1、セオになった瀬央
瀬央は、唐突に目を覚ました。
見たことのない天井。
天蓋付きの豪奢なベッド。
寝返りを打ち、腕に力を入れて体を起こす。それだけでもかなり力が必要だった。手を目の前に掲げると、細くて小さい。
脳が今までとの体型の不一致を訴える。なんせ、セオドアは食べるのが大好きな子どもで、手足まで丸々としていたのだ。
セオドアと瀬央が融合している間、身体の方は寝込んでおり、その間に脂肪と筋肉が落ちたのだろうと、瀬央は結論付けた。
ゆっくりと辺りを見回す。
カーテンから洩れる光が赤いので、今は夕方か早朝だろう。少し肌寒い。
部屋自体はかなり広く、テーブルや椅子、ソファなどの家具が置かれている。いずれも高級そうだが、それ以外に物はない。
じっくり見ていると、脳の中でかちりという感覚があり、この部屋の間取りや生活習慣など、必要なことを思い出した。
セオドアの記憶だ。
附随して、大声をあげて物を壊したり、使用人を叩いたりしている太い手足の映像も蘇る。
物がないのは、セオドアが投げて壊すことも多く、危ないからだった。
以前のセオドアは、かなりの癇癪持ちだったから仕方がないだろうが、思い出すだけで疲れてくる。
瀬央は、軽く頭を振って記憶を追いやった。
(とりあえず、のどが渇いた)
身体の欲求に従ってなにか飲みたいと思うが、以前は枕元に置いてあった、使用人を呼ぶためのベルはなくなっている。当然、水差しも置いていない。
瀬央は、洗面所に水を飲みに行くことにした。
この部屋には、トイレと洗面台、風呂が専用で備え付けてあることを思い出したのだ。
重い手足を動かし、なんとかベッドから下りた。
しかし、足を一歩踏み出した途端、膝から崩れ落ちてしまう。筋力が落ちた足では、体を支えきれなかったのだ。
「うぅ…」
痛みに呻きながらも、瀬央は必死に全身を動かし、洗面所にたどり着いた。端から見れば、打ち上げられた魚のようだったに違いない。
しかし、そこからが大変だった。
シンクは立ち上がらないと使えない高さだ。
なんとか腕を伸ばして台を掴むことに成功するが、腕の力もないため、すぐには立ち上がれない。
座ったまま状態から立ち上がるのが、こんなに大変な事だったなんて。
「ふぬぬ、っぐぅ…」
とても幼児とは思えない声を出しながら奮闘した結果、なんとか這い上がることができた。
片手で洗面台を掴んだまま、上半身を倒して顔を蛇口近くに持っていく。
もう片方の手で蛇口をひねると、冷たい水がでてきた。
ごくごくと飲む。
足は必死で身体を支えているが安定しない。ガクッとなって髪やらほっぺやらが水に濡れるが、水を飲むというミッションの前では些細な問題だった。
満足するまで水を飲んだ瀬央は、水を止めると力尽きて床に倒れ込んだ。
腕やら肩やら打ちつけ痛いが、もう力が入らない。
それに疲れた。
そのまま眠りそうになっていると、耳が足音を拾った。
目を開けると、メイドのひとりが駆け込んできた。
くすんだ茶色の髪を、後ろでひとつに纏めている。目は鳶色で、引き結ばれた唇が真面目さを醸し出している。恐らく、年齢は二十歳前後だろう。
名前は、メイだと思い出した。
メイドだからメイなのだろうが、作者はどんだけ安直なのかと、瀬央は思う。
「⋯セオドアさま、良かった。お目覚めになられたのですね。こんなところでどうされたのですか」
「のどかわいてたから、飲みにきた。あと、ぼくは、瀬央だ」
長年声を出していなかったからか、掠れて出にくい。
だが、瀬央は、とっさに名乗っていた。
「セオさまですか」
「うん」
聞き返されて頷くが、カタカナのセオに聞こえる。こちらでは漢字がないのだろうと、瀬央は納得した。
「かしこまりました。セオさま、ベルがなかったのですね、申し訳ありません」
「いいよ。けど、立てないから、ベッドまで手をかして」
そう言うと、かすかにメイが驚いた気配がした。
さっさと連れて行けと癇癪を起こさなかったばかりか、お願いしたからだろう。
