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第六話:優柔不断の正体

 白い壁の戸建てに「庄司」と書かれた表札がかかっている。庭先には紫陽花が小さく揺れ、初夏の風が吹き抜けていく。

 大川灯里おおかわ・あかりは門柱を見上げながら、隣に立つ婚約者の庄司翔しょうじ・かけるに目をやった。翔はどこか落ち着かない様子で、指先を軽く震わせている。


「……翔くん、緊張してる?」

「うん、まあ……。久しぶりに実家に帰ると、やっぱり落ち着かないっていうか」

「大丈夫。おばあちゃんは優しいって言ってたし、今日は両親の仏壇にお線香をあげるだけだよね?」


 灯里がそう声をかけると、翔はかすかに笑みを返した。

 顔合わせはすぐに控えているが、その前に亡き両親に「婚約の報告」をしたいという翔の希望で、二人は庄司家を訪れたのだ。

 門をくぐり、玄関へと向かう。チャイムを鳴らすと、中から「はーい」と穏やかな声が響いてきた。



 出迎えてくれたのは、翔の祖母である庄司好江しょうじ・よしえ。優しげな笑顔で、「いらっしゃい。遠いところご苦労さま」と言いながら二人を居間へ通す。

 壁には幼いころの翔と姉の美月みつきが写った写真がいくつも飾られていた。そこには運動会の光景や、七五三、家族旅行らしき写真もある。

 一角には仏壇が置かれており、遺影は翔の父と母。数年前の交通事故で亡くなったという話は灯里も聞かされていたが、こうして写真を見ると、改めて胸にこみ上げるものがある。


「……お邪魔します。初めまして、大川灯里と申します」

「まあまあ、翔の大事な人なんでしょう? リラックスしてちょうだい。どうぞ奥へ」


 好江に勧められ、灯里は仏壇に手を合わせる。翔もその隣で深く頭を下げた。線香の香りが居間に柔らかく漂い、穏やかな空気をまとっている。



 仏壇に手を合わせながら、灯里は心の中でつぶやく。


(家族って、思い出の数だけ「重さ」を増していくんだな……。その重さが、ときどき人の“主語”を奪ってしまうのかもしれない)


 婚約後、翔の姉・美月が何かと口を出してくることに、灯里は薄々違和感を抱いていた。けれど「家族の重さ」を前にしたときに、果たして翔自身がどう行動するのか——その答えはまだわからない。



 二人が線香を上げ終わると、灯里は一足先に居間へ戻り、翔は仏壇の前にもう少し長く留まった。

 ふと、両親の遺影を見つめる翔の胸に、かつての光景がよみがえる。


(高校2年の冬、あの日、突然両親が事故で亡くなって……俺と姉さんは二人きりになった。大学進学も就活も、姉さんがいなきゃ越えられなかった。姉さんが支えてくれなかったら、きっと今の俺はいない)


 仏壇の前で両手を合わせながら、翔はそっと瞼を閉じる。その隣には姉と二人で写った写真が一枚。姉が満面の笑みで、高校の制服姿の翔をぎゅっと抱きしめていたものだ。

 ——姉さんは自分にとって特別な存在。そう再認識するたび、翔は心が少しだけ重くなる。



 祖母が用意してくれたお茶を手に、灯里と翔は裏庭へと出た。静かな住宅地の午後の風景は、鳥のさえずりと遠くの車の音が心地よく混ざり合っている。

 灯里はベンチに並んで腰を下ろし、改めて翔の顔を覗き込んだ。


「今日はお姉さん、来ないの?」

「うん。顔合わせも近いし、今日は別件があるって。……あ、でも姉さんは、店選びとかいろいろ調べてくれてるよ。会食プランとか、コースメニューまで詳細にまとめてくれてて……」

「本当に何でも調べてくれるんだね」

「そう。俺、あんまり失敗したくないタイプだから、姉さんを頼りにしちゃうんだよな」


 翔の言葉は柔らかいが、その裏には「姉さんに意見を仰ぐのが当たり前」という空気も含まれているように感じる。灯里は微笑みながらも、胸の奥にわずかな引っかかりを覚えた。



「ちょっと待ってて。押し入れから昔のアルバムを持ってくるよ」


 翔はそう言って家の中へ駆けて行き、しばらくすると分厚いアルバムを抱えて戻ってきた。祖母の許しももらい、二人で庭のテーブルを囲んでページをめくる。

 そこには、幼い翔と美月の姿がたくさん収められていた。運動会、学芸会、家族旅行、そしてそれぞれの卒業式——。


「……これ、高校の卒業式かな。蝶ネクタイ曲がってるよ、かわいい」

「そっか、姉さんが直してくれたんだ。見て、ここなんて、大学の就活時にスーツ選びで姉さんに散々文句言われてる写真だよ。『シャツがヨレてる』とか『髪型がだらしない』とか」


