第10話「避難艦アーク」
昼過ぎ、水平線の上に、黒い山のような塊が現れた。最初は雲かと思った。灰色の空の下で形を変えない塊が、ゆっくり大きくなる。双眼鏡を持った漁師が口笛を忘れ、船着き場の子どもが指を突き出す。音のない世界に、鉄のきしむ音だけが遅れて追いついた。
避難艦アーク。政府の広報で何度も聞いた名前が、現物の重さになって近づいてくる。沖合いに停泊すると、海の色が少し暗くなった。巨大な船の影が、海の底の薄い眠りを一枚はがす。甲板には階段がいくつも張り出し、フェンスには番号の札。黒い箱のような艦橋の横に、白い文字が大きく並ぶ。最後の席。最悪のとき。そんな言葉が、鉄板に直接刻まれているように見えた。
町内放送が、慣れない敬語で震える。
「避難艦アークが沖合に到着しました。適合体の近親者に対し、優先乗船権が発行されます。手続きは役場にて。順番はブロックごとです。押さないで。走らないで。呼吸を整えて」
呼吸を整えろと世界に言われるのは、少しおかしかった。でも、誰も笑わなかった。港の手すりに人が集まり、目だけがわいわいと動く。網を干していた父さんたちが手を止め、魚屋のシャッターが半分の高さで固定された。誰も閉めきらない。いつでも戻れるように。
優は観測棟の屋上からアークを見た。ガラス越しの美凪にも見えるように、端末のカメラを向け、映像をボードに映す。ガラスの向こうで彼女が目を丸くする。胸の芯子は薄く灯り、背中の星座は今日は眠っている。
「大きい」
美凪が口の形だけで言った。声は出さない。
「大きすぎる」
優も同じように返す。言葉のサイズが追いつかない。大きいとか大きすぎるとか、子どもの感想みたいな言葉しか出てこない。
夕方前、役場の前の広場が人で埋まった。臨時のテントが建ち、机の上にクリアファイルとスタンプ台。列が蛇のようにうねり、蛇の体に小さな火花が時々散る。誰かが叫ぶ。誰かが謝る。誰かが泣いて、それから笑う。笑うのは緊張が溢れたときの笑いで、誰もそれを咎めない。
優は母と並んで列に入り、父は列の端で落ち着きなく立った。漁師の手がじっとしていられない。網がないと、手は行き場を失う。母は小さなバッグの中で何度も紙を確認した。身分証、家族証明、適合者との関係を証する書類。役場の女の人の言い方が頭の中で繰り返される。前夜に配られた説明書には、最後の方に小さく書いてあった。乗船後の生活は保証されません。保証されるのは、席、そしてしばらくの安全だけ。安全は時間で売られる。
列の途中で海斗に会った。軍警の制服の胸元はいつも通りきっちりしているのに、袖のボタンが一つ外れていた。彼は手帳を握ったまま、列の前から後ろへ、後ろから前へと歩く。その目はアークではなく、地面の割れ目を見ているようだった。
「妹を乗せる」
海斗が言った。前置きも後置きもなく、芯だけ抜き出した言葉。
「隊は」
「離れる。任務より家族だ。今は」
あの海斗が、明瞭に規定から外れた言い方をする。それはこの町で起こりうる自然現象のひとつになった。優は短くうなずく。うなずいたあとで、喉の奥が痛くなる。海斗はバイザーを上げ直し、視線を少しだけ落とした。
「お前は」
「残る」
「母親は」
「説得してる。説得されない」
「そうか」
短い会話が、海水に落ちる小石みたいに沈む。沈んだ音は誰にも聞こえない。代わりに、放送の音が上から降ってくる。乗船手続きの呼び出し。ブロック番号。名前。名前は呼ばれると、ふわっと軽くなる。呼ばれない名前は重い。
母は列の途中で優の手首を握った。子どものころと同じ力で。
「お願いがある」
「乗れ、は聞き飽きた」
「お願いのほう。乗らないでって言われるより、難しいお願い」
「なんだ」
「乗らないと決めたなら、誰も恨まないで。乗る人も、乗らない人も。それはそれ、だって言って。あとで言い訳にしないで」
母の目は笑っていなかったけれど、涙も出ていなかった。涙で守れないものがあることを、母は知っている。優は頷く。頷くしかない。言葉にすると軽くなる。軽くなって浮く。今は浮かせたくない。
