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人類最後の恋人は、星を救う少女だった――彼女が世界を直して、僕が彼女を壊した話  作者: 妙原奇天


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第13話「三日の暮らし(1)」

 朝が来た、と言うには薄すぎる白だった。

 窓の桟に沿って伸びる明るさが、指一本ぶん分厚くなっただけで、部屋の空気はまだ夜の名残りを手放さない。壊れたテレビは相変わらずさーと鳴り、床に伸びる砂嵐の光が、波の届かない海みたいに壁際で揺れている。


 台所で、優はトースターのつまみを指先でつまんだ。電気は弱く、レバーは最後まで下がらない。片方のコイルだけが赤くなり、パンの片面がじわじわ色づく。焼き加減は均等にならない。均等でない朝は、どこか人間っぽくていい。


 「できた」


 皿の上に、薄いトーストを二枚。バターは貴重品だから、代わりにジャムを少し。スプーンですくうと、ガラスの瓶の縁が小さく鳴った。カリ、よりも弱い、ぴ、ともつかない音。音がまず立ち上がり、次に赤い匂いが遅れてくる。苺のジャムは、匂いだけで甘い。


 美凪はテーブルに肘をついて、頬杖をついたまま、パンの耳をちぎった。指先でつまんだ耳が、口の前で一瞬止まる。半分しか戻っていない味覚に、先に音で合図を送るみたいに、ゆっくり歯で割る。小さなカリが、朝のはじまりに判子を押した。


 「おいしい」


 彼女は言った。ほんとうにおいしい顔をしている。顔の片側に焼けて白くなった房がかかって、光を余計に拾っている。


 「耳って、かわいい名前だよね。パンの端っこが、耳。耳がお腹に入っていくの、ちょっと面白い」


 「じゃあ、真ん中は何だ」


 「ほっぺ、とか」


 「パンのほっぺ食べる彼女、ちょっとこわい」


 「こわくない。やわらかい」


 二人で笑って、ジャムを少しだけ足す。スプーンが皿に触れる音と、舌に乗る甘さのタイミングがずれている。ずれているぶんだけ、記録に残せる。


 食べ終える前に、美凪はノートを開いた。表紙の角は、三日でさらに丸くなった。ページの上部に、いつもの題名を書き込む。


 ——世界の呼吸記録


 その下に、今日の日付。まだ誰も正式には使っていないカレンダーの上に、ふたりの暮らしの区切りを刻む。彼女はペン先を軽く鳴らしてから、一行目を書いた。


 ——朝:パンの耳、よく鳴る。甘さ、半分。匂い、強め。


 もう一行。


 ——風:窓から薄く。温度、低い。潮の匂い、少しだけ。


 優は、ジャムの端を指でぬぐいながら、その文字が書かれていくのを見た。字はまっすぐだ。まっすぐな字を見ると、肺の奥に溜まっていた余計なものが、少しずつ外に出ていく。


 食器を流しに運び、蛇口をひねる。水の出は細い。指で受けると、そこだけ冷たさが走り、そのあと指が勝手に目を覚ます。目覚めかたと冷たさは関係がある。冷たさは嘘をつけない。


 皿を拭いていると、廊下側の壁から、こんこん、と軽い音がした。ノックにしては遠慮がちで、呼び出しにしては律儀。優が扉を開けると、隣の部屋の老女が、盆栽の鉢みたいに小柄な体で立っていた。グレーのカーディガン、エプロンはうすい花柄。顔の皺は、笑い方を忘れていない。


 「若いの、うるさくていいねぇ」


 開口一番、言い切って笑う。笑うと、目がつられてこちらも細くなる。


 「うるさかったら、すみません」


 「いいの。うるさいのがいいの。静かなのは、夜だけで足りるから」


 彼女は小さなタッパーを差し出した。中には、緑色の漬物。塩の粒が表面に白く、ところどころに唐辛子の赤が見える。蓋を開けると、強い匂いがふわっと広がった。塩の匂いは遠慮がない。


