第10話 裏切りの刻
アルノルトは客間で横になっていた。
連日の調査と政治的駆け引きで、心身ともに限界に近い。目を閉じると、様々な記憶が浮かんでは消える。
霊嬢との出会い。ダニエルの無念の死。そして今日の会議での屈辱。
(一週間で、何ができるというのか……)
不安が胸を締め付ける。だがリチャードを信じよう。親友なら、きっと何とかしてくれる。
そう思いながら、アルノルトは浅い眠りに落ちた。
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それから数時間後――
激しい物音で目を覚ました。
「何事だ!?」
慌てて飛び出すと、玄関に大公派の紋章をつけた兵士たちが押し入っていた。
「ベルクマン伯爵を確保しろ!」
「待て!」
だが言葉を遮るように、兵士たちが襲いかかってくる。
ガレスが剣を抜いて斬りかかった。
「旦那様、逃げてください!」
鋼と鋼がぶつかり合う音が響く。だが兵士の数が多すぎる。三人がかりでガレスを押さえ込み、彼の剣が弾き飛ばされた。
「くっ……!」
ガレスが壁に押し付けられ、手錠をかけられる。
エドワードとマーカスも必死に抵抗するが、訓練された兵士たちには敵わない。
「旦那様を離せ!」
エドワードの叫びも虚しく、二人とも組み伏せられた。
その時――
アルノルトの目に、信じられない光景が映った。
リチャードが、兵士たちの後ろに立っている。冷たい目で、こちらを見つめていた。
「リチャード……まさか、お前が」
「すまないな、アルノルト」
リチャードが低い声で言った。
「だが、これも商売だ。大公からの報酬は、お前との友情より価値がある」
アルノルトは愕然とした。親友だと信じていた男が、金のために自分を売ったのか。
「そんな……嘘だろう……」
「現実を見ろ。この世界では、金と権力がすべてだ」
リチャードは背を向けた。
「連れて行け」
兵士たちがアルノルトに手錠をかける。
「旦那様!」
「リチャード様、なぜこのようなことを!」
ガレスとエドワードの叫びが響いた。
リチャードは振り返ることもなく、屋敷を出て行った。
アルノルトは深い絶望に沈んだ。最も信頼していた親友に裏切られた。
「罪状を申し渡す」
兵士の隊長が冷たく告げた。
「ベルクマン伯爵、貴公は王フィリップ陛下を毒殺せんとした罪により、逮捕する」
「何……王が毒を?」
「今宵、陛下が毒により倒れられた。そして貴公の部屋から、毒の小瓶が発見された」
「馬鹿な! 私は何もしていない!」
「精神を病んだ貴公が、狂気に駆られて……」
「違う! これは罠だ!」
だが、もはや誰も聞く耳を持たない。
馬車に押し込まれ、アルノルトは王都の牢獄へと運ばれた。
(すべてが終わった……)
王は毒に侵され、自分は囚われの身。そして親友にまで裏切られた。
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――数時間前。
リチャードは王都の裏通りにある酒場にいた。
「王が倒れた、だと?」
「ええ。毒を盛られたようです」
情報屋が声を潜める。
「そして大公派は、ベルクマン伯爵に罪を着せようとしています」
リチャードの拳が震えた。
「くそっ……時間がない」
彼は決断した。
「分かった。すぐに動く」
リチャードは酒場を出ると、急いでアルノルトの屋敷へ向かった。
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一時間後、アルノルトの屋敷の応接間。
エドワード、ガレス、マーカスの三人が集まっていた。
「これからする話は極秘だ。絶対に、アルノルトには知らせないでほしい」
リチャードが三人を見回した。
「アルノルトを、牢獄に送り込む」
「何ですって!?」
三人が驚愕の表情を浮かべる。
「落ち着いて聞いてくれ。これは、アルノルトと王を救うための策だ」
リチャードが真剣な目で三人を見つめた。
「お前たちは知っているだろう。アルノルトが夜中、誰にも見つからずに牢獄へ通っていたことを」
