35、トアルの奇病②
イアンたちは途中の村でニ泊し、三日目の朝、まだ夜が明けない時間に宿を発った。
午前中の早い時間には、トアルにほど近い場所までやってきた。
いよいよとなり、馬車に乗っている護衛やメイドは緊張の顔だ。
それを見たイアンは、馬車を止めさせた。
「イアンさま、どうなさったのですか?」
不思議そうな二人を気にせず、イアンはさっさと馬車から降りる。
そして、振り返って言った。
「トアルには、私一人で行く。君たちは、近場の宿場で待機しておいてほしい」
「いえ、私はどこまでもご一緒する覚悟です」
「わたくしもです!イアンさまには、拾っていただいた恩があります」
護衛に引き続き、メイドがそう言った。
彼女は、十年前、町の片隅で死んでしまいそうなところを見つけ、保護した子どもだ。
イアンは、小さな孤児院のようなことをしている。
といっても、イアンは金銭を用意するだけで、子どもたちの面倒をみてくれているのは、近所の人たちだが。
それなのに、子どもたちの中には、大きくなった時に、イアンに尽くすことを選ぶことも少なくない。
彼女もそのひとりだ。
幼い頃から賢く、文字の読み書きや計算も得意だった。商店なんかからも声がかかっていたのに、選んだのは、メイドという職業だった。
ちょうど、メイドがひとり田舎に帰ることになっていたのも大きかっただろう。
メイドはなんとでもなるし、自由に生きるよう伝えたのだが、彼女の決心は固く、今に至る。
当時は、もしかしたらそんな偶然が選択肢を狭めたのかもしれないと、苦く思ったものだ。
そんなことを思い出しながら、イアンは口を開く。
「君たちにもしものことがあったら、私が後悔で生きてはいけないだろう。だから、残ってほしい」
イアンの優しい、しかし有無を言わせない言葉に、二人はそれ以上なにも言えなかった。
メイドは、泣きそうになるのを必死にこらえながら、イアンを見送ったのだった。
そういうわけで、イアンはひとりでトアルへとやって来た。通りには、人っ子ひとりいない。
長の家に行くと、誰か分からなかったようで警戒されたが、口当てを取って見せると、すぐに招き入れられた。
応接間に通されると、すぐに長がやって来た。
顔には疲れが見え、表情も暗い。心労が大きいのだろう。
「お待たせ致しました。お久しぶりです、イアン殿」
「お久しぶりです、長殿。この度は急な訪問、先触れも出さず、申し訳ありません。奇病に関する報告書を読んで参りました」
イアンがそう言うと、長は深く頭を下げた。
「訪問いただいたこと、とてもありがたく思っております。ですが、報告書に書いた通り、奇病の原因はまだなに一つ掴めていないのです。イアンさまにもしものことがあってはいけません。どうか、お帰りください」
「いえ。私が来たのは、奇病からみなさんを救うためです。全住民に近隣集落に避難してもらうことになりました。もちろん、生活にかかる費用も領で持つことになります」
「ほんとうですか!?」
長は驚きの声をあげた。脇に控えていた側近たちも、声にならない歓喜の声をあげる。
「はい。それで、急なのですが、今日のうちに移動してたいのです。説明をしたいので、一度、住民の方たちに集まってもらうことはできますか」
「はい、いますぐ」
長が目をやると、ひとりの青年が一礼して部屋を出て行き、しばらくして鐘が鳴らされた。
何かあったときに村人に知らせるためのもので、音の高さで『招集』『退避』などの意味があるらしい。
田舎では一般的に使われる連絡手段だ。
「それでは、今後の対応について話し合いましょう」
どの家庭がどの集落に避難するか、なにを持ち出すか、家畜はどうするのか。
トアルは割と小さな集落だが、それでも検討すべき事項は尽きない。
短期間とはいえ、人が別の土地で暮らすのは大変なことなのだ。
話し合いも終盤になった頃、イアンは急に居住まいを正した。
「長殿。改まって二人でお話ししたいことがあるのですが」
「はっ、はい!」
長が目配せをすると、使用人たちは全員部屋から出ていった。
辺りに静寂が訪れると、イアンは静かに口を開く。
「それでは、お聞きしたいのですが、長殿には、今後一生、酒を飲まない覚悟はおありですか?」
その言葉に、長は息を飲んだ。
イアンとは旧知の中だ。だから、酒癖の悪さも知られている。
