第11話「最後の言葉」
地下三階の独房。
アルノルトは冷たい石の床に座り込み、鉄格子に背中を預けていた。兵士たちに捕らえられ、抵抗する間もなくこの場所へ連れ戻された。
「はは……私がここに入れられたということは、死刑確定ということですね」
アルノルトの声に、乾いた笑いが混じった。
『アルノルト様……』
霊嬢の声が震えていた。
「でも最後に、貴女に会えて良かった」
『……』
霊嬢は言葉を失っていた。アルノルトの声に込められた諦めと、それでも消えない温かさが、彼女の心を締め付けた。
「もう……何を信じて良いか分かりませんね」
アルノルトは天井を見上げた。
「王を守ろうとしたのに、王を毒殺しようとしたと言われ……正義を追い求めたのに、逆賊として捕らえられる」
『そんな……あなたは間違っていません』
霊嬢が必死に言った。
『あなたは誰よりも正しい方です。どうか、ご自身を責めないでください』
「ありがとう」
アルノルトは微笑んだ。
「貴女がそう言ってくれるだけで、救われます」
その時、重い足音が廊下に響いた。
松明の光が近づいてくる。
「ついに会えたな、ベルクマン伯爵」
冷ややかな声。大公ハインリヒだった。
アルノルトは立ち上がった。
「大公……これは一体どういうことですか」
「とぼけるな。貴様が王に毒を盛った証拠は既に揃っている」
「何を……! 私は王を——」
「黙れ」
大公が手を振ると、兵士の一人がアルノルトの腹に拳を叩き込んだ。アルノルトは膝をついた。
『やめて!』
霊嬢の声が響いたが、大公には聞こえない。
「さて、ベルクマン伯爵。貴様には特別な処刑を用意してある」
大公が懐から小さな瓶を取り出した。透明な液体が入っている。
「これは王に盛られたものと同じ毒だ。ただし……改良を加えてある」
「改良?」
「ああ。王は幼少の頃から少量ずつ毒を摂取し、耐性を持っていたようだな。だがこの毒は、そんな耐性など意味を成さないように調整した」
大公が不気味な笑みを浮かべた。
「王よりも耐性のない貴様なら……ゆっくりと、だが確実に、息ができなくなって死ぬだろう」
アルノルトの背筋に悪寒が走った。
「これを飲むか、それとも今すぐ斬首されるか。選べ」
「……私が死んでも、真実は消えません」
「真実?」
大公が高笑いした。
「貴様が狂人として死ねば、幽霊がどうのこうのという戯言も消える。すべて丸く収まるのだ」
「押さえつけろ」
大公の冷たい声が響いた。兵士たちがアルノルトの両腕を掴み、壁に押し付ける。
「動くな、ベルクマン」
大公は一歩近づくと、容赦なく毒の瓶をアルノルトの口に押し当てた。
苦い液体が喉を通り抜けた。
『アルノルト様!』
霊嬢の悲鳴が独房に響いた。
「ご苦労だったな、ベルクマン伯爵。貴様の最期を、この独房で迎えるがいい」
大公は懐中時計を取り出し、時刻を確認した。金色に光る精巧な時計を、不気味な笑みを浮かべながら懐に仕舞い込む。
大公と兵士たちは高笑いを残して去っていった。
最後の兵士が通路を曲がる直前、一瞬だけアルノルトの方を振り返った。その視線には、何か言いたげなものが宿っていた。
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独房に沈黙が降りた。
アルノルトは壁にもたれかかり、荒い息をついた。体の奥から、何かが這い上がってくるような感覚があった。
『アルノルト様……』
霊嬢の声が、震えていた。
「……大丈夫です」
アルノルトは微笑んだ。
「貴女に……最後に、言いたいことがある」
『いいえ、まだ諦めないでください! 必ず助かる方法が——』
「ありがとう。でも、もういいんです」
アルノルトは静かに語りかけた。
「貴女と出会えて、本当に良かった。貴女がいなければ、私は正義の意味を見失っていたかもしれない」
『……私こそ』
霊嬢の声が涙に濡れているようだった。
『あなたと出会えて、十五年ぶりに……人として扱われる喜びを思い出しました。あなたは私の光でした』
「もし……もし生まれ変わりがあるなら」
アルノルトは優しく微笑んだ。
「次は……貴女と、触れ合える世界で会いたい」
『……ええ。必ず』
二人の間に、言葉にできない想いが流れた。
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その時、アルノルトの足元で何かが音を立てた。
石の床に、折り畳まれた小さな紙片が落ちていた。
「これは……」
アルノルトは震える手でそれを拾い上げた。松明の明かりで文字を確認する。
『アルノルト、無事か。
マルコが応急の薬を持って来る。毒の進行を遅らせる効果がある。
それを飲んだらすぐに隠し通路から王宮へ向かえ。
医務室に解毒に必要なものを用意してある。
急げ。時間がない。―R』
リチャードだ。
アルノルトの胸に、希望が灯った。親友は自分を見捨てていなかった。
『アルノルト様……それは?』
「リチャード……友からの手紙です。彼は……彼は私を助けようとしてくれている」
その言葉が終わらぬうちに、急ぎ足の音が響いてきた。
「アルノルト様!」
聞き慣れた声だった。マルコだ。
看守長が息を切らして現れた。その手には、小さな薬瓶が握られていた。
「これを……これを飲んでください!」
「マルコさん……どうして」
「リチャード様の使いの者から預かりました。毒の進行を遅らせる効果があるそうです」
マルコは震える手で薬瓶を差し出した。
「完全には治せませんが……時間は稼げるはずです」
アルノルトは薬を受け取り、一気に飲み干した。
苦味と、微かな甘みが口の中に広がった。
「マルコさん、ありがとう」
「いえ……ですが、これだけでは足りません。さらに強力な薬が必要です。私は今から看守室へ行き、できる限りのものを持ってきます」
「待ってください、マルコさん。もし見つかったら——」
「構いません」
マルコは決然と言った。
「今まで見守ることしかできませんでした。ですが今度こそ、私は看守長として、正義を守る者の味方でありたい」
そう言い残し、マルコは走り去った。
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アルノルトは立ち上がった。薬の効果で、少し呼吸が楽になった気がする。だが体の奥では、確実に毒が進行していた。
『アルノルト様……隠れ通路を使ってください』
霊嬢が囁いた。
「だが、マルコさんが戻ってくる」
『その頃には、あなたはもう……動けなくなっているかもしれません』
霊嬢は泣いているのだろうか。声が震え、途切れそうになっていた。
『お願いです。逃げてください。私は……あなたに死んでほしくない』
アルノルトは唇を噛んだ。
霊嬢の声は、心からの願いだった。
「……分かりました」
アルノルトはよろめきながら、独房の奥にある隠し扉へと向かった。
「貴女のこと……絶対に忘れません」
『私も……永遠にあなたを想い続けます』
その言葉を最後に、アルノルトは暗闇の中へと消えた。
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数分後、医療道具を抱えたマルコが戻ってきた時——
独房には、誰もいなかった。




