第15話 永遠の愛
「急いで陛下に!」
侍医長が完成した解毒剤を手に、王のもとに駆け寄った。
まだ意識を失ったままの王の口に、慎重に薬を流し込む。苦い薬草の香りが室内に漂った。
一同が固唾を呑んで見守る中、長い沈黙が続いた。
やがて、王の顔に血色が戻り始める。荒かった呼吸が次第に落ち着き、額の汗も引いていく。
「陛下……」
アルノルトが祈るように呟いた。
その間、ハインリヒ大公は床に倒れたまま、目に見えない力に押さえつけられて身動きが取れずにいた。
「放せ……放してくれ……」
大公の声は、もはや威厳を失っていた。恐怖と絶望に満ちている。
『もうすぐです』
霊嬢の声が静かに響いた。だが、その声は先ほどより弱々しい。まるで存在そのものが薄れていくように。
王がゆっくりと目を開けた。
「私は……何が起こったのだ?」
「陛下、ご無事で!」
アルノルトが安堵の涙を流した。
「毒を盛られたのです。ですが、解毒剤が効きました」
「ベルクマン様、あなたの解毒剤も完成しております」
侍医長がもう一つの解毒剤を差し出す。
王が驚いた表情を見せた。
「なんだと……アルノルト、お前も毒を……?」
「はい、陛下。同じ者に盛られました」
アルノルトも薬を飲み干した。体の奥で蠢いていた毒の感覚が、みるみる消えていく。
「ありがとうございます」
王は状況を把握すると、床に倒れている大公を見下ろした。
「ハインリヒ……まさか、お前が」
「……兄上」
大公の目に、諦めの色が浮かんだ。
その時、霊嬢の姿がゆっくりと現れた。
透明な光に包まれた美しい女性。長い金髪と気品ある佇まい。エスタリード侯爵家の令嬢、ヴィオラ・エスタリードの霊だった。
一同が息を呑んだ。だが、最も衝撃を受けたのは大公だった。
「まさか……そんな……」
大公の声が震えていた。
「君は……君だったのか。この十五年間、ずっとあの独房に……」
『はい』
霊嬢は静かに答えた。
『十五年間、あの場所で囚人たちを見守っていました』
「なぜ……なぜ私の前に現れなかった」
『怖かったのです』
霊嬢の声に、深い悲しみが込められていた。
『また……あなたに消されてしまうのではないかと』
大公の表情が歪んだ。
『でも……それだけではありません』
深い静寂が室内を包んだ。
『私を陥れた張本人。家族を破滅に追いやった敵。そう思って、憎むべきなのでしょう』
『でも……あなたを憎むことは、どうしてもできませんでした』
霊嬢の声が震えている。
『あなたは……私の婚約者でしたから』
『愛していたわけではありません。でも……いつか愛するようになったかもしれません』
大公が嗚咽を漏らした。
「ヴィオラ……すまない……本当に、すまなかった」
『どうして』
霊嬢が尋ねた。
『どうして、あのようなことを』
「父上が……迷っておられた」
大公は涙ながらに語り始めた。
「君との婚約について。周囲は皆、兄の方が相応しいと囁いていた」
王が息を呑む。
「『王位継承者の妃に』『国を治めるには兄君の方が』『大公はまだ若すぎる』……そんな声ばかりが聞こえてきた」
大公の声が途切れそうになる。
「父上も、日に日に迷いを深められていた。いつか、君を兄に譲るよう言われるのではないかと……」
『それで……』
「君を失いたくなかった」
大公は床に額をつけた。
「兄に奪われるくらいなら……いっそ、君の家を陥れて婚約を白紙にしてしまえば、少なくとも兄には渡らない」
『そんな……』
「だが……君は死んでしまった」
大公の嗚咽が止まらない。
「愛していた。誰よりも、何よりも愛していた。なのに、この手で……君を殺してしまった」
王がベッドから身を起こし、よろめきながら前に出た。
「弟よ……私は、彼女を奪うつもりなど毛頭なかった」
「嘘だ!」
大公が顔を上げた。
「皆がそう言っていた! 兄上も、きっと……」
「一度たりとも、そのようなことを考えたことはない」
王の声に真実味があった。