 「きのう漬けたの。電気が弱いから、早く食べちゃって」


 「ありがとうございます」


 美凪が部屋の中から顔を出し、ぺこりと頭を下げた。老女は「あらきれい」と言って、目を細める。そして急に真顔になって、声をひそめた。


 「さみしくなったら、壁、三回叩いて。昔の合図。救急じゃないけど、すぐ行く」


 「心強いです」


 「若いのは、うるさくて、かわいくて、心配させる生き物だからね」


 老女は笑って、廊下を帰っていく。足音が、ゆっくり、でも弾んでいる。扉を閉めたあと、タッパーの中身を小皿に移す。美凪は箸で一切れとって、恐る恐る口に入れた。頬の筋肉がぎゅっと一度固まり、次の瞬間むせた。


 「しょ、しょっぱい。……でも、わかる」


 咳き込みながら、目の奥で笑っている。


 「しょっぱいが、まだ生きてる」


 「ああ、よかった」


 「水、ちょうだい」


 小さなコップに半分だけ水を入れ、渡す。彼女は口元を押さえながら、少しずつ飲む。飲んだ水が喉を通っていくのを、彼女は指でなぞるみたいに意識している。ここを通って、ここに届く、その地図を書き直している。


 昼は、海へ行く。アーケードの屋根の抜けたところから、薄い光が斑に落ちて、舗装路に白い斑点を散らす。美凪は画板と鉛筆を持ち、優は古いカメラを肩からさげた。バッテリーはあまり持たないから、切るべきところは切る。シャッターを押す回数を数え、押す前に、押すに値するかを測る。測り方は、指先で覚える。


 海辺のベンチは、片足がぐらつく。紙を押さえる石を探して、波打ち際で丸いものを二つ拾った。丸い石は、手のひらに収まると一瞬熱が移る。冷たさと熱の交換が一度成立すると、指先は機嫌がよくなる。


 「何を描く」


 優が尋ねると、美凪はベンチの背もたれに画板を立てた。


 「鳥。二羽。昨日の距離、覚えてる」


 電柱の上には、ほんとうに二羽いた。昨日より、ほんの少しだけ近い。近いけれど、羽根が触れない距離を保っている。互いに相手の輪郭を見失わない程度の間隔。人間が覚えるより先に、鳥が見つけたふるまい方。


 鉛筆が紙の上を走る音は、砕けた砂を踏む音に似ていた。線が重なり、薄い影ができる。輪郭と影のあいだに、空気の層が挟まる。挟まった空気に、風が通る。通った瞬間、画の中の鳥が、紙からほんの少し浮いたように見えた。


 優はカメラを構え、美凪の横顔を撮る。髪の白い束が、海の光を拾って薄い銀色に見える。頬の骨の出方に、最近の削れ方がわずかに混ざる。混ざるたび、記録に残すのをためらいそうになる。でも、ためらわない。ためらうと、あとで写真のほうが嘘をつく。


 シャッターを切る。小さな機械音が、波の音に紛れずに耳に残る。


 「撮りすぎ」


 「撮り足りない」


 「ずるい返し」


 「ずっとずるい」


 美凪は笑って、鉛筆を持ち直す。笑い方が軽く、背中の呼吸が少しだけ深くなった。


 昼下がり、老女が遠くから手を振って通りすぎ、港のほうからは小さなラジオの音が風に混じって連れてこられた。ニュースの内容はよくわからない。語尾だけがやさしく上がる。いいことを言っていても、悪いことを言っていても、人の声は最後だけ優しくなるときがある。


 美凪は描き終えた紙の端に、いつものように短く書き込む。


 ——鳥、二。距離、昨日より近い。

 ——波の音、プラス。

——風、薄いけど冷たくない。


 海辺のベンチに腰掛けて、二人で遅い昼を食べた。隣のパン屋からもらった端切れのパンと、老女の漬物。パンに漬物を挟んでかじるという暴挙は、案外うまくいった。塩と小麦の匂いが、なぜか仲良くする。


 「味、どう」


 「半分。匂いで、半分追加」


 「満点」


 「満点だらけ」


 「満点は、よくばっていい」


 太陽が傾き、ベンチの影が長く伸びる。影の先に、薄い星の見える予感だけが先に来る。予感に身体のほうを合わせるのは難しいのに、美凪は案外うまくやる。息の数え方を、彼女はもう持っている。


