第1章 死刑囚が独り言を始める部屋
王都の牢獄には、古くから語り継がれる噂があった。
地下三階、最も奥にある独房に死刑囚を入れると、やがて彼らは独り言を始めるという。
それも、まるで誰かと会話をしているかのように。
看守たちは皆、その現象を知っていた。
だが誰も気味悪がることはない。
なぜなら、その部屋に入った囚人は例外なく、素直で穏やかになるからだ。
暴れることも、看守に悪態をつくこともなく、まるで無垢な子どものように最期の時を迎える。
今日もまた、一人の死刑囚がその独房に送られていた。
「おい、動け」
看守長のマルコが、手錠をかけられた男の背中を軽く押す。
男は三十代後半、痩せこけた頬に無精髭を生やし、虚ろな目をしていた。
強盗殺人の罪で明日の朝には処刑される身だった。
地上から地下三階まで続く石の階段を、男の足音が重く響く。
松明の炎が壁に踊る影を作り、湿った空気が肌にまとわりつく。
「ここだ」 最奥の独房。
他の房よりも少し広く、かつては高位貴族用として使われていた部屋である。
鉄格子の向こうは薄暗く、わずかな松明の明かりだけが石の床を照らしている。
マルコが重い鍵を回すと、軋んだ音を立てて扉が開いた。
「入れ」
男は言われるままに独房に足を踏み入れる。後ろで鉄格子が閉まる音が響いた。
「飯は夕方に持ってくる。何か用があったら呼べ」
マルコの足音が遠ざかっていく。男はぼんやりと独房の中を見回した。
石のベッド、小さな水桶、それだけの簡素な部屋。
壁には前の囚人が刻んだであろう無数の傷がある。
男は重い足取りでベッドに腰を下ろした。
しばらくは何の変化もなかった。
男はただ膝を抱えて座り込み、時折深いため息をつくだけだった。
だが、日が傾き始めた頃――
「……すまなかった」
男が突然、小さくつぶやいた。
誰に向かって話しているのか、それは分からない。
だが男の表情は先ほどまでの険しいものから、どこか柔らかなものに変わっていた。
「俺は……俺はただ、金が欲しかったんだ。妻が病気で、薬代が払えなくて」
男の声は次第に大きくなる。
まるで目の前に誰かがいるかのように。
「でも、それは言い訳だ。人を殺していい理由なんてない。あの商人には、きっと家族がいただろう。俺と同じように、大切な人がいただろう」
男の目に涙が浮かんだ。
「妻は……妻はもう死んだ。俺が捕まってから、一人で病気と闘って……最期まで俺を恨むことはなかった。『あなたを信じています』って、そう言ってくれた」
男は両手で顔を覆った。
「なのに俺は、その信頼を裏切った。愛する人を一人で死なせて、自分は人殺しになって……もう取り返しがつかない」
独房に男の嗚咽が響く。
だがそれは、怒りや憎しみからくるものではなかった。
深い後悔と、そして安堵にも似た感情が込められていた。
「ありがとう」
男は顔を上げ、空気に向かって言った。
「こんな俺の話を……最後まで聞いてくれて。もう、楽になれそうだ」
その夜、男は静かに眠った。翌朝の処刑も、穏やかな表情で受け入れたという。
*
それから数日後、王国司法制度改革担当官のアルノルト・ベルクマンが初めてこの牢獄を訪れた。
二十八歳のベルクマン伯爵は、新興貴族の出身ながら、その清廉潔白な人柄と優秀な頭脳で王の厚い信任を得ている人物だった。
「お疲れさまです、ベルクマン様」
地上一階の受付で、看守長のマルコが深々と頭を下げた。
アルノルトは穏やかに微笑み返す。
「こちらこそ、お忙しい中時間を取っていただき、ありがとうございます。今日は司法制度の効率化について、現場の実情を教えていただければと思います」
「はい。では、まず全体をご案内いたします」
マルコに案内され、アルノルトは地下へと向かった。
彼の任務は表向き「司法制度の効率化調査」だが、真の目的は王のみが知る冤罪事件の調査である。
最近、死刑に値しない軽微な罪人まで処刑されるケースが増えているという報告があったのだ。
地下一階、地下二階と順番に見て回る。
アルノルトは看守たちと気さくに言葉を交わし、囚人の処遇についても細かく質問した。
「皆さんの職務への真摯な取り組み、よく分かります」
アルノルトの言葉に、看守たちの表情が明るくなる。
今まで牢獄を訪れた貴族といえば、鼻をつまんで早々に立ち去るか、威張り散らすかのどちらかだった。
このように現場を理解しようとする人物は初めてである。
「では、最後に地下三階もお願いします」
「あ、はい……ただ、あそこは死刑囚専用でして」
マルコが少し言いにくそうに口を開く。
「構いません。全体の実情を把握したいのです」
地下三階へと続く階段は、他の階よりも暗く、空気も重かった。
松明の明かりが石壁に不気味な影を作っている。
「こちらが最奥の独房です」
マルコが案内したのは、他よりも少し広い部屋だった。
現在は空房になっている。
「ここは……」
「元は高位貴族用の部屋でした。今は主に死刑囚が使っております」
アルノルトはゆっくりと独房の中を覗き込んだ。
石のベッド、水桶、壁の無数の傷跡。
そして、なぜかこの部屋だけ、空気が違って感じられた。
「ここに入った囚人は、皆おとなしくなると聞きましたが」
「ええ……不思議なことに」
マルコが困ったような笑顔を浮かべる。
「皆、独り言を始めるんです。まるで誰かと話しているみたいに。でも最後は皆、穏やかになって……まあ、我々としては助かるのですが」
アルノルトは独房をじっと見つめていた。
何かを感じ取ろうとするように。
その時だった。
かすかに、本当にかすかに、女性の声のようなものが聞こえた気がした。
優しく、悲しげで、どこか懐かしい響き。
「……何か聞こえませんでしたか?」
アルノルトが振り返ると、マルコは首をかしげた。
「いえ、特には……」
アルノルトは再び独房に視線を向けた。
今度は何も聞こえない。錯覚だったのだろうか。
だが彼の心に、妙な確信があった。
この部屋には、何かいる。
そして、その「何か」は、自分の声に気づいたのではないだろうか――。
「ありがとうございました。大変参考になりました」
アルノルトは看守たちに礼を述べ、牢獄を後にした。
だが独房で感じたあの不思議な感覚は、いつまでも心に残り続けていた。
その夜、アルノルトは自室で報告書を書きながら、あの独房のことを考えていた。 死刑囚が独り言を始める部屋。
果たしてそれは、単なる囚人の心理的変化なのだろうか。
それとも――。
アルノルトは羽根ペンを置き、窓の外の星空を見上げた。
明日もあの牢獄を訪れよう。今度は、もう少し時間をかけて。
王都の夜は更けていく。
だが地下三階の独房では、今夜もまた、誰にも見えない存在が静かに佇んでいた。
かつて侯爵令嬢と呼ばれた少女の霊が、次に現れる魂を待ちながら――。