メイは、近くにあったタオルでセオの髪や顔の濡れているところを拭くと、抱き上げた。
距離が近くなると、セオは自分の体臭が気になった。ずっとお風呂に入れていないため、髪も体もベトベトだ。できるだけ体をよじって近づけないようにする。
ベッドに横になると、めまいがした。がんばりすぎたのだろう。
「すぐに医者を呼びます。しばらくお待ちください」
メイは、そう言って足早に部屋を出ていった。
ひとり残されたセオは、さてどうしようかと考える。
前世大人だった瀬央は、どちらかと言うと温厚な方で、怒るのも得意ではない。
癇癪なんて起こせないし、五歳児のような振る舞いもできそうにないと思う。
大きく変わったことについてどうにか誤魔化す方法はないものか。
そこまで考えた時、頭がズキリとして、セオは考えることを止めた。
メイが戻ってきた。
後ろには、ゼーハーと息を乱すおじいちゃんがいる。医師のラルフだ。
ラルフは、目を開けているセオを見ると、驚いて叫んだ。
「セオドアさま、本当に意識が戻ったんじゃな!」
すごいことじゃ!と興奮しているのも無理はない。
セオドアは、前触れもなく突然倒れ、高熱を出して寝込んだ。
ラルフはすぐに様々な検査をしたが、原因は不明。
毎日診察をしていたが、脇の下や太腿などを冷やすこと、できる時に少しでも食事や水分を取ってもらうなどの対処療法を伝えることしかできなかった。
メイに呼ばれた時は、正直、来るべき時が来たかと覚悟したのだ。
それなのに、セオドアは意識を取り戻した。
今は、大喜びしているラルフを、不思議そうに見ている。
ひとしきり騒いだ後、医者としての本分を思い出したラルフは、診察をした。
あれだけ高かった熱は、すっかり下がっている。
寝込んでいたため全身の筋力や内臓の働きが弱ってはいるものの、他に気になるところはない。
「どこか痛いところや、気になるところはありますかな?」
「いたいところはないよ。でも、手も足も重いし、ちょっと動くとくらくらする」
瀬央は、幼い言葉使いを意識して答えた。
「なるほど。ひと月ほど熱が出て寝込んでいたのですから、元通り体が動くようになるまでは時間がかかるでしょうな」
「えっ、僕、ひと月もねてたの?」
「はい。ですからムリはいけませんぞ。少しずつ、ベッドの上で動かす練習をしていくところからして行きましょう」
「分かった」
素直な返事に、ラルフは目を丸くした。
「セオドアさま」
「ちがう、瀬央だよ」
瀬央は、さっきはテンションについていけずできなかった訂正をした。
大事なことだから。
ラルフは、セオの両手を持って続けた。
血行が良くないのか、冷え切っている。
「失礼しました。セオさま、食べることも同じですぞ。急に食べると、体に負担がかかります。スープから始めましょう」
「分かった」
あっさりと頷いたセオに、ラルフは驚いた。
食べることに執着していたセオドアが、癇癪を起こさないわけがないと思っていたのだ。
だから、手を持ったのだ。急に暴れても止められるように。
もしかしたら、寝起きでよく分かっていないのかもしれない。ラルフは食事の様子も見守った。
セオは、ラルフの指示のもと料理長が作った具のないトウモロコシのスープを一口食べると、「おいしい!」と目を輝かせた。
そして、ゆっくり全部飲むと、お代わりも言わず、歯を磨いてトイレに行くと、ベッドに戻って眠り始めたのだった。
ラルフとメイは、セオの変化が信じられなかった。
食べることに執着し、時には大人と同じ量食べていた子が、スープ一杯で食事を終えるなんて。
冷静に話ができ、怒らず暴れない。
その上、名前を短縮して呼んでほしいなど、まるで違う人間に生まれ変わったようではないか。
その夜、メイは隣の部屋で休んだ。
夜中にセオが空腹で起きて暴れたり、また熱がぶり返した時に、すぐに対応できるようにだ。
しかし、予想に反してセオは朝までぐっすり眠り、平和な朝を迎えたのだった