第五話: 指輪より重いメッセージ
― 〈二か月後〉―
春の陽射しがまぶしい表参道の大通り。オシャレなショップのウィンドウが連なる歩道で、大川灯里と庄司翔は手をつないで歩いていた。
アパレルのディスプレイに映る二人の姿は、まるで雑誌のカップル特集から抜け出したように見える。灯里は弾むような足取りで、翔の腕を引きながら微笑んだ。
「ねぇ、見て。もう春物がこんなに出てるよ。可愛いなぁ」
「本当だ。灯里が着たら似合いそう」
翔も優しい笑みを浮かべる。その表情は、まさに「幸せ」を絵に描いたようだった。いつもなら「ちょっと覗いてみる?」と寄り道を提案する灯里だけれど、今日は別の目的がある。
「……まずは結婚指輪、だよね」
「うん。せっかく予約したお店だし、早めに行こうか」
微笑み合う二人の姿。二か月後に「結婚をやめたい」とぶちまけた灯里の姿は、想像できないほどの幸福感に満ちていた。
タワービルの一角にあるハイジュエリーショップは、壁からショーケースまで白を基調とした高級感あふれる空間だ。店員がお出迎えしてくれて、奥へ通されると、目の前にダイヤのリングがずらりと並べられる。
「すごい……ほんとにキラキラしてる」
灯里は目を輝かせ、ケースに顔を近づける。まるで宝石箱を開けた子どものような無邪気な表情に、翔は思わず笑みを深くした。
「灯里がつけると、もっと映えるだろうね」
「え、そうかな……? 私、こういうハイジュエリーって慣れてないから、なんだかドキドキする」
隣で店員が柔らかな笑顔で言葉を添える。
「きっとお客様によくお似合いですよ。まずはこちらを試着されてみては?」
店員が見せてくれたのは小ぶりなダイヤが中央で輝き、両脇にも控えめに石が埋め込まれたシンプルなリング。灯里が指にはめてみると、さっと目元に幸福の色が差した。
「……わぁ。まるで光の粒が指に舞い降りたみたい」
「すごくいいね。灯里の雰囲気にぴったり」
翔が真剣な眼差しで灯里の手元を見つめている。お互いに「完璧なパートナー」と言わんばかりのオーラが、店内に漂っていた。
灯里はリングを眺めながら、ふとつぶやく。
「結婚って、二人だけの宝物を作るみたいだね……」
その言葉に、翔は「うん」と頷く。まさに彼らは今、二人だけの未来を輝かせようと指輪を選んでいる最中なのだ。
店員が別のリングを用意してくれて、一段落ついたところで、ショップ奥の小さなソファに腰を下ろす。すると、翔のスマホが軽やかな振動音を立てた。画面には「姉さん」という文字。
「姉さんか。……灯里、ちょっと出ても大丈夫?」
「うん、もちろん。私も他のデザイン見てるから気にしないで」
灯里は笑顔でそう答える。美月は以前から翔の良き相談相手であると聞いているし、このときの灯里は「お姉さんと仲良くしたい」と純粋に思っていた。
翔はソファを離れ、少し店の隅のほうで通話を始める。灯里はショーケースを見ながら、翔の声がうっすら聞こえてくるのに気づく。
「うん……そうだよ、今店にいる……照明? うん、確かにそうかも……わかった、ありがとう」
短い通話を終えた翔が戻ってくると、どこかばつの悪そうな笑みを浮かべていた。
「姉さんがさ、“照明の色でダイヤの印象が変わるから気をつけて”って。前に結婚指輪を買いに行ったときの経験談らしい」
「あ、そっか……そうだよね。店内の照明って特別だもんね」
そう言いながらも、灯里の胸に小さな棘が刺さるような感覚が走る。せっかく二人で選んでいるのに、「姉さん」の言葉が挟まると途端に外からの視線を感じるような気がしてしまうのだ。
(でも、姉さんはあくまでアドバイスしてくれてるだけ。悪気なんてない……よね)
頭でそう納得しようとするが、ほんのわずかな違和感が灯里の中に生まれ始めていた。
それでもこの日は、「二人だけの特別な時間」として華やかに彩られていく。
