

 「五分は七分になるよ」

 「七分で出る」

 昇降口の砂は薄く、上履きの置き場には色あせた上履きが片方ずつ残っている。廊下の掲示板には、去年の行事予定が風にめくられ、体育祭の文字の上で色褪せた赤が薄く笑った。音楽室のドアは鍵がなく、押すと中の空気が外に逃げた。譜面台が斜めに立ち、壁の五線譜はチョークの粉を薄くまとっている。

 部屋の正面、黒いアップライトピアノ。布はかけられていない。鍵盤の蓋は開ききらず、途中でつっかえたところで止まっている。美凪は手を消毒してから、恐る恐る鍵盤に指を落とした。白い鍵の端が、わずかに反り返っている。音は、最初だけ躊躇して、それから部屋の四隅に小さく拡がった。

 「鳴る」

 「鳴るね」

 和音は狂っている。低い音が少し遅れてくる。遅れてくる音が、子どもみたいにあとを追う。美凪は単音を並べ、幼いころ練習した曲の冒頭だけ、慎重に拾った。指は細く、指先は冷たい。それでも、鍵は指の体温を覚え、音は部屋の空気の薄さを覚える。

 「音ってさ」

 彼女が言いかけ、次の鍵を鳴らす。音が壁に当たって、返ってくるまでの時間を待つみたいに、一拍だけ黙る。

 「……音って風だ」

 「風?」

 「ほら、窓から入ってきて、髪をちょっと動かして、すぐどこかへ行く。戻ってくる時は、さっきと少し違う」

 「じゃあ今のは、北東から来て南東に抜けた」

 「音に方角つけるの、新しい」

 彼女は笑って、両手を広げ、その場でくるくる回った。床板が小さく軋み、埃が光の帯の中で舞い上がる。回転に合わせて髪の白い房が遅れてついてきて、肩の上に落ちる。ピアノはそれを祝福するように、最初のキーを勝手に短く鳴らした。風が鍵を軽く押したのかもしれない。鍵の重さが、たまたま彼女の回転に似ていたのかもしれない。

 「録っていい?」

 優は古いカメラを持ち上げた。シャッターの音は控えめだが、音楽室ではよく響く。美凪は頷き、もう一度、冒頭だけの旋律をなぞった。優はピントを合わせ、彼女の横顔と鍵盤の白をひとつの画面に収める。画面の端で、割れた窓の外の海が細く光る。

 五分は、やはり七分になった。七分で部屋を出る。ドアを閉めると、音楽室の空気が中へ戻る音がした。廊下を歩くと、掲示板の端で文化祭のポスターがひらりとめくれ、そこに描かれた紙の風船が、今も浮くふりをしていた。

 再び自転車にまたがり、二人は坂の下へ。正午の手前で高台に着くと、港とアークの黒い影、その向こうに曇った水平線が見えた。空の灰は薄く、ところどころで薄い青がのぞく。風は相変わらず薄いが、鼻腔の奥に潮の匂いがわずかに残る。ベンチに腰を下ろし、パンを少しだけ齧る。老女の干し柿を半分に割って分けると、柔らかい甘さが舌の隅に乗った。

 「甘いの、わかる?」

 「わかる。音も甘い」

 「音の甘さ?」

 「噛むと、紙の袋が鳴るみたいな」

 「擬音、天才」

 「音は風だから」

 彼女は肩をすくめ、遠くの海を見た。観光パンフレットに載っていた青ではない。けれど、ここで育った人間の目には、十分に海だった。しばらく黙って、波の音を数える。数えているうちに、数えること自体が目的になる。目的が数になると、息が整う。

 下り道を戻る途中、交差点の先で軍警の巡回車両が見えた。灰色の車体。前照灯は消え、屋根のアンテナだけが細く立つ。隊員が二人。片方は地図端末を見て、もう片方は周囲を見張る。優が速度を落とすと、ふいに運転席の向こう、バイザーの隙間から海斗と目が合った。彼は驚かない。驚き方を捨てた目で、短くこちらを見た。そして、すぐに視線を逸らす。端末を持っていないほうの手で、部下の肩を軽く叩き、別方向を顎で示す。

 「巡回ルート、変更」

 部下が小声で復唱し、車両はゆっくりと違う道へ滑っていった。優はハンドルを握り直し、美凪は前かごの画板を抱き直す。背中にだけ、海斗の視線が一瞬触れた気がした。触れたのは気のせいかもしれない。それでも、気のせいを、今日は信じる。