乗船権のカードは白いプラスチックで、角が丸い。名前と生年月日と、薄い紋章。母の分と、父の分。優の名のカードも置かれたが、彼はそれを取らなかった。机の向こうの人は何も言わないで、カードを一枚、箱に戻した。箱の底に当たる音が小さく響く。捨てたのではない。ただ、戻しただけ。それでも、胸の中では同じくらい痛んだ。
日が傾く。アークの影が港の縁を越え、町の端を薄くかすめる。カーテンに触れない影。けれど、誰の背中にも確かに触る影。乗るか残るかで町は分かれた。魚屋の親父が「残る」を譲らず、八百屋の奥さんが「乗る」を泣きながら貫く。口論はするのに、手は出ない。手を出さなかったことを、夜にみんなで褒め合いたいから。
夜。港の照明が点く。アークの甲板にも灯りがつき、白い線がいくつも空に伸びる。乗船用の渡橋が下り、番号が呼ばれて列が動く。黒い海に、白い灯りの筋が引かれる。灯りは静かに揺れ、海に落ちない。落ちない限り、人は信じる。
優は岸壁に立ち、母の手を握って見送る。母は連絡用の小さなラジオをポケットに入れ、優の頬に触れた。
「また明日」
母は言った。今まで何度も言ってきた言葉。いつもの約束。世界が壊れてからも、それは壊れなかった。父は遠くから手を上げ、言葉の代わりに目を細める。照明の光で、笑っているのかどうか判別しづらい。笑っていることにする。そうしないと、今夜の風呂がぬるくなる。
海斗は岸壁の端で、小さな女の子の手を握っていた。妹は十歳になったばかりだ。彼女はぬいぐるみを抱えて、アークの灯りを見上げる。海斗は妹の髪を手早く結び直し、額に短く口づけした。手の甲で涙を拭う。泣かないのは規定ではない。泣き方を忘れていくだけだ。
「任務より家族だ」
海斗は誰にともなく言った。言ったあとの顔は、やっと自分の背丈に合った場所に立てた顔をしていた。
観測棟では、夜間の短時間稼働に向けて準備が進んでいた。加瀬はいつもの手順を、いつもより一つ多く確認する。手順は増えるためにある。増やしたぶんだけ、人が呼吸できる。彼女は端末の横に小さく置いた封筒に触れ、触れただけで引っ込める。開けない。開けないから、続けられる。
「今夜は海が荒れる可能性」
記録担当が低く言う。データに混じる小さな異物が、次のページの罫線に引っかかる。恒星炉の稼働に伴って、海面に蓄積される帯電。呼び名はまだない。名前がつくのは、被害のあとだ。この国はそういうふうに、言葉を慎重に選ぶ。選んでいる間に、夜は深くなる。
「短く。確かに」
加瀬がいつもの合言葉を言う。部屋の空気がそれを覚えて、冷たいのに柔らかい。
アークの甲板で、母や妹たちの列が進む。係員の誘導が静かで、足音が揃う。海面には光の破片が浮かび、波にまかせて細かく砕ける。風はない。ないから、火の煙はまっすぐ上に伸びる。火はまだないけれど、煙だけが走り出した。
最初の光は、音を連れてこなかった。甲板の端で白い筋が立ち上がり、空を直線に裂く。髪が逆立つ感覚が、乗客の肌を順番に駆け抜ける。静電嵐。海面に蓄えられた電荷が一挙に解放されるとき、空は短い怒り方をする。恒星炉の稼働が引き金になった。良い兆候をひとつ生むたびに、小さな悪い兆候がひとつ起きる。世界はそういう形に調律されている。
「伏せて」
誰かの声。声は届く前に次の白光が重なる。白光は柱になって、甲板の柵を貫いた。鉄が白く光って、次の瞬間、赤に変わる。火は音を連れてきた。叫びは遅れてきた。人の叫びは指の先から始まり、喉に届くころには形を失う。形を失っても、誰かの耳には届く。
岸壁がざわめく。港の空気が、音を抱えきれずに震える。優は走り出していた。足が勝手に動く。岸壁の端で足が止まる。海とのあいだに段差がある。段差は埋められない溝みたいに深く見える。
「戻れ」
海斗の声が背中に飛ぶ。彼はすでに制服の上着を脱ぎ、妹を別の隊員に託し、岸壁のボートに向かっていた。ボートは重量に悲鳴を上げるが、文句は言わない。文句を言うのはいつだって人間だ。人間はそれでも動く。
アークの甲板では、火の筋が連鎖していた。白い筋が赤い布に変わり、布が風のない空に立ち尽くす。人が縁に押し寄せ、海に飛び込む。海は冷たい。冷たいのに火が追いかけてくる。静電の火は、水の表面を駆ける。逃げ道は少ない。少ないけれど、ゼロではない。
