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第三話:江ノ島の風、橋の上の"好き"

 金曜の夜、渋谷の小さな路地裏にあるビストロ「リリー」。落ち着いた照明と、どこか懐かしいジャズが流れる店内。

 大川灯里は、先に席についていた庄司翔を見つけて、笑顔で手を振った。


「ごめん、お待たせ。仕事がちょっと押しちゃって」

「いや、俺もさっき来たところ。あ、メニュー持ってきてもらったよ」


 グラスの水を一口含みながら、灯里は店内をぐるりと見回す。前に行った居酒屋より静かで、隣のテーブルとの距離もゆったりとしている。


「落ち着いてて、いい雰囲気だね。翔くんが選んだの?」

「うん。仕事の先輩に教えてもらったんだ。ワインも料理も美味しいって評判で」


 呼び方をどうするかは、二人の中でまだ手探りだった。懇親会以来「庄司先輩」と呼んでいたが、この二週間でランチやLINEのやりとりを重ねて、少しずつ敬語も取れてきた。

 前菜のサラダとバケット、そしてワインが運ばれる。かすかなバジルの香りが漂い、灯里は「わぁ、美味しそう」と目を輝かせた。


「前回のカジュアルな店も楽しかったけど、こういう静かなビストロもいいね。ゆっくり話せるし」

「だよね。なんか仕事の話とか、いろいろ聞いてみたいと思ってさ。灯里、最近はどう?」


 水を向けられ、灯里は笑顔で応じる。先輩社員の指導のことや、企画部での苦労話などをぽつぽつと語るうち、いつの間にか距離が一段と縮まるような感覚があった。



 赤ワインを少しだけ試飲しながら、二人は映画や旅行の話で盛り上がる。


「灯里って、映画だとどんなのが好き?」

「私はヒューマンドラマ系かな。ファーストラブとか、人間の感情を丁寧に描いてる作品が好き。でもアクションも