指輪の見学を終えた後、まずは表参道近くのカフェで休憩。春らしいピンク色のスイーツをシェアし合い、翔が灯里の鼻先にクリームをちょんとつけて笑い合う。
代官山へ移動して、ショップのウィンドウを覗きながら休日の散歩を楽しむ。灯里のスマホには、楽しそうなセルフィー写真が次々に増えていき、その度に彼女は「これ、あとでアルバムにまとめよう」とはしゃいでいた。
夕方から夜へと移り変わる頃、二人は渋谷スクランブルスクエア最上階の展望施設へ向かった。ガラス張りのエレベーターが高速で上昇し、まるで光の海を突き抜けるように視界が開ける。
「うわぁ……見て、翔。すごい夜景!」
「ほんとだ。街の光が宝石みたいに見えるね」
屋上のスカイデッキに出ると、透明な手すり越しに 360 度のパノラマが広がる。二人は肩を寄せ合い、そっと風を受けながら至福のときを味わっていた。こんなふうに笑い合える日々がずっと続くと思っていた——少なくとも、この夜までは。
デッキ中央のガラス床の上に立つと、足もとを走る車のライトが脈打つように瞬き、灯里は思わず顔をほころばせる。
「次は式場も見学に行きたいね。やっぱり実際に見ないとイメージ湧かないし」
「うん、そうだね。……あ、そういえば姉さんが詳しいプラン知ってるって言ってたから、一回聞いてみようか」
その言葉に、灯里は思わず動きを止める。「また姉さん?」という声が喉元まで出かかったが、代わりに笑顔を保ったまま頷いた。
「そっか……姉さん、いろいろ調べてくれてるんだね。優しいね」
「うん、式場選びってさ、迷うじゃない? 姉さんも結婚経験あるし、参考になると思うんだ」
言われてみれば確かに合理的だ。けれど灯里の胸には小さなざわめきが生まれる。結婚は二人で築くもの——そう思っていたのに、「姉さん」という影が差し込むたび、自分の意見を呑み込んでいる気がしてならない。
屋上を吹き抜ける風が髪を揺らし、遠くに東京タワーやスカイツリーの灯りが瞬く。灯里は意を決して口を開いた。
「ねぇ、翔……私たちの結婚式って、私たち二人が中心で決めたいな。もちろん、お姉さんの経験やアドバイスはありがたいけど……最終的には私たちの気持ちを一番大事にしたいの」
一瞬、空気が張りつめる。翔は穏やかな笑みを浮かべたまま肩をすくめた。
「もちろんそうだよ。でも、姉さんって失敗も経験してるからさ。俺としては、その分すごく心強いんだよね」
その瞬間、高層ビル特有のかすかな揺れが足下を伝い、耳奥でコンクリートが軋むような幻聴が鳴った気がした。
「……うん。そっか。そうだよね」
俯いた灯里の横顔を、足元のライトが淡く照らす。さっきまでの笑顔には、うっすらと翳りが差していた。
翔はその表情を見て胸騒ぎを覚える。
(……あれ、灯里を不安にさせたかな。でも姉さんの意見は大事だし、きっと灯里も分かってくれるよな)
しかし、その「大事」という思いがいずれ自分の選択を縛ることになるとは、まだ翔は気づいていなかった。
やがてエレベーターが静かに下降し、二人はロビーへ戻る。ガラス越しに映る渋谷のネオンがまぶしい。手渡されたチケットには展望台のロゴが印刷されている。灯里は紙の軽さを感じながら、胸の奥に残る違和感を言葉にできずにいた。
(幸せって、もっと重くて消えないものかと思ってた。でも……こんなに軽かったっけ?)
チケットが夜風に揺れるたび、ざわつく胸。翔は気づかぬまま「帰りに何か食べていこうか」と笑い、灯里も応じて笑顔を作る。だがその笑顔の奥では、確かに小さな翳りが瞬いていた。
(もしかして、あの指輪より重いものがあるとしたら——“姉さんの存在”なのかな)
自分の疑問を吹き飛ばすように、灯里はそっとチケットをバッグにしまう。
笑顔と甘い時間の裏側に、見えない不安の種が植えられた夜。それでもまだ、このときの灯里は、二か月後に自分が「結婚をやめたい」と思うなんて想像もしていなかった。