観測棟でアラームが立て続けに点った。加瀬の端末に異常値。帯電の指数が跳ね上がる。海域マップに白い斑点がいくつも現れ、線でつながる。アークの位置に重なる点が大きい。加瀬の指が動く。医者の指だが、今は操縦士の速さになっている。
「出力、変調」
美凪の胸の芯子が明るさを変える。灯りは大きくならない。周波数だけが変わる。背中の星座が順番を変え、別の星座の形を作る。心拍と同調するテンポに、世界の浅い呼吸の波を乗せ換える。海面の帯電を静かにほどく。強く叩かない。こすらない。糸を一本ずつ引き出して、絡まりがほどけるように。
「美凪」
優はガラス越しに名前を呼ぶ。呼ぶ声は届かなくても、名前は届く。喉の手前で温め続けた名前は、いざというとき、勝手に走り出す。呼ばれたほうも走る。だから、会える。
アークの上で、火の筋が一本、途中で細くなった。細くなって、そのまま消えた。消えた場所の空気が少しだけ冷える。次の筋は出力を失い、赤から白に戻って、空に吸い込まれた。甲板の鉄は赤を手放し、黒い自分に戻る。戻るまでに、時間がかかった。時間はいつだって、火の味方をする。
「相殺、入った」
記録担当が言い、加瀬は頷く。頷きながら、コンソールの横で握っていたペンをそっと置く。ペンの先の細いインクが途切れないように、置くときだけは丁寧に。美凪の呼吸が浅くなる。浅いが、テンポは守られている。守られたテンポに、世界の波がずれて重なる。重なり方は美しいとは言いがたいが、効果はある。
岸壁で、優はただ祈った。祈り方を誰にも習っていない。両手をどう置けばいいのかも、言葉をどこに向ければいいのかも知らない。ただ、目の前の海と、遠くの甲板と、ここから見えないガラスの向こうに向かって、同じ言葉を何度も繰り返した。無言で。
足元に焦げたものが流れ着いた。波が持ってきたのは、黒く焼けた救命胴衣の一部。発泡材が露出し、ベルトのバックルは溶けて歪んでいる。優はそれを拾い上げた。手のひらに煤がつき、においが指に染みる。焦げのにおいは簡単に落ちない。落とさない。落としたくない夜がある。
「やめろ」
海斗の声がまた飛ぶ。ボートのエンジンが唸って、岸壁から離れる。彼は振り返らない。振り返ったら、規定に戻ってしまうから。今は戻らない選び方をした。選んだ以上は、前だけを見る。
アークの火は、やがて落ち着いた。火の筋は空に消え、甲板の布は黒い布に戻る。人々は縁から離れ、体を抱き合う。泣く人。笑う人。笑って泣く人。何も言わずに座り込む人。船の上にある感情の種類は、港の屋台のメニューより多い。
静電嵐の痕跡は、海面に残った。白い泡が点々と浮かび、消えかけの星みたいにわがままに光る。港の鳥が一羽、泡を見つめて首を傾げる。飛ぼうとして飛ばない。飛ばないことで、今夜は生き延びる。
観測棟の中で、美凪が肩で息をした。背中の星座が消え、胸の芯子の灯りが細く落ちる。髪が額に張り付いて、汗の筋が頬を走る。加瀬が水を差し出す。ストローで少しずつ。飲み込むたび、のどの筋肉が動くのを確認する。大丈夫。大丈夫は簡単には言わない。今夜は言っていい。
「髪」
看護師が小さく言った。ベッドの脇に落ちた髪の束。白い。美凪の髪は黒いはずなのに、その束だけが白く焼けていた。指で触れると、すぐに砕ける。触れなくても砕ける。
「一本」
美凪は笑って言った。一本、と言うには多かった。束。束、と言うには少なかった。彼女はその辺の数え方だけ、正確にしない。
「痛いか」
優がボードに書く。ガラス越しに見せる。美凪は首を振る。痛くない、と簡単には言わない。痛いかと聞かれて、痛くないと答えるのは、強がりではなく、合図だ。大丈夫の合図。合図は、受け手が正確に受け取れるように、何度も発される。
「怖かった?」
「怖いから、先に終わらせた」
澪の言葉が、ガラスの向こうから届いた気がする。彼女の部屋の灯りは落ちている。彼女はきっと、天井のどこかを見ている。今日、彼女は直接の稼働には関わっていない。それでも、彼女の体のどこかで、別のテンポが一緒に走った。二系統の呼吸は、競い合うものではなく、補い合うものだと、今夜またひとつ証明された。