 夕方、アパートに戻ると、廊下の壁に三回の軽いノック。老女がタッパーを空で返せと言う合図らしい。優が扉を開けると、「若いの、ちゃんと返すのえらい」と言いながら、今日は小さな干し柿を一つ渡された。「歯にくっつくから気をつけなさい」と笑い、去っていく背中が、祭りの夜の灯籠と同じくらい頼もしい。


 夜。屋上へ上がる。階段の途中で、天井の欠けたところから薄い風が落ちてくる。屋上の扉は鍵が壊れていて、押せば開いた。空は灰色の薄布をもう一枚脱いだところで、まだ星ではないけれど、星が入る皿が準備されているみたいに見える。


 「数えようか」


 「数えるほどないよ」


 「数えられないときほど、数えたくなる」


 二人でコンクリートに座る。冷たさが背中から上がってくる。冷たさは、体の内側の火を確かめる役目をする。彼女の胸の芯子は、服の下で薄く明滅していた。規則的。規則があるのはいいことだ。


 最初の星は、予告なしにそこにいた。電線の少し上、薄い白の点。次にもう一つ。人差し指と中指のあいだほど離れて、同じくらいの明るさ。


 「一」


 「二」


 声に出すのは、少し恥ずかしい。でも、声に出さないと、本当にそこにあるのか自信が持てなくなる。声は、存在の最後の確認作業だ。


 「三。……いや、雲だった」


 「フライングイエロー」


 「それ、どんな反則」


 「野球で言ってた」


 「野球、もう一回見たいな」


 「さーのテレビで、口で実況つける」


 「絶対うるさい」


 「うるさいのがいい、って隣の人も言ってた」


 笑っているあいだにも、星は増えたり減ったりしているように見えた。雲なのかもしれない。錯覚かもしれない。錯覚でもいい。錯覚の夜が、ほんとうになる朝が、いつか来る。


 屋上から下り、部屋に戻ると、テレビの砂嵐の音が心臓の裏側に回り込んで、背中を小さく押した。風呂の代わりに、濡れタオルで体を拭く。濡れた布に石鹸の匂いを少し。匂いは、人を人に戻す。


 寝る前に、ノートにまた書く。


 ——夜:星、二。雲、一。

 ——屋上の風、冷たくない。

 ——笑い、隣まで届く。苦情なし。


 ベッド、いや、ふたりの部屋では雲と呼ぶ布団を、床に広げる。横になると、床板の節が背中をおしてくる。押されるたび、体の居場所がここだとわかる。窓は少しだけ開けて、借りた風の出入りを監視しないで見逃す。


 深夜。静けさの音が一番濃くなる時間。窓の外の電線が、風のない空で黒い線としてそこにあるだけの時間。テレビのさーが、まるで遠い雨のように部屋の角を濡らす。優はうとうとしたところで、背中に小さな熱を感じた。熱は、手のひら一枚ぶんの広さから広がって、すぐに掌二枚ぶんになった。


 「……優」


 耳元で、呼ばれた。いつもより薄い声。薄いのに、名前の部分だけが濃い。


 「胸が、熱い」


 息の上に乗る言葉が、途中で引っかかる。引っかかった先に、芯子の灯りがある。服の上からでもわかる、明滅の速度の乱れ。規則が、少し崩れている。


 「勝手に、同期してる。ごめん。……制御できないときがある」


 謝る必要はないのに、人は謝る。謝らないと、次に進めない夜がある。


 「いい、謝らなくていい。ゆっくりでいい」


 優は起き上がり、彼女の背中に手を当てた。肩甲骨の下、背骨の真ん中。皮膚の下で、浅い波が焦っている。焦りは熱を呼ぶ。熱は焦りをさらに煽る。悪循環に名前をつける必要はない。名前をつけると、症状のようになって、こちらの体が硬くなる。


 「息、合わせよう」


 彼は耳元で、ゆっくり言った。言ってから、自分も息を調える。吸う。数える。一、二、三。吐く。数える。いち、に、さん、し。美凪の胸の上下に合わせて、こちらの数え方を変える。自分が主役で数えない。相手の肺の動きに言い訳なく合わせる。合わせるほうが、力がいらない。


