43、セオ、倒れる
これは、昔話。
幼いころの青年は、たったひとりで道端に横になっていた。
「捨てられた」からだ。
雨が降って来たが、おなかがすきすぎて動けない。
目を閉じていると、人の声が聞こえて。
あまりにもしつこいので目を開けると、おじさんがにこにこしながらこちらを見て、なにか話していた。
もう言葉を理解できずにただ見ていると、抱き上げられて、大きな屋敷に連れて行かれた。
それからは驚きっぱなしだった。
初めて温かな湯で身体を洗われ、いい匂いのする服を着せられて。
温かなごはんが出てきて、食べても怒鳴られなかったし、ごはんの次は、あったかい布団に寝かされた。
イアンも隣で横になると、やっぱりにこにこしながら言った。
「ここにいたらいいよ。お友達になれる子たちもたくさんいるからね。心配しなくていい」と。
知らないうちに、涙が後から後からこぼれてきて。
『殴られる』と、慌てて隠そうしたが、イアンは頭をなでながら涙を拭いてくれたので、ここにいてもいいのだと理解した。
多忙なイアンがそばにいてくれたのはその日だけだったが、ここが居場所だと知った青年は構わなかった。
そして、迷わずイアンの護衛になる道を選んだ。
幼い自分を救ってくれたイアンの役に立ちたいと思ったから。
ーーーそれなのに、あの事故の時はなにもできなかった。目の前で、イアンが倒れるのを見ていたのに。
医師から、「もう足は動かない」と告げられた時は、自分のせいだと思った。
護衛なのだから、何を差し置いてもイアンの身を守らなければならなかったのに。
事故後、なんとか屋敷に帰って来ることができた日。
ジョンやラルフ、心配した子どもたちにも囲まれ、一時期は騒々しかったが、やっと落ち着いた。
ソファでお茶を一口飲んだイアンは、やっとひと息をつく。
「やれやれ。今回は長旅だったから、疲れたな。君たちも大変だっただろう、ありがとう。二、三日ゆっくり休むといい」
イアンは、ずっとそばにいた御者と護衛、メイドにそう声をかけた。
しかし、彼らはイアンの前で膝をつき、深く頭を下げた。
代表して口を開くのは、年老いた御者だ。
「今回、イアンさまに大きなお怪我を負わせてしまったこと、誠に申し訳ございませんでした。お詫びにもならないとは思いますがーーー今日限りで、私たち三人は、お暇をいただきたいと思います。それから、いかようにも罰をお受けします」
しばらくの沈黙の後、イアンは震える声で言った。
「どうして、そんなことを言うんだ」
「えっ、」
三人が頭を上げると、イアンは顔を真っ赤して、初めて見る怒った表情をしていた。
「私は、今回の事故は、誰にも責任はないと思っている。それなのに、なんの責任を取ると言うんだ」
「も、申し訳ありません…!!」
再度深く頭を下げると、ふぅとため息が聞こえて。
「ーーー顔を上げなさい。もう一度言うよ。誰も何も悪くない。それに、私は心から君たちに怪我がなくて本当によかったと思っている。負い目なんて感じず、これからもここで働き続けてほしい」
再び顔を上げた三人に向かって、イアンは微笑みかけた。
その瞬間、青年は、一生をかけてイアンに尽くすことを決め、自ら世話係に立候補したのだ。
先ほど、『まっさーじ』とやらを教えてくれたのは、不思議な子どもだった。
まだ小さいのに、とても物知りで、青年は神様ではないかと思ってしまったくらいだ。
マッサージを続けていると、イアンの冷たかった足が、少しずつ手の平の熱がうつるかのように暖かくなってくる。
「お兄ちゃん、手があったかいからより効果があるんじゃないかな」と、笑っていた。
昔から、熱がこもりやすい体質で、いいことなんてひとつもなかった。
だが、イアンのためになるなら話は別だ。
青年は、初めて自身の体質に感謝しながら、マッサージを続けたのだった。
一方、イアンの屋敷を出たジョンとセオは、帰り道を歩いていた。
セオの口数は少なく、心持ち歩みも遅い。
今日はいろいろあったため疲れているのだろう。
もししんどいならおぶってもかまわない。
そう思いながら、セオの歩みに合わせて歩いていく。
しかし、人気のないところに来た時、ふいにセオが立ち止まった。
「セオさま?」
「ジョン、ごめ…」
全部言い切る前に、セオの全身から力が抜けた。
「ッ!?」
とっさにその身体を抱き留めたジョンだが、触れた身体はかなり熱い。
目を閉じていて、意識がないようだ。
ジョンは、素早くセオを抱え直すと、屋敷に向かって走り出したのだった。
屋敷の門では、案の定メイがずっと待っていた。
セオが残したメモを手に、すっと背筋を伸ばして立ち、じっとイアンの家の方角を見つめている。
屋敷の前は真っ直ぐな一本道なので、かなり向こうまで見通せるのだ。
通りすがる人は、何事だろうと怪訝な顔で、そばにいる門番はニコニコしながら、「なんでもないんですよぉ〜」と必死でアピールしている。可哀想だ。
その時、ようやくはるか遠くの方にジョンたちが見えた。