加瀬は記録に書く。「静電嵐発生。恒星炉稼働の副作用。相殺成功。副損傷:軽微。髪の脱色」。字は端正だが、最後の一行だけ、筆圧が薄くなった。薄くなるのは、力尽きたからではない。力を残すための配分。娘を失った人は、力の配分の仕方を覚える。覚えたやり方を、今、別の場所で使っている。
港の空は、少しだけ明るかった。火の残り光が雲の下に貼り付き、白い膜になって街を照らす。人々は少しずつ家に戻る。戻りながら、何度も振り返る。振り返っても、アークはもう火を噴かない。噴かないけれど、誰かがまた泣く。泣いている人の背中を、誰かが叩く。叩き方は国語の授業で習わない。家で習う。家はまだある。
優は焦げた救命胴衣を抱えたまま、岸壁に座り込んだ。膝に手を置き、額をその上にのせる。祈るときは、誰が見てもいい。見られて困る祈り方は、祈りではない。彼は目を閉じ、喉の手前で名前を温め直した。今夜は名前を出さない。出したら、戻してしまう気がした。戻すわけにはいかない。今夜は彼女が向こう側で、世界と息を合わせているのだから。
岸壁の端で、海斗のボートが戻ってきた。濡れた制服の肩が光り、髪から水が滴る。妹の姿は見えない。彼女はアークの中にいるのだ。いる。いると信じる。信じるために、今は何も言わない。
「どうだった」
優が聞く。海斗は目だけで答えた。大丈夫、と目が言った。目の嘘は見抜きにくい。見抜けないままでいい夜がある。
「お前は」
「祈った」
「それが一番難しい」
海斗は苦く笑って、手のひらをさすった。救い上げた誰かの体温が残っている。体温は指から消えるのが一番遅い。最後に消える場所を、彼は知っている。
風はない。ないのに、風鈴が一度だけ鳴った。港の灯りの向こうで、誰かが揺らしたのかもしれない。世界が短く息をしたのかもしれない。音は小さく、港の広さに負けてすぐに薄まる。それでも、鳴ったことだけが確かだった。
観測棟で、美凪は眠りに落ちた。眠りに落ちる前、枕元のノートに一行書く。
——海は怒った。すぐに落ち着いた。
——鳥は夜でも電柱にいる。
——髪、少し白い。
——指輪、今日は枕元。
——笑い、あとで。
余白に小さく、加瀬の字が滑り込む。「良い兆候。副作用、記録。対策案、明朝」。医者の字と母親の字が一瞬重なる。重なったところは濃くなり、濃いところだけが朝まで残る。
夜更け。優は焦げた救命胴衣のベルトを握り直し、立ち上がった。手のひらの煤は落ちない。落とさない。家に帰って、洗面台で水を出し、汚れだけを落とす。匂いは残る。残った匂いは、明日の約束みたいなものだ。
家に入ると、テーブルにパンケーキの粉の袋が置いてあった。母がメモを添えている。「明日の朝、焼いて」。焦げた匂いと粉の匂いが混ざる。甘さと苦さの混ぜ方は、うちのやり方でやる。
窓の外、アークの灯りは遠い。遠いのに、目を閉じても見える。火の筋が白に戻り、線が空に消えた瞬間を、何度も繰り返し再生してしまう。再生は祈りの一種だ。祈りは疲れる。疲れたら眠る。眠ったら、朝になる。朝は、借りたぶんだけ、返しに行く。
枕元の写真立ての中で、風鈴祭りの風鈴は静かに笑っていた。ガラスの玉の中に、今夜の白い筋は映らない。過去には映らない。映らないから、今夜は写真に勝てる。勝てるときに勝っておく。
明け方、港の鳥が一度だけ短く鳴いた。鳴き方を思い出したのは、鳥のほうが先だった。
優は目を閉じたまま、喉の手前で名前をもう一度温める。呼べば戻る。戻る場所はさっき増えた。アークの上と、観測棟のガラスの向こうと、家の食卓の粉の袋の横。増えたぶんだけ、息を配る。浅い世界で、分け合う呼吸をまた少し覚えた夜だった。
朝になったら、粉を混ぜる。水は薄く、卵は多め。焼きすぎない火加減を指に思い出させる。音で食べるパンケーキは、焦げない程度に強気でひっくり返す。カリのあとで、ジュワが来るように。音が味になるように。
窓の外が白み、アークの影が薄くなる。薄くなっても、そこにある。最後の席は、最後まで最後だ。その最後が遠のくように、今日も短く、確かに。世界の息が、少しだけ深くなることを願って。願いは、祈りの軽いほう。軽いほうから始める。重くなる前に、焼き上げる。焼き上げたら、半分こにする。半分の味でも、二人なら丸くなる。そんな朝が、もうすぐ来る。




