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第九話:無理しなくていい

 夕暮れの光がわずかに残る駅前ロータリー。歩道の隅に立ち尽くしている大川灯里おおかわ・あかりの手元には、画面にひび割れの入ったスマホが握られている。まだ通りを行き交う会社員たちの姿がある中で、そのひびの形だけが不気味に視線を引きつける。


(……いつからこんなに、いろんなものが壊れかけているんだろう)


 そんな暗い思いに沈んでいたところへ、父の車がロータリーへ滑り込んできた。ヘッドライトが灯里を照らし出し、一瞬だけ目がくらむ。運転席の父が窓を開けて軽く手を振るのを見て、灯里は小走りに駆け寄った。


 車内には母も同乗しており、助手席から身を乗り出すように灯里の顔を覗き込む。


「顔合わせ、大変だったわね。 相当疲れた顔してるわよ」

「……そんなことないよ、お母さん。ちょっと残業でクタクタなだけ」


 作り笑いで返す灯里の頬に、母はそっと触れる。父はルームミラー越しに、柔らかい視線を娘に向けた。


「美月さん、ちょっと張り切り過ぎだったよな。大丈夫か? 何かあったら正直に言えよ」

「ううん。あれが美月さんのやり方なんだと思う。気にしないで……」


 声が掠れ気味で、説得力を欠くのは自分でも分かっている。ダッシュボードに置いたスマホの画面はクモの巣状にひび割れ、父と母がそれにちらりと視線をやったことを、灯里は見逃さなかった。


 しばらく沈黙が続いた車内で、母は優しく微笑むと、ハンドバッグからタオルハンカチを取り出して灯里に差し出す。


「結婚って、“ふたり”が納得してこそ意味があるものよ。あなたと翔くんが決めたことを、私たちは全力で応援する。それを忘れないでね」

「……うん、ありがとう」


 母の言葉は、灯里が心の中で繰り返し唱えてきた思いと同じだ。けれど、いまはその“ふたり”の間に姉・美月みつきが割り込んできているようで、息苦しさを覚える。


 都内の自宅からそう遠くない距離にある実家へ到着すると、夜の帳が降り始めた庭先を照らす玄関灯の下で、母が灯里を抱き寄せるようにハグした。


「灯里……無理して笑わなくていいのよ。昨日の顔合わせ、ほんとによく頑張ったね」

「ありがとう……。でも、本当に大丈夫だから」


 父は低い声で言葉を添える。


「美月さん、少し“変”だよ。弟を思うのは結構だが、ここまで押し切られる必要はない。灯里が辛いなら、翔くんにもっと話したほうがいい」


 灯里はそれ以上何も言えず、わずかに息を詰めながら「うん」と頷く。両親の優しさが痛いほど身にしみる。少なくとも今夜は、実家で一息つけそうだと思うと、心に少しだけ安堵が広がった。


 玄関から上がると、台所では母がさっそく夕食の温め直しをしていて、ダイニングテーブルには父が何やら小皿を並べている。お味噌汁の香りが部屋に広がり、灯里は久しぶりに感じる「実家の匂い」にほっとする。


「こんなに遅くにご飯用意してもらって申し訳ないよ」

「何を言ってるの。自分の家なんだから遠慮しないの」


 母が笑顔で味噌汁を差し出す。灯里は一瞬だけ「3人分」という食卓の風景に懐かしさを覚えたが、そのあたたかさに胸がキュッと締めつけられる。


「顔合わせは……まあ、それなりに楽しかったよ。翔くんのおばあちゃんも良い人だし。美月さんも……うん、みんな私のことを考えてくれてるとは思うんだ」


 明るい口調を取り繕おうとする灯里だが、テーブルの下で微かに震える指先を、両親は見逃さない。だが、二人ともあえて深くは突っ込まず、優しく相槌を打ってくれる。


 夕食後、母が見せてくれた幼少期のアルバムには、小さな灯里が笑顔で写っていた。運動会やお遊戯会の写真に「こんなに小さかったのね」と和やかに会話が進む。

 食器を片付ける際には、母が昔手縫いで作ったというランチョンマットを見つけて、灯里は「懐かしい……」と手に取る。

 また、父が淹れてくれたドリップコーヒーの香りに包まれながら、灯里は少しずつ心を解かしていく。この家は、気づけばいつも自分の帰りを待ってくれていた“安全基地”なのだと実感する。