 灯里はページをめくるたびに、姉が“親代わり”として弟を気遣っている写真ばかりが目につくのに気づく。翔の目線は懐かしそうではあるが、どこかせつなさも混じっているようだ。



 アルバムを一通り眺め終わり、灯里は祖母の皿洗いを手伝うことにした。小さな窓から差し込む午後の陽光が、台所を穏やかに照らす。

 好江は笑みを浮かべながら、手を動かす灯里の横顔をちらっと盗み見る。


「こんな可愛いお嫁さんが来てくれるなんて、翔も喜んでるわ。ありがとうね、灯里さん」

「いえ、私のほうこそ、翔くんと出会えて幸せです。……ただ、お姉さんがずっと弟想いなのは、本当にすごいなって思います」

「美月は……両親を亡くしてから、ずいぶん自分を削って弟を守ってきたの。実際に美月がいなけりゃ、翔は大学へ行くことも難しかったかもしれない」

「そうなんですね。そういう話、翔くんからも聞いてはいましたけど……」


 好江は、洗った皿を一枚拭きながら、少し沈んだ声で続ける。


「でも、美月は時々、行き過ぎるのよ。弟を思うあまり、自分の人生を犠牲にしてしまうの。結婚して離婚したのも、その辺りが原因だったのかもしれないね」

「行き過ぎる……」

「ええ。もちろん善意なんだけど、いつの間にか相手を縛ってしまうほどになることがある。灯里さんが辛くなったら、遠慮せずに言ってちょうだい」


 その言葉に、灯里は胸が重くなるのを感じた。同時に、翔自身がずっと姉に支えられてきたことも事実。二人のバランスをどうやって保てばいいのか、まだ答えが見えないまま、静かにお礼を言って皿洗いを続けた。



 帰り際、好江の勧めで、二人は近くのお墓へ立ち寄ることになった。そこには翔の祖父母が眠っている。

 夕暮れに染まった空の下、翔が墓石の前に花を供え、軽く手を合わせる。その横顔にはどこか切実な想いが宿っていた。


(姉さんは自分の夢だって後回しにしてきた。だから、俺が幸せになることが姉さんへの恩返しなんだ。……何もかも一人ではできない俺を支えてくれた姉さんに報いるためには、家族の幸せを優先するのが当たり前)


 そう心の中でつぶやくたび、翔は知らず知らずのうちに“姉さんの意見を尊重しなくては”という気持ちに駆られている自分を自覚していた。



 参拝を終え、車で都内へ戻る道すがら、ライトに照らされた街並みが流れていく。ハンドルを握る翔の横で、助手席の灯里はひと息ついて尋ねる。


「……翔くんは、本当に自分の人生を歩いてる?」

「え、どういう意味?」

「だって、いつも“姉さんを安心させたい”って言うから……。別にそれは悪いことじゃないよ。私も姉弟仲がいいのは素敵だと思う。ただ、その……」


 灯里は言葉を選ぶように口ごもる。そこに気づいたのか、翔は視線を前方に向けたまま切り出す。


「もちろん俺の人生だよ。でも、姉さんを裏切りたくないんだ。あの人がどれだけ犠牲にしてきたか知ってるから」

「……そっか。うん、わかった」


 車内に重たい沈黙が落ちる。街灯の明滅がフロントガラスに反射し、ふたりの間で微妙な影を作っていた。



 都内に戻り、灯里のマンション前に車を停める。翔はエンジンを切ると、ややおどけた口調で言った。


「じゃあ、明日の顔合わせ、頑張ろうな。……姉さんが店を探してくれてるし、きっと大丈夫だよ」

「……うん。でも、一応覚えておいて。“私たち”が決めることだからね?」

「……わかってる」


 エントランスまで見送り、別れ際に軽く抱擁を交わす。けれど、翔の表情にはどこか落ち着かない色が宿っている。

 エレベーターに乗った灯里が扉を閉じると同時に、彼のスマホが振動した。画面には「姉さん」の文字。〈顔合わせ日/会場URL〉というメッセージが表示される。

 翔は一瞬だけ眉をひそめ、「姉さん、ありがとう。また宜しく」とだけ返信してスマホをポケットにしまった。

 エレベーターのデジタル表示が上昇していくのを背に、灯里もスマホを確認する。そこには同じく美月からLINEが届いていたが、灯里は一瞥すると画面ロックボタンを押してそっとため息をつく。


 ——両家顔合わせは、果たしてどんな形になるのか。

 夜のマンションのエントランスに静寂が戻り、車が走り去った後には、わずかな不安だけが残っていた。

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