第12話「霊嬢の祈り」
暗闇の中、アルノルトは必死に隠し通路を進んでいた。
石の壁に手をつきながら、一歩ずつ足を前に出す。体の奥から毒が這い上がってくるような感覚。マルコの薬のおかげで呼吸は楽になったが、それでも時間との勝負だった。
(王宮まで……辿り着かなければ)
喉が渇く。額に汗が滲む。視界が時折ぼやけた。
だが立ち止まるわけにはいかない。
リチャードが待っている。王宮で解毒できる。
霊嬢の最後の言葉が、心の支えとなった。
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その頃、地下三階の独房では——
「何だと!?」
大公ハインリヒの怒声が廊下に響いた。
「ベルクマンが逃げた? 馬鹿な!」
「申し訳ございません。独房には誰もおらず……」
兵士が震えながら報告する。
「どこから逃げた! 牢獄の出入り口は全て見張っていたはずだ!」
「それが……手がかりが何も」
大公は舌打ちした。独房の中を覗き込む。確かに誰もいない。
「ふん、どうせ王の解毒剤では助からん。王のものとは違う、改良した毒だからな」
大公は懐中時計を取り出した。金色に輝く精巧な細工。
ふと、15年前の記憶が蘇る。
この時計を、彼女に贈るはずだった。
だが周囲の噂が耳に入った。「エスタリード令嬢は、王の妃に相応しい」「ハインリヒ様ではなく、フィリップ様の方が」
父王も決めかねていた。
恐怖に駆られた。兄に、また何かを奪われる——
大公は素早く頭を振り、記憶を追い払った。
「本当の解毒剤のレシピは……こちらにある」
裏蓋を開く。
その中に、小さく折り畳まれた紙片が挟まれていた。
大公は満足げに頷き、そして胸ポケットを軽く叩いた。
「そして王のレシピは、こちらに。誰も知らぬ、私だけの秘密だ」
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独房の闇の中で、霊嬢はその光景を見ていた。
『……解毒剤のレシピ』
大公の独り言が聞こえた。アルノルトを救うために必要なもの。
そして、もう一つ。
『王のレシピ……胸ポケット』
霊嬢の心に、決意が芽生えた。
十五年間、この独房で多くの囚人を見送ってきた。
だが、ただ見守ることしかできなかった。
声をかけることはできても、触れることはできない。何かを動かすことも、誰かを助けることも——
『でも、今だけは』
霊嬢は全身全霊を込めた。
アルノルトのため。愛する人のため。
わずかに残った力を振り絞る。風を起こすことならできるはずだ。
体が薄れていくような感覚。存在が揺らぐ。十五年間保ち続けてきた形が、崩れそうになる。
それでも構わない。
彼が生きてくれるなら。
『お願い……!』
霊嬢は祈るように、風を呼んだ。
突然、独房に冷たい風が吹き抜けた。
「何だ!?」
大公の手から懐中時計が滑り落ちた。
石の床に落ちた時計から、紙片が舞い上がる。
「しまった!」
大公が慌てて手を伸ばす。だが紙片は風に乗って、独房の奥へと飛んでいった。
「くそ!」
大公は松明を掲げて奥へと進む。だが独房の最奥は暗く、小さな紙片を見つけるのは容易ではない。
「お前たち! 松明を持って来い! 紙を探すのだ!」
兵士たちが慌てて駆け寄る。
その時——
「大公閣下!」
別の兵士が駆け込んできた。
「王宮から緊急の伝令です。陛下が閣下を至急お呼びです!」
「今、それどころではない!」
「ですが、最優先の命令とのことで……」
大公は苛立ちを隠せなかった。だが王の命令を無視するわけにはいかない。
「……分かった」
大公は床に落ちた懐中時計だけを拾い上げた。中身は空だ。
「お前たち、この独房を徹底的に探せ。小さな紙片だ。見つけたら必ず私に報告しろ」
「はっ!」
兵士たちが一斉に返事をする。
大公は舌打ちしながら、王宮へと向かった。
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兵士たちが独房を探し始める。
その中に、一人だけ違う動きをする者がいた。
帰り際にアルノルトを振り返った、あの兵士だ。
看守長のマルコが鍵を持ってきた。
「独房の鍵だ。しっかり探せ」
リチャードの手の者である兵士は、静かに鍵を受け取った。
他の兵士たちが松明の光で床を探している間、彼は独房の扉を開けた。
独房の中——そこは他の兵士が立ち入れない、霊嬢だけの領域。
『……あなたは』
霊嬢の声が聞こえた。
兵士は驚いて周囲を見回す。だが誰もいない。
『先ほど、アルノルト様を振り返った方……』
霊嬢は確信した。この兵士は味方だ。
『床の奥、右の隅です』
兵士は霊嬢の声に導かれるように、独房の奥へと進んだ。
松明の光が届かない暗闇の中、石の床の隅に、小さな紙片が落ちていた。
兵士はそれを拾い上げた。
『それを……どうか、アルノルト様に』
霊嬢の声が震えていた。
『お願いします』
兵士は無言で頷いた。そして紙片を懐に隠し、独房を出た。
「何か見つかったか?」
別の兵士が尋ねる。
「いや、何も」
リチャードの手の者は平静を装った。
「もっと奥を探さないと駄目だな」
兵士たちは探索を続けた。だが、レシピは既に安全な場所にあった。
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独房に一人残された霊嬢は、力を使い果たしていた。
『アルノルト様……どうか、無事で』
彼女の祈りだけが、暗闇に静かに響いていた。




