第七話:顔合わせと電撃横槍
昼下がりの日本橋。石畳の先にある老舗料亭「山田倉」の暖簾が、風に揺れている。
大川灯里は両親——父・俊彦と母・里美——とともにその店先に到着した。ふと足が止まった灯里の肩に、里美がそっと手を添える。
「大丈夫、そんなに緊張しなくていいのよ」
「うん……ありがとう、お母さん」
料亭の玄関内には、既に庄司翔と祖母の好江、そして姉の美月が到着していた。翔と目が合うと、彼は穏やかに微笑んで、灯里たちを招き入れてくれる。だが、その隣に立つ美月は群青色のワンピースを着こなし、どこか毅然とした雰囲気だ。
暖簾をくぐる瞬間、灯里の胸は早鐘を打つ。いよいよ両家顔合わせの始まりである。
店員に案内され、奥の落ち着いた個室に一同が座布団を囲むように腰を下ろす。
大川家は灯里と俊彦・里美夫妻。一方の庄司家は翔と祖母・好江、そして姉の美月。
最初の乾杯が交わされ、軽く自己紹介を交えて和やかに会話が進む。俊彦が笑顔で箸をとり、里美も「よろしくお願いします」と礼を述べると、好江が「こちらこそ、孫がお世話になりますねぇ」とにこやかに応じた。
美月も控えめな微笑みを浮かべてはいるが、その視線はどこか鋭く、部屋の空気を探るように動いているようにも見える。灯里はその雰囲気に、一瞬だけ胸がざわついた。
箸を手に取りながら、灯里は心の中で自分に言い聞かせる。
(今日こそ、“私たち”の第一歩を家族に示すんだ。翔くんと私が、この結婚をどうしたいかをきちんと話す機会にしたい――)
ポジティブな気持ちを奮い立たせる灯里。これまで翔の姉・美月が何かと口を挟んでくることへの不安はあったが、この顔合わせを無事に進め、二人の未来をしっかりと家族に宣言する——そう心に誓う。
季節の旬をあしらった八寸が運ばれ、部屋に彩りが増す。店員が「どうぞごゆっくり」と出て行ったあと、美月が箸を置き、静かに微笑んだ。
「さて……。まずは今日のような場を設けていただいて、感謝しています。弟が灯里さんとご結婚なんて、本当に嬉しいです」
一拍置いて、美月は左手の指輪跡——かつての結婚指輪をしていた痕を、そっと撫でる仕草を見せる。そして次の瞬間、口を開いた。
「ところで、入籍日はもうお決めなんでしょうか? 仏滅の日取りは避けた方がいいと思いますよ。あとあと気になることも多いので」
その言葉に、一同は一瞬だけ息をのむ。室内の空気が少し涼しく感じられたのは気のせいではない。灯里は箸を握る手に力が入るのを意識してしまう。
「入籍日については、私ども大川家の都合もありまして……」
声をあげたのは灯里の父・俊彦。落ち着いた口調で説明を始める。
「私のほうが区役所に同行できるのが日曜日でして、その日に出しに行こうかと話していたんですよ」
「そうですか。でも、たとえば土曜日の大安の日に書類を作っておいて、深夜0時を過ぎてすぐに提出すれば、日曜日でも仏滅を避けられますわ。後悔しないためにも、最善のタイミングを選ぶべきです」
美月がまるで用意していたかのように答えると、翔は苦笑いを浮かべて小声で「姉さん、そこまで調べたの?」と呟く。
当の美月は意に介さず、胸を張って「離婚を経験しているからこそ、失敗はさせたくないんです」と付け加えた。その言葉に灯里は小さく棘のような痛みを感じながら、表情を曇らせるまいと努める。
祝鯛の塩焼きや、土瓶蒸しなど、次々と豪華な料理が運ばれてくる。美月は食事を一口ごとに「美味しいですね」と言いつつも、手元のiPadを操作して式場候補のスライドを見せ始めた。
「こちらのホテルは格式が高くて安心です。チャペルも新しく、披露宴も評判がいい。披露宴が終わったあと、二次会も同じフロアでやれるんですよ」
大川家の両親は「まぁ、そうなんですね」と相槌を打つが、その声の奥には戸惑いが見え隠れしていた。こうして美月が話を引っ張る中、翔はタイミングを掴めずに苦笑するだけ。灯里は、まるで三人の話に割り込めないような気分になる。
中盤の刺身が下げられたタイミングで、灯里は意を決して声を出した。
「……あの、今日はあくまで両家の顔合わせが目的ですので、式場については、私たちのほうで改めて相談して決めたいんです。皆さんのご意見はありがたいですが、まずは二人の希望を考えてから……」
言葉を選びながらも、はっきりとした調子で言い切る。すると美月は相変わらず微笑んだまま、声のトーンも崩さずに応じた。
「もちろん、最終的にはお二人で決めればいいわ。だけど私は経験者として、失敗を繰り返してほしくないだけ。自分が結婚して離婚したからこそ、言えることってあるの」
その言葉に灯里は、言い返せないもどかしさを覚える。美月の優しい言葉の裏に潜む“支配的なもの”をなんとなく感じてしまうのだ。
空気を変えようと、灯里は「少し失礼します」と言って席を外す。
料亭の廊下は外の光が差し込み、わずかに風が通っていた。灯里は深呼吸し、スマホを取り出す。ちょうど親友の遥から「顔合わせ、うまくいってる?」とLINEが届いている。
(……誰の結婚式なの? 私の、私たちのはずなのに)
灯里はそう思いながら、深く息を整える。ここで逃げ出すわけにはいかない。決意を新たにして、再び個室へ戻っていく。
部屋へ戻ると、ちょうどデザートが出される前のタイミング。美月は再度iPadを手に、さらなるアドバイスを口にしていた。
「それと、指輪のデザインも替えてもいいと思います。あまり派手なのは飽きがくるし、年齢的にも落ち着いたものを選ぶほうが――」
「姉さん、もうやめようよ」
我慢の限界に近づいたのか、翔が遮るように声を上げる。ところが美月は声を震わせながら、それでも話を続けようとする。
「私はただ、間違いをさせたくないだけ……。弟には幸せになってほしいのよ」
その瞬間、美月は再び指輪の跡を撫でる。何も言えない空気が流れる中、灯里の母・里美の表情が凍りつくようにこわばる。大川家の父母はどう対処していいのか判断しかねている様子だ。
結局、気まずさを多少含みつつも、なんとか形だけの顔合わせは終了し、夕方にはそれぞれ解散となった。料亭から出る石畳では、暖簾が引き続き風にたなびいている。
美月は灯里に近づき、小さく耳打ちするように囁いた。
「日程は早めに詰めましょう。式場、いくつか仮押さえしておくわね。後悔しないように、ね?」
灯里は引き攣った笑顔で「ありがとうございます」と会釈するが、その拳はわずかに震えている。
そんなやりとりを目にして、翔は申し訳なさそうに小声で謝る。
「ごめん……姉さん、張り切り過ぎだよな。気を悪くした?」
「……大丈夫。でもさ、これ、私たちの結婚だよね?」
灯里の問いかけに、翔はしばし沈黙する。答えを口にしないまま、庄司家はタクシーへ、美月の後ろ姿が見えなくなると、暖簾が風で大きく翻った。
灯里の視線は、それを追うように揺れていた。両親から「大丈夫?」と声をかけられるが、頭を振って「大丈夫だよ」と微笑んでみせるものの、心はざわついたままだ。
このまま結婚準備を進めて、本当に大丈夫なのか。暗雲が垂れ込める予感とともに、夕日の残光が石畳を赤く染めていく。