第四話:沖縄で、二人の約束を
― 〈二年後〉―
エンジンの轟音とともに滑走路に降り立つ飛行機。機内から覗くターコイズブルーの海が、まぶしい陽光を反射している。
庄司翔はシートベルトを外すと、胸ポケットに手をやり、小さなベルベットの箱をそっと確かめた。
「……今日こそ、渡すんだ」
呟き声はエンジン音にかき消されるが、決意に満ちたそのまなざしは揺るぎない。横に座る大川灯里は、沖縄初上陸のワクワクを抑えきれず、窓の外を覗き込みながら微笑む。
「すごい綺麗……! やっぱり沖縄の海って別世界だね」
「うん、実際に見ると想像以上だろ?」
飛行機を降りると、那覇空港のターミナルに南国の湿った空気が広がる。レンタカーを借り、一路、恩納村のラグジュアリービーチリゾートへ向かう二人。ちょうど交際2周年の記念旅行にふさわしい特別な滞在が始まろうとしていた。
フロントでチェックインを済ませ、案内されたオーシャンビュールームに足を踏み入れた瞬間、窓の外にはエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっている。
荷物をほどいた後、バルコニーに出ると、ホテルからのサービスで用意されたシャンパンが冷えたグラスに注がれていた。
「わぁ……こんな広々としたバルコニー、初めてかも。すごい贅沢だね」
「2年記念のお祝いだし、思いきってプラン奮発したんだ。灯里が喜んでくれたなら何より」
琉球ガラスのグラスを軽く合わせ、カランという涼しげな音が響く。
「それじゃあ……2周年、おめでとう。そして、これからもよろしく」
「うん。翔くん、いつもありがとう」
シャボンのように弾けるシャンパンの泡が、二人の笑顔を彩っていた。
潮風を感じながらバルコニーの椅子に腰を下ろし、灯里は目を細めて海の方を眺める。
「やっぱり、“自分で選んだ景色”って、こんなに格別なんだね……」
その言葉は、まるで今までの二人の歩みを肯定するようだった。江ノ島で告白し、都内で過ごした日常を経て、一つひとつ「自分の意思」で選択してきた結果が、こうして沖縄の絶景へつながっている。
翔はバルコニーの柵に片手を置き、そっと灯里を見つめる。心の奥で、“もっと特別な景色を見せたい”という思いがますます強まっていた。
チェックイン後、リゾート内を散策していると、色鮮やかなブーゲンビリアや南国の草花が咲き乱れるトロピカルガーデンにたどり着く。夕陽が傾きかけ、空がオレンジ色に染まっていた。
翔は灯里の手を軽く引き寄せ、通路脇の休憩スペースに腰掛ける。
「実は、明日のサンセット、プライベートデッキを予約したんだ。海に突き出てる桟橋の先端で、夕陽を独り占めできるらしい」
「え、すごい。そんな場所があるんだ? ……わぁ、楽しみ!」
灯里が目を輝かせるのを見て、翔は嬉しそうに微笑む。明日の夕方こそが、今回の旅の最大のサプライズとなる場所。胸のポケットには、例の小さな箱が隠されている。
初日の午後から夜にかけて、二人はリゾート内を満喫する。
インフィニティプール
海とプールの境界線が溶け合うような絶景プール。ライトアップされた水面に、二人で並んで浮かびながら「すごいね、海と一体化してるみたい」と感動を分かち合う。
シーフード・テラス
夕闇が深まる前に、ビーチサイドのテラス席でシーフードディナー。フレッシュな魚介に舌鼓を打ちながら、「何が一番おいしかった?」と感想を言い合う。
ビーチ星空散歩
夜になり、砂浜まで降りてみると、満天の星が広がっていた。砂に寝転がり、そっと手をつないで星の瞬きを眺める。やがて微かな潮騒と夜風が、二人の世界を優しく包む。
翌朝、二人は早起きして離島のシュノーケリングツアーに参加。軽快な音楽をBGMに、船でポイントへ向かう。
シュノーケリング
透明度の高い海の中で、カラフルな魚たちが舞い、運よくウミガメまで遭遇。「わぁ、ウミガメだ! すごい……!」と灯里が興奮すると、翔も「これはレアだってガイドさんが言ってた」と嬉しそう。
琉球ガラス体験