 「吸って」


 「吸う」


 「吐いて」


 「吐く」


 背中の骨が、指の下で一本ずつ並び直る。並び直した骨のあいだを、呼吸の風が通る。通り道が広がると、熱は行き場を見つけて薄まる。芯子の明滅は、はじめ乱れていたが、次第に、さっき屋上で数えた星の二拍子に似てきた。


 「もういちど」


 「もういちど」


 優は自分の額を、彼女の後頭部にそっと当てた。額の骨と骨が触れると、間にある皮膚が少し冷たく、気持ちが落ちつく。落ちつきが、彼女の頸の筋肉にも移る。移すときに、言葉はいらない。


 「……引いてきた」


 数分後、彼女が小さく言った。言葉の重さが、さっきより軽い。軽いのは、嘘ではない。軽さは真実のひとつの姿だ。


 「大丈夫」


 「うん」


 「水、飲む?」


 「少し」


 コップに水を注ぎ、ストローで口元へ運ぶ。飲み込む音が、喉から小さく上がる。喉の筋肉がゆっくり動く。動くたび、胸の明滅が一拍遅れて穏やかになる。


 「ごめんね、起こして」


 「むしろありがとう。……呼ばれなかったら、拗ねてた」


 「子ども」


 「子どもでいい」


 「じゃあ、子どもに条件。……息、これから毎晩合わせる。私がいないときも、覚えてて」


 「覚える。いつでもできる」


 彼女は笑い、肩をすくめた。笑いが、明滅のリズムを一拍だけ速め、すぐに戻る。戻れるうちは、大丈夫だ。


 眠り直す前に、ノートを手元に引き寄せる。ライトはつけない。窓から入る薄い光で、ぎりぎり見えるくらいの濃さで、彼女は指先で文字を探すように書いた。


 ——深夜:恒星炉、勝手に同期。胸、熱。

 ——呼吸、二人で合わせる。

 ——熱、少し引く。

 ——すまない、ありがとう。

 ——星、二拍子。


 余白に、小さく丸が二つ描かれ、そのあいだに薄い線が引かれた。二人の間の距離の絵だ。距離は、変わる。変わるから、描き続ける。


 「また明日」


 布団の中で、彼女が言った。声はさっきよりも低く、眠りの手前に落ちる準備をしている声だ。


 「また明日」


 優も言う。言って、彼女の背中に手を置いたまま、目を閉じた。手の下で、胸の灯りがゆっくりと点滅する。そのリズムに自分の息を合わせる。合わせているうちに、さーの音が遠くなり、部屋の温度が均一になる。均一な温度に、眠りはやさしく落ちてくる。


 夜は、そのまま静かに過ぎた。窓の外で電線が黒い線を保ち、港のどこかで遅れて鳴った風鈴のひとつが、誰にも聞こえない小ささで揺れたかもしれない。気のせいでもいい。気のせいまで、ここに書いておく。そう決めた夜だ。


     ◇


 翌朝。部屋の白は、昨日より半分だけ濃く、パンの耳は昨日より一段カリが強い。老女はまたタッパーを持って現れ、「若いの、うるさくていいねぇ」と笑った。美凪は「しょっぱい、わかる」と胸を張り、むせた。むせながら笑った。


 優はカメラを持ち、今日もまた、彼女の横顔を撮る。撮りすぎ、撮り足りない、ずるい返し。ずるい返しの応酬は、呼吸を合わせる練習に似ている。合わないときは笑いでつなぐ。笑いが切れたら、数える。吸って、吐く。世界の呼吸に、今日も薄く指先を添える。


 ノートの今日の一行目は、こうなった。


 ——今日は鳥、二。距離、さらに一歩。波の音、プラス。


 文字の横に、小さな鳥のシルエットが二つ、指の爪で押したように刻まれていた。ふたりの暮らしは、三日ぶんのうちの一日目を、ゆっくり、しかし確かに使い切った。使い切ることに、罪悪感はない。返すべきものは返す。借りた風も、借りた朝も。返すときに、ほんの少しだけ甘さを乗せて返す。パンの耳に塗ったジャムの量くらいの、慎ましい甘さを。そう決めて、ふたりはまた外へ出た。海の匂いが、昨日よりわずかに近かった。

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