 夜も更け、母が「お風呂入ったら?」と提案。灯里は洗面所へ向かい、鏡越しに疲れた自分の顔を眺める。そこへタオルを持って入ってきた母が、そっと声を掛ける。


「灯里、さっきから気になってたんだけど……そのスマホ、どうしたの? かなり派手に割れてるわね」

「……え? ああ、これ……落としちゃっただけ。ちょっとぶつけて……」


 鏡に映った母が、優しい目で灯里の表情を探る。だが、灯里は慌てて視線をそらし、笑顔を作ろうとする。その笑顔がひきつっているのを自分でも自覚していた。


「ほんとに大丈夫なのね?」

「うん、大丈夫」


 母はそれ以上問い詰めず、タオルを渡して出て行く。その背中が見えなくなるまで、灯里は無言のまま鏡と向き合い、ぎこちない微笑を作り続けた。


 夜が更けるにつれ、実家に泊まっていく選択肢もあった。しかし明日の朝、出勤の都合でやはり自宅へ戻ったほうが良いという判断になり、両親はそろって車まで送り出してくれた。

 外に出ると、小雨がぽつりぽつりと降り始めている。父が車のドアを開けながら、低い声で灯里を見つめる。


「おかしいと思ったら、延期でも中止でも構わないんだ。結婚式は逃げない。無理に押し通すものでもないからな」

「……お父さん」

「あなたが笑顔でいられるなら、それが一番。姉さんに何を言われようと、最終的に決めるのは灯里なんだから」


 一方、母も傘を差しながら肩に手を置き、「私たちはずっと味方だからね。自分が笑える道を選びなさい」と繰り返す。

 灯里はこみ上げてくる涙をこらえるように下唇を噛み、「わかった、考えてみる」とだけ答える。車が走り出して振り返ると、両親は小雨の中で手を振り続けていた。


 タクシーで自宅マンションに着くころには、時計は23時半を回っていた。玄関の灯りをつけ、わずかに湿った靴を脱ぐと、部屋の空気が一気に重くのしかかる。

 どうにか気を取り直して明日の支度でもしようかと考えた矢先、机の上に置いていたスマホが振動した。


「……また……?」


 画面を見ると、案の定「美月さん」からのメッセージ。〈式場C社 成約期限は7日中まで〉と大文字で書かれ、20ページ近いPDF資料が添付されている。

 まだ何も、自分たちの希望すら話し合っていないのに。灯里の胸から血の気が引いていくような冷たさが広がる。両親の言葉で少し楽になったはずの気持ちが、再び暗い闇に沈んでいくのを感じた。


 シャワーを浴びる気力も失せ、灯里は寝室の机に座り込んだ。小さなメモ用紙には、父が手書きで書いてくれた『無理しなくていい』という言葉が残っている。その文字を見つめると、ほんの少しだけ温かい気持ちが戻ってきた。

 隣に置かれたひび割れたスマホは、もう電源を落としてある。しかし、スマホが夜の静寂を裂くように再び振動する。恐る恐る通知を開くと、またしても美月の追撃。

 灯里は新規メッセージの欄を開き、「美月さん、」とだけ打ち込み、しばらく指を宙で止めた。送信したら、また何かがこじれるかもしれない。打たなければ、きっとこの先も連絡が止むことはないだろう。

 指先が小刻みに震える。結局、その文章は送信されずに下書きのまま赤いマークを点滅させる。深夜2時を回り、外からはかすかな雷鳴の音が響いてくる。遠くで稲光が光ったのか、窓の外の雲が一瞬だけ白く照らされる。


(私……どうすればいいんだろう。本当に無理しなくていいのかな。私が諦めたら、誰が“私たち”の結婚を守るの?)


 深夜の闇が部屋を包む中、灯里の目からは、もう涙すら出てこない。

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