一目でセオの具合が良くないことを把握したメイは、「門番、すぐにラルフを呼んで来てください」と言うやいなや、屋敷に向かって走り出した。
急いでいるようには見えないのに、その足はめちゃくちゃ早い。
「え、なんなんすか!?」
突然のことに唖然としていた門番だが、メイの見ていた方を目を細めて見て、やっと米粒くらいの小ささでジョンたちの姿が確認できた。
そういうことかと、すぐさま鎧を脱いで診療所までダッシュしながら、「セオさまたちが見えましたが、体調がよくないようです」くらいの一文言うくらいの時間を惜しまないでほしいと、心の中で文句をつけていたのだった。
その頃、メイは台所にいた。
「もうすぐセオさまが帰られますが、体調がよくなさそうです。至急、パン粥や飲み物の用意をお願いします」
と、門番の欲しかった一文を盛り込んで指示をしている。
「分かりました」
夕食の準備をしていた料理長は、すぐに手を止め、『体調不良セット』の準備にとりかかった。
その後、メイは寝室に向かう途中、すれ違ったメイドに、門番の欲しかった一文とともに、他の使用人たちに共有して欲しい旨を伝えた。
そのため、ジョンが帰って来た時も、大きな混乱などはなかった。
スムーズに寝室までやって来たジョンは、セオをそっとベッドに寝かせた。
セオの顔は真っ赤で、息も少し荒い。
昼まで元気だったのに、たった数時間でなにがあったと言うのか。
そう思いながら、メイはジョンにタオルを手渡した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ジョンの息は多少乱れており、汗ばんではいるが、余裕がある。
護衛たちに混じって、日々体力作りをしてきた結果だろう。
話をするため、ふたりは隣の部屋に移動した。
寝室との扉は開けたままで、ベッドも見える位置だ。なにか異変があった時も、すぐ対応できる。
「それで、なにがあったのでしょうか。このメモしかなかったため、たいそう心配していたのですが…」
メイは、ずっと握りしめていたメモをジョンに差し出した。
よほど強い力で握っていたのだろう。端の部分がしわくちゃになっている。
「心配をかけてすまなかった。驚かせると思うが、私がセオさまをお連れしたのではない。セオさまが、お昼寝を偽って私の後をついて来たのだよ」
「…は?」
珍しくポカンとしたメイに、ジョンは、セオがジョンの嘘を見抜いて、屋敷を抜け出してついて行ったとことから、すべてを話した。
「それで、帰り道で突然倒れられたのだ」
「そんなことがあったのですか…」
メイは、セオが自分たちに嘘をついたこと、屋敷を出て行ったことに、ひどく動揺した。
それはつまり、メイは味方にならないとセオが思っていたからだ。
そして、それは正しい。
屋敷の使用人はみんな、イアンの足のこと、今年はセオを慮ってセオには会わないことを聞いていた。
もし相談されたとしても、「来年は会えるといいですね」とだけ答えていただろう。
だが、それではいけなかったのだ。
以前、なにがあってもセオの味方でいることを決めたのに、そうではなかったから、セオは全部、ひとりで抱え込んでしまった。
もし、メイが絶対的に自分の味方だと思っていたら、相談してくれただろうし、少なくとも、ひとりで屋敷を抜け出すなんてことにならなかっただろうに。
その時、ラルフがやってきた。
診察にはジョンが付き添い、メイはお茶の準備をする。
しばらくすると寝室の扉が開き、メイはそちらを見た。強い視線に、ラルフは苦笑しながら口を開く。
「熱は高いが、感冒などではないじゃろう。かなり無理をして頭を使いすぎたんじゃな。そら、前にもあったのと同じじゃ」
確かに、以前にも肥料のことを考えすぎて熱が出たことがあった。
「熱はすぐ下がるでしょうか」
「もしかしたら続くかもしれんが、いつも通り頭などを冷やしつつ、安静にしていれば大丈夫じゃろう」
「それはよかったです」
やっと表情がほぐれたメイは、氷を取りに厨房に向かい、ラルフはソファに腰を降ろした。
「じゃが、油断は禁物じゃぞ。弱ってる時に、悪い病気が入り込もうとすることがあるからな」
「心得ております」
深く頷いたジョンに、ラルフは笑って話を変えた。
「そういや、セオさまは、いくつになられたかな?」
「十歳です」
「もうそんなになりますか。大きくなられましたな」
ラルフは感慨深くそう言ったが、頭に浮かんでいるのは別のことだった。
賢いセオは、目立って小柄で体が弱い。
ラルフは医師として、いろんな子どもたちを診てきたが、セオと似たような体質の子たちもいた。
そして、中には大人になる前に、儚くなってしまうこともあったのだ。
セオがそうというわけではないが、大病から奇跡と思える回復をした時点で、体がむりをしていてもおかしくはない。
ラルフにできることは、医師として力を尽くすことだけだが、これからもセオが健やかに育つことを祈っている。