 「助かった」

 「うん」

 「さっき、ピアノの音、届いたかな」

 「届いたかも。風で」

 午後、町の中心を抜ける。商店街のシャッターは半分下りたまま、ポスターだけが新しく貼られている。「節電」「節水」「笑顔」。三つの言葉のうち、いちばん難しいのは笑顔だと、優は思った。いちばん難しいのがいちばん簡単に貼られている。

 家に戻ると、老女が廊下を掃いていた。竹ぼうきの先が床を撫で、舞い上がった埃が陽に溶ける。「若いの、うるさくていいねぇ」と、今日も同じ入り口の言葉。彼女は笑って、今日は「おこし」を一つくれた。白い砂糖が固まった軽い菓子。美凪は指でつまみ、口で割る。歯に触れた瞬間に、きし、と鳴った。

 「今日の記録に、入れてね」

 「もちろん」

 ノートに「おこし、きし音+」と書き足す。余白に小さく、音符の記号をひとつ。音は風。風に、音符は似合う。

 夕方、空気がほんの少し重くなる。いつもの時間に、いつもの明るさが来ない。部屋の電灯が一度短く瞬き、ふっと消えた。テレビの砂嵐も止まり、部屋の「さー」が消える。耳の奥で、沈黙の音だけが濃くなる。

 「停電」

 「ロウソク」

 優は台所の引き出しから短い蝋燭を二本取り出し、ガラスのコップの底に立てた。火をつけると、芯の黒が震え、小さな炎が部屋をやさしく舐める。壁の角が柔らかく浮かび、窓の縁が温度を帯びる。影は、火の揺れに合わせて踊る。

 「影絵、やる?」

「やる」


 ふたりは蝋燭の前に座り、指で鳥をつくったり、狐をつくったり、うさぎをつくったりした。影は壁に大きくなって現れ、予想外のところで角度を間違える。間違え方に笑いが出る。笑い声は、ロウソクの火を少し揺らす。揺れた火が影を変え、変わった影が笑いを増やす。いい循環だった。

 「見て、これ。猫」

 美凪が親指と人差し指で耳を作り、顔の丸みを形にする。猫は、最初はうまくいかなくて、何度目かでふいに猫らしくなる。猫らしくなった瞬間、彼女は自分で笑ってしまい、笑い声が鈴の音みたいに転がった。転がった鈴は、部屋の四隅に飛び込んで、それぞれ小さな反射の音で返ってくる。

 「鈴、似合う」

 「ね」

 「録音したい」

 「ダメ。高いよ、出番」

 「出番?」

 「鈴の音は、出番を待ってるの」

 妙な理屈に、優は笑って首を振った。笑うと、蝋燭の炎が短く揺れた。揺れは軽い風の代わりになり、窓辺のカーテンがほんの少しだけ上がった。上がった布の影が、壁にもう一つの猫をつくった。

 「……っ」

 笑いが咳に変わったのは、ふいだった。猫の影が最後にひとつ跳ねて、壁から消える。美凪が胸に手を当て、上体を少し前に折る。最初の咳は小さく、二度目は少し深く、三度目で体の奥のほうから音が上がってきた。優は背中に手を回し、肩甲骨の下をやさしくさする。息の道を開けるために、指の腹で円を描く。

 「水」

 コップの水を渡す。彼女は一口、喉へ落とし、呼吸を確かめるように目を閉じた。咳は少し弱まり、代わりに、唇の端に細い線が残る。銀色がかった薄い光。蝋燭の火がその線に触れると、一瞬だけ、反射した。

 「……ごめん。ちょっと、びっくりした」

 「大丈夫。ゆっくり」

 優は小さく言い、視線を落とす。フローリングの上、彼女の指先が握っていたハンカチの端に、薄い色が広がっている。赤ではない。血の赤が、黒へ行く途中で方向を間違えたみたいな。銀に近い。光を食べて、返す。恒星炉の粒子が血に混じり始めると、こうなる——加瀬の説明が、耳の奥で固い声に戻る。

 「……ほら、拭いて」

 優はハンカチを新しいものに替えようとして、手が震えた。震えは、止められなかった。震えを見られるのが嫌で、彼は顔を蝋燭の影に隠す。影の中で、息だけが均等ではないのがわかる。吸って、吐く。さっきまで簡単だったことが、少し難しくなる。

 「優」

 呼ばれて、彼は顔を上げた。美凪は笑っていた。笑い方は弱いが、目に力がある。彼女はそっと、ハンカチを受け取り、自分で口元を押さえた。押さえ方が丁寧で、布の角が唇に傷をつけない角度を知っている。