「確かに父上は迷われていた。だが、それは君の年齢を案じられてのこと。『ハインリヒはまだ若い。もう少し待ってから』と」
大公が愕然とする。
「では……この感情は……」
『無意味でした』
霊嬢が静かに言った。
『すべて、あなたの思い込みでした』
長い沈黙が続いた。
十五年前の真実が、ようやく明らかになった。大公の嫉妬と恐怖が生んだ悲劇。すべては杞憂だったのだ。
「君を……愛していたのに」
大公が呟いた。
「この手で殺してしまった。そして十五年間、ずっと君を苦しめ続けていた」
『いえ』
霊嬢は微笑んだ。
『私は苦しんでいませんでした』
『独房での十五年間は、確かに長い時間でした。でも、そこで多くの囚人たちに出会い、彼らの心に寄り添うことができました』
『そして最後に……アルノルト様に出会うことができました』
その時、アルノルトが前に出た。
「あなたは……」
『アルノルト様』
霊嬢がアルノルトに向き直る。
『あなたのおかげで、私は人として扱われる喜びを思い出しました。愛することの幸せを、再び知ることができました』
「私こそ、あなたに救われました」
アルノルトの目に涙が浮かんだ。
「あなたがいなければ、私は道を見失っていたでしょう」
『ありがとうございます』
霊嬢の体が、次第に光に包まれていく。
『おかげで……心残りなく、旅立つことができます』
「待ってください」
アルノルトが慌てて手を伸ばした。
「まだ行かないでください」
『もう十分です』
霊嬢の声が遠ざかっていく。
『私の役目は終わりました。無実の人々の声を届け、真実に光を当てることができました』
『そして……』
霊嬢は大公を見つめた。
『あなたも、きっと変わってくれるでしょう』
大公が手を伸ばす。
『さようなら』
霊嬢はアルノルトに向き直った。
『私の分まで……この国を、よろしくお願いします』
「はい……あなたの想いを、必ず受け継いでいきます」
アルノルトは涙を流しながら誓った。
『もし……生まれ変わりがあるなら』
霊嬢の声が微笑みに満ちている。
『また会いましょう。今度は、触れ合える世界で』
「必ず……必ずヴィオラ様に会いに行きます」
『愛しています、アルノルト様』
最後の言葉と共に、霊嬢の姿は光に包まれて昇華していった。
温かな光が室内を満たし、まるで無数の星屑のように輝きながら、やがてゆっくりと天に向かって昇っていく。
アルノルトは膝をついた。涙が止まらない。
最愛の人が、ついに神の元へ召されてしまった。
王が彼の肩に手を置いた。
「彼女は英雄だ。そして君も」
大公も泣いていた。十五年間抱え続けた罪悪感と、愛する人への想い。すべてが涙となって流れ出ている。
「兄上……私は……どうすれば」
「罪を償うのだ」
王が静かに言った。
「彼女が望んでいた世界を、一緒に作ろう」
大公は深く頷いた。反逆の罪は重い。だが、せめて残りの人生を償いに捧げたい。
その後、大公は反逆罪で逮捕されたが、王の慈悲により死罪は免れた。代わりに終身幽閉となり、残りの人生を過ごすことになった。
だが彼は悔いてはいない。愛する人の魂が安らかに眠り、そして真実が明らかになったのだから。
大公派の主要人物も一網打尽となり、司法制度の改革が本格的に始まった。
エスタリード侯爵家の名誉も完全に回復され、辺境に送られていた家族たちも王都に呼び戻された。
十五年という長い年月を経て、ようやく真実の光が差したのだ。
愛するヴィオラ・エスタリードは天に召されてしまった。
だが彼女との愛は永遠に心の中で輝き続ける。その温かな光を胸に、アルノルトは歩み続ける。
正義と平和に満ちた世界——それがきっと、愛する人が一番望んでいたものだから。
「ヴィオラ様……どうか、微笑んでいてください」
アルノルトは空を見上げ、静かに呟いた。きっと彼女は、どこか遠い場所から見守ってくれている。
その想いを胸に、彼は新たな明日へと歩き続けた。




