第13話 王宮への帰還
やがて、暗闇の果てに微かな光が見えてきた。
長い地下道の終わりに、ようやく王宮に繋がる出口だ。夜明け前の薄明かりが、石の隙間から漏れている。
アルノルトは最後の力を振り絞って、回転扉を押し開いた。
壁が重々しく回転し、王宮の廊下に出る。誰もいない早朝の通路だ。
「ようやく着いたか」
その声に、アルノルトは顔を上げた。
そこに立っていたのは、リチャード・グラハムだった。
「リチャード……」
「待っていたぞ」
リチャードが駆け寄り、よろめくアルノルトの腕を支えた。
「お前が必ず、この通路を使って戻ってくると信じていた。この出口は王の寝室と医務室に近い城内の死角だ。来るとしたらここだと思って、人払いをしておいて良かった」
「すまない……心配をかけた」
アルノルトの体が揺れる。リチャードは彼を壁に寄りかからせた。
「エドワードたちは無事か?」
「ああ、すぐ近くに待機させてある」
その時だった。
廊下の奥から、複数の足音が響いてきた。松明の光が近づいてくる。
「そこにいるのは何者だ!」
大公派の紋章をつけた兵士たちが、武器を構えて現れた。その数、十人。
「ベルクマン伯爵……やはり逃げてきたか」
兵士の一人が冷笑を浮かべた。
「大公閣下の命により、お前を再び捕縛する」
「毒でフラフラのはずだ。抵抗などできまい」
兵士たちが包囲網を狭めてくる。
アルノルトは反射的に腰に手をやったが、そこに剣はない。牢獄で武装解除されたままだった。そして体も思うように動かない――毒がまだ、体の奥で蠢いている。
「アルノルト、下がれ」
リチャードが前に出た。
「お前の仕事は、生きて王の寝室に辿り着くことだ。戦いは俺たちに任せろ」
その瞬間、物陰から三人の人影が飛び出した。
「旦那様!」
ガレス、エドワード、マーカスだった。
「お前たち……」
「リチャード様から連絡を受けて、ずっと待機していました」
エドワードが杖を構えた。
「さあ、行きますよ」
ガレスが大剣を抜いた。その巨体に似合わぬ、流れるような動き。
「貴様ら、たった四人で我々十人を相手にするつもりか」
兵士たちが嘲笑する。
「数で勝てると思うな」
リチャードが剣を抜いた。その動きは無駄がなく、冷徹な美しささえ感じさせる。
次の瞬間、戦闘が始まった。
ガレスが先陣を切って突進する。だがその動きは粗野ではない。大剣を巧みに操り、まるで舞うように兵士たちの間を縫っていく。
「なんだと!?」
兵士の一人が驚愕の声を上げた。巨体から力任せの戦法を予想していたのだろう。だがガレスの剣技は驚くほど洗練されていた。
「甘く見るなよ」
ガレスの剣が一閃し、兵士の武器を弾き飛ばす。
同時に、エドワードが詠唱を始めた。
「風よ!」
突風が廊下を駆け抜け、兵士たちの隊形を崩す。
「次は火だ!」
炎の球が宙を飛び、兵士たちの足元で爆ぜる。直接当てるのではなく、牽制と撹乱に徹している。
「くそっ、魔術師か!」
兵士たちが慌てる中、マーカスの姿が突然消えた。
「何!? どこに行った!」
隠密魔法だ。マーカスは透明化し、兵士たちの背後に回り込んでいた。
「こっちだ」
声と共に、兵士の一人が足を取られて倒れる。マーカスが床に水の魔法を使って滑りやすくしたのだ。
その隙を、リチャードが見逃さなかった。
無駄のない動き。一瞬の迷いもなく、剣が閃く。
兵士の剣が弾かれ、リチャードの剣先が喉元に突きつけられる。
「動くな」
冷たい声。リチャードの目に、一切の感情が見えない。まるで氷のように冷徹だ。
「ぐっ……」
兵士が降伏の意を示す。
エドワードが土の魔法で兵士の足を固め、マーカスが隠密魔法で次々と兵士を撹乱する。ガレスとリチャードが前衛で敵を圧倒していく。
わずか数分で、十人の兵士は全員無力化された。
「さすがだな」
リチャードが剣を鞘に収めた。
「当然です」
ガレスが誇らしげに答えた。
「さあ、旦那様。急ぎましょう」
エドワードが駆け寄ろうとした瞬間、アルノルトの体が大きく揺れた。
「旦那様!」
「大丈夫だ……ただ、少し」
戦闘の緊張が解けた途端、毒の影響が一気に押し寄せてきたのだ。
「アルノルト!」
リチャードが慌てて支えた。
「いいから飲め!」
リチャードが小瓶を取り出し、アルノルトの口に押し当てた。
「リチャード、これは……」
「いいから!」
有無を言わさず、リチャードが液体を流し込む。アルノルトは咳き込みながらも、飲み込んだ。
苦味と、微かな甘みが口の中に広がる。そして、不思議なことに、体の奥で蠢いていた毒の感覚が少しだけ和らいでいくのが分かった。
「少し……楽になった」
「当然だ。薬草に詳しい協力者が作った解毒剤だ」
リチャードが簡潔に言った。詳しい説明は後回しだ。今は一刻を争う。
「行くぞ。王の寝室は近い」
五人は廊下を駆け出した。
王の寝室へ向かう足取りは、まだ完全には回復していないアルノルトにとって辛いものだったが、それでも彼は歩みを止めなかった。
廊下の窓から見える空は、まだ暗い。しかし東の空がわずかに白み始めている。夜明けが近い。
移動しながら、リチャードが説明を続けた。
「さっきの薬は応急処置だ。完全な解毒には、正確なレシピが必要になる」
「レシピ……」
「ああ。悪魔の涙には変種がある。調合した者しか知らない、微妙な配合の違いがあるはずだ」
リチャードは懐から紙の束を取り出した。
「これは俺の知り合いの令嬢が作った、解毒剤の調合記録だ。彼女は十五年も前から毒の研究を続けていてな」
「十五年前……」
「ああ。エスタリード令嬢の知り合いだったそうだ。処刑されたことに怒り、それ以来、あらゆる毒の解毒剤を作ると誓ったらしい」
アルノルトの胸が熱くなった。霊嬢の優しさは、こうして人々の心に生き続けていたのだ。
「宮廷薬師だけでは悪魔の涙の解毒剤は作れなかった。だが彼女が知識を提供し、今まさに王の解毒剤を調合している」
「それと、もう一つ」
リチャードがもう一つの書類の束を取り出した。
「お前の証拠書類も預かっている。エドワードたちから受け取った」
「ありがとう……」
アルノルトは二つの書類を受け取り、大切に懐にしまった。
霊嬢の想い。
薬草研究に人生を捧げた女性の執念。
リチャードの友情。
側近たちの忠誠。
冤罪で亡くなった無実の人々の無念。
そして、この国の未来。
すべてを背負って、アルノルトは王宮の廊下を進んでいく。
やがて、王の寝室の前に辿り着いた。
扉の向こうから、複数の声が聞こえる。大公派の重鎮たちが、夜明け前のこの時間に集まっているのだ。王の容態悪化を受けて、緊急の会議を開いているに違いない。
「準備はいいか?」
リチャードが小声で聞いた。
「ああ」
アルノルトは頷いた。そして、懐に手を当てた。
一瞬、地下の独房を思い出す。
そこに、もう彼女はいない。
だが――彼女の想いは、ここにある。
胸ポケットの中で、紙が温もりを持っているような気がした。
「行こう」
アルノルトは扉に手をかけた。
この扉の向こうで、すべてが決まる。
真実が明かされ、正義が勝利するか。
それとも、陰謀が成就し、国が闇に飲み込まれるか。
アルノルトは深呼吸をして、扉を押し開いた。
運命の対決が、今、始まろうとしていた。