 「だいじょうぶ。大丈夫じゃないときは、私が言う。今は、だいじょうぶにする」

 「わかった」

 「ねえ、鈴の音、さっきの、もう一回出番」

 「今?」

 「今」

 優は深呼吸をして、胸の奥にたまっていた固いものを、笑いに変える準備をした。うまくいかない笑いでも、火を揺らすくらいには役に立つ。彼は自分の喉を軽く叩き、猫の影をもう一度作った。耳が少し大きすぎた猫は、壁の上でバランスを崩し、転んだ。美凪は小さく笑った。笑いは鈴になり、部屋の角で弾む。弾んだ鈴の音に、咳は追いつけない。

 「ありがとう」

 「延滞料、今のでチャラ」

 「延滞してたんだ、私」

 「借りてる風のぶん、少し」

 「じゃあ、もう一回借りる。返すとき、甘さ足す」

 彼女はそう言い、コップの水を少し飲んだ。喉のあたりを指でなぞり、呼吸の通り道がもう一度開くのを確認する。胸の芯子は服の下で弱く点滅し、蝋燭の火と、どちらが先に瞬いているのか、目では決められない。

 停電の夜は、思っていたより長くなかった。十分後、電気はふいに戻り、テレビの砂嵐が部屋の「さー」を取り返した。灯りがつくと、蝋燭の火は急に恥ずかしがり、短く揺れてから沈んだ。沈んだ火の芯から、白い煙が小さく上がる。上がった煙は、天井でほどける。

 「さー、帰ってきた」

 「帰ってきた」

 「でも、今は消そう」

 優はテレビのスイッチを切った。砂嵐の音が止まり、部屋の空気が自分たちの声だけを入れられるようになる。外から、遅れて風鈴が一度だけ鳴った。誰かが指で触れたのか、風が薄く通ったのか、判断できない鳴り方だった。

 寝る前に、ノートを開く。今日の「世界の呼吸」の欄には、朝の坂、音楽室のピアノ、高台の海、巡回車両の方向転換、停電の蝋燭、影絵、鈴の笑い、咳、そして薄い銀が、短い言葉で並んでいく。余白に、優は鉛筆で猫の影を描いた。耳が少し大きい。大きすぎる耳は、今夜は正解だった。

 ——朝の坂、味方。

 ——音楽室、鍵盤生きてる。音、北東から南東。

 ——鳥、今日は一。距離、昨日と同じ。

 ——巡回、ルート変更。視線、一秒。

 ——停電、蝋燭、影絵。笑い、鈴。

 ——咳、薄銀。呼吸、二人で合わせる。

 最後に彼女は、いつもの一行を足した。

 ——また明日。

 ベッド——雲——に並んで横になる。窓は少しだけ開けたまま。夜の匂いは薄い。潮の匂いと、電気の匂いが、ほんの少し混ざる。美凪は横向きになり、背中を優の胸に預けた。背中越しに、彼女の呼吸の浅さと深さのあいだの揺れが伝わる。優は腕をそっと回し、彼女の指先に触れる。指は冷たい。冷たさは今日も正直だ。

 「怖い?」

 「怖い。でも、今は怖くない」

 「それ、昨日も聞いた」

 「明日も言う」

 「じゃあ、明日も聞く」

 短い会話は、眠気の岸辺で波打って、すぐに砂に吸い込まれる。窓の外で、電線は黒いまま立ち、遠くで犬が低く一度吠えた。世界は浅い呼吸を続けながら、少しずつ、目を閉じる準備をしている。優は彼女の肩に額を寄せ、ふたりの息を合わせた。吸って、吐く。吸って、吐く。屋上で数えた星の二拍子に、部屋の静けさがゆっくり重なっていく。

 眠りに落ちる直前、優は思った。あの音楽室で鳴らした音は、今、どこで風になっているのだろう。もし、どこかで海斗の耳に触れたなら、ほんの一秒でも、彼の視線の逸らし方が柔らかくなるといい。もし、加瀬の廊下で、その風が紙の端をめくったなら、次のページに書かれた明日の手順が、人間の形になるといい。もし、アークの甲板で眠れない誰かの頬を撫でたなら、「また明日」が一度だけ素直に言えるといい。

 そうやって、音の行き先を何度も想像しているうちに、意識はすべり落ちた。落ちる直前、窓辺で風鈴がかすかに揺れ、鳴るか鳴らないかの間の音を一度だけ作った。作っただけの音は、鳴ったのと同じくらい、ここに残った。

 ——二日目、終了。

 ——延滞料、笑い一回分、前払い。

 ——返却予定、未定。

 ——その代わり、甘さ、増量。

 ノートの最後の余白に、優は小さく書き足し、ペン先をそっと閉じた。蝋燭の匂いがまだ薄く残る部屋で、ふたりの呼吸は、浅い世界にしては充分に深かった。

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