酔っぱらうと口が軽くなりすぎて、くだらない愚痴から重要機密まで、見境なくしゃべってしまうのだ。
若い頃に痛い目をみたため、外では決して飲まないが、毎晩家では晩酌を欠かしたことがない。
つまり、家族にさえ口外してはいけない秘密があるのだろう。
「それは…奇病に関すること、ですか」
「そうです。改まった言い方をしてしまいましたが、もし自信がなければ、断っていただいてかまいません。断られても、これから取る対策は一切変わらないことをお約束します」
イアンの言葉に、長は覚悟を決めた。
一枚の紙を取り出すと、さらさらと筆を走らせ、最後に長の印を押してイアンに渡す。
誓約書だ。
今後一生、酒を飲まない旨、もし約束を破ったら、いかようにもイアンの決めた処罰を受けると書いてある。
「どうぞ、これをお持ちください」
「ありがとうございます。あなたの覚悟はしかと受け取りました」
誓約書を仕舞ったイアンは、長へと向き直る。
「長殿に守っていただきたい秘密は、実は、今回の件、決断なされたのは、領主のご子息のセオさまなんです」
「なんと…!まだセオドアさまはやっと学校に入られた年ではないのですか?それに病弱だとお伺いしたのですが…」
「体が丈夫でないのは本当ですが、天才的に賢いお方です。今回のことも、報告書を見るや否や、避難を決断されました。同時に、原因究明をしたいと考えられておられるそうです」
「それでは、あの奇病は祟りではないと…?」
「はい。恐らく、原因は土地を開墾したことが原因でも、祟りではないだろうとおっしゃられていました。そこで、私はふたつのことを頼まれて、ここにやってきたのです。協力していただけますか?」
「もちろんです!私にできることなら、なんでもっ…!」
長の声が震えたのは、涙があふれたからだ。
大の男が泣くなんてみっともないと、そう思っても止まらない。
奇病で倒れる者が出るたびに、その家族に頭を下げた。
きっと開墾したことが原因だと思いながら、しかし、誰一人、自分のせいにする者はおらず、それが心苦しかった。
開墾することを決めたのは自分だ。
祟りというのなら自分だけに罰が当たればいいと、何度思ったかしれない。
「安心してください、長殿。きっと、セオさまの頭の中には、原因とその対応策がすでに練られていることでしょう。そうでなければ、私に頼みごとをしたりせず、はじめから移住することを選ばれていたと思うのです」
イアンのことばに、長は、何度も何度もうなづいた。
さっきまで、神のなさることでなすすべがない病だと思っていたのに、立ち向かうことができるのかもしれないと思い始めているのが、不思議だった。
イアンたちが集会場に向かうと、すでに全住民が待っていた。
こんなに早いのは、一週間前から、外に出るのは最低限という施策を行っており、みな家にいたかららしい。
食料は、昨年の備蓄を回したり、長が自腹を切って近隣の集落から買い求めたものを配っていたそうだ。
そのおかげで、この一週間で、奇病に倒れた者はいないのだという。
集まった住民たちの顔は、イアンという見知らぬ役人がいることで引きつっていたが、避難することが伝えられると湧き立った。
感激で涙する者もいた。
命の心配がなくなるのだ、当然だろう。
イアンは、セオから預かっていた口当ても配った。
つけ方を説明すると、大人たちは誰一人拒否感を示すことなく着用しま。
言葉が理解できる年齢の子たちも、まじめな顔で大人たちの真似をしてつけている。
数時間後。
避難準備を終えた全住民は、時間前に待ち合わせの広場に集まっていた。
小さな集落のため、お互いのことはよく知っている。
手が空いた者は、老人や赤ん坊がいる家庭などに手伝いに行ったため、早く準備が終わったのだ。
広場には、近隣住民への説明を終え、無事了承を得たイアンの部下たちが待機していた。
彼らによると、もともと交易や婚姻で行き来することも多く、集落間の仲は悪くない。
今回の件も即答で「協力する」という返事が帰ってきたそうだ。
しかも、荷運びのために、力のある男手衆が馬車に乗って駆けつけてくれたのだ。
小さな子や老人がいる家庭は、ずいぶん助かることだろう。
こうして、イアンの第一の目的である全住民の避難は、大きな混乱もなく、無事完了したのだった。