三人が顔を見合わせる。
「はい……旦那様は何か特別な方法で」
エドワードが慎重に答えた。
「詳しいことは俺も知らない。だが、独房から抜け出す手段を、あいつは必ず持っているはずだ」
リチャードが確信を込めて言った。
「それが王宮への道に繋がっているかは分からない。だが……あいつを信じるしかない」
「あいつは、自分だけが助かることを良しとしない。『仲間を危険に晒すくらいなら、自分が犠牲になる』と言い出す」
三人は沈黙した。確かに、アルノルトはそういう人物だ。
「だから……俺が裏切り者を演じる。アルノルトを大公派に売り渡したように見せかけて、牢獄に送り込む」
「それでは旦那様を騙すことに……」
ガレスが立ち上がった。
「分かっている」
リチャードの目に苦悩が宿った。
「親友を裏切る。それがどれほど辛いか……だが、これしか方法がない」
「お前たちにも、演技をしてもらう。おそらく今夜中に兵が襲撃してくる。その時、必死に抵抗する振りをしてくれ。だが絶対に、深手を負わないように」
「演技、ですか……」
「ああ。アルノルトが『本当に襲撃された』と信じるように」
エドワードが眉をひそめた。
「旦那様が、リチャード様を恨むことに……」
「構わない。後で真相に気づいてくれればいい。あいつは賢いから、きっと分かる」
リチャードが懐から手紙を取り出した。
「それに、これを用意してある。俺が本当は裏切っていないこと、すべてがアルノルトと王を救うための計画だったことを記した手紙だ」
「それは……いつ?」
エドワードが尋ねた。
「アルノルトが独房に入った後、看守のマルコに届けさせる。あいつなら信頼できる」
リチャードが続けた。
「もし計画通りにいかず、アルノルトが本当に絶望してしまったら……せめてこの手紙で、真意を知ってほしい」
リチャードがもう一つ、小さな瓶を取り出した。
「それと、これは毒の進行を遅らせる薬だ。万が一、アルノルトが毒を盛られた場合に備えて、これも一緒にマルコに渡しておく」
「毒を? まさか……」
「大公派なら、何でもやりかねない。念のためだ」
三人は、リチャードの周到な準備に驚いた。
「……分かりました。我々も、覚悟を決めます」
エドワードが深く頷いた。
「すまない。お前たちにまで、辛い役を押し付けて」
「いえ。旦那様のためなら、我々も何でもします」
ガレスが微笑んだ。
「それに、後で旦那様が真相を知った時の顔が楽しみですね」
マーカスの言葉に、リチャードの目が潤んだ。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
こうして、苦渋の策が動き出した。
親友を騙し、憎まれ役を演じる覚悟。そして、それを支える仲間たちの絆。
すべては、愛する者を救うために――。
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牢獄に到着すると、看守長のマルコが複雑な表情で出迎えた。
「ベルクマン様……いえ、囚人アルノルト・ベルクマン」
「マルコさん……」
アルノルトは力なく答えた。
「地下三階へ連行します」
「ああ……どこでも構わない」
もはや抵抗する気力もなかった。
地下への階段を降りる。一階、二階、そして三階。
最奥の独房。
マルコが重い鍵を回し、鉄格子が開いた。
アルノルトは何も言わず、力なく独房へと足を踏み入れた。後ろで扉が閉まる音が響く。
「……ベルクマン様」
マルコが躊躇いがちに声をかけたが、アルノルトは振り返らなかった。
マルコの足音が遠ざかっていく。
独房に、静寂が訪れた。
アルノルトは石のベッドに崩れ落ちた。
「すまない……私は、何も守れなかった」
力なくつぶやいた言葉が、静寂の独房に虚しく響いた。
その時だった。
『そのようなことはありません』
優しい声が響いた。霊嬢の声だった。
「あなたは……」
アルノルトは顔を上げた。
そこには、いつものように誰もいない。だが確かに、彼女がいる。
『アルノルト様』
霊嬢の声に、温かさと安堵が込められていた。
『お帰りなさいませ』