午後はショップで手作りのグラス体験。赤や青のガラスを溶かし込み、自分だけの模様を作る。灯里は「どんな色になるんだろ……」とわくわくしながら仕上がりを待つ。
こうして過ごすうち、時計の針はいつの間にか夕刻へ近づいていく。翔はそわそわした面持ちで、予定しているサンセットタイムを気にし始めていた。
ホテルの客室に戻り、シャワーを浴びて少し休憩。窓の外にはまだ陽が傾き始めた程度だが、サンセットまではもうあまり時間がない。
クローゼットの前で、翔がネクタイを締め直している。手元が微妙に震えているのを、後ろから来た灯里が見逃さなかった。
「翔くん……緊張してる?」
「……え、うん、まあちょっとだけ」
「そんなに気合い入れなくていいのに。いつもの翔くんで大丈夫だよ」
その言葉に救われるように、翔は「そっか」と苦笑する。けれど、シャツの襟元に手をやると、胸ポケットにある小箱の存在がまた気になり、心臓が高鳴る。
「今日こそ絶対に――」。そう誓う自分を、ひたすら鼓舞するかのように、鏡に向かって小さく息を吐いた。
リゾート敷地内を抜け、ビーチ沿いの桟橋を進むと、そこには小さなプライベートデッキが待ち構えていた。夕陽のオレンジが水平線を染め上げ、波間が金色に揺らめいている。
翔は灯里の手をそっと握り、デッキ中央へと誘う。ランタンが優しく揺らめき、二人のシルエットを映し出していた。
「わぁ……ここ、本当に綺麗。まるで絵本の世界みたい」
「だろ? 絶対に灯里を連れてきたかったんだ」
灯里はマーブル模様の空と海の境界線に目を奪われ、しばらく言葉を失う。その背後で、翔の心臓はドキドキと高鳴り続ける。
波の音がさざめく中、翔は意を決したように灯里の手を少し強く握った。そして、深く息を吸い込む。
「……灯里。覚えてる? 江ノ島の橋で、告白したあの日のこと」
「もちろん。夕陽が綺麗で、でもあのときは翔くんの告白のほうが衝撃で、景色どころじゃなかったけど……」
灯里が照れ笑いしながら頬を染める。翔は続けるように、瞳をまっすぐに見つめた。
「それから毎日、景色を見るたびに君を思い出した。君はいつだって“自分で選ぶ”って言ってたよね。俺はその隣にいたい。君の選択の、いつもそばにいたいんだ。だから――」
ここで胸ポケットからベルベットの小箱を取り出し、そっと蓋を開ける。プラチナのリングが夕陽の光を受けて輝く。
「未来の地図を、二人で描いていきたい。……結婚してください、灯里」
灯里の瞳に涙が溜まる。それは不安や迷いではなく、純粋な喜びの証だった。
胸がいっぱいの彼女は、震える声で答える。
「はい……。翔くんとなら、これからも二人の人生、一つの家庭を築いていけるって思う。どうか、よろしくお願いします」
リングを薬指に滑り込ませた瞬間、夕陽が水平線に沈む。空一面が焼け付くようなオレンジ色に染まり、そのままグリーンフラッシュの一瞬の光が、二人のシルエットを美しく縁取った。
灯里と翔は抱き合い、砂浜からの潮騒が祝福の拍手のように聞こえてくる。彼らの2年間の思い出が、今、新たなステージへと足を踏み出した。
プロポーズを終えた後も、まだ胸の高鳴りは収まらない。ホテルに戻る途中、ビーチを少し散策しながら、二人はそれぞれの両親へ電話を入れる。
「お母さん、うん、沖縄だよ。……実はさ、今日プロポーズされたんだ。……うん、リングも……写真送るから待ってて!」
灯里の目にはまた涙が浮かぶ。電話越しに聞こえる母の歓喜や、「おめでとう」の声が心に染みわたる。
一方、翔も祖父母に短く報告を済ませ、電話を切った直後にディスプレイに「姉さん」の文字が現れた。
「……姉さん、聞いてくれよ。決まったんだ……そう。うん、顔合わせ? まだ何も……え? 日取りは早めがいい? 式場も急ぐべき?」
その声色からは、姉の“行動力”に押されている様子がうかがえる。どこか焦りを帯びた問いかけに、翔の表情がわずかに曇る。
しかし波打ち際で星空を見上げる灯里は、そんな彼の顔には気づかず、輝く星を見ながら幸せに満ちた微笑みを浮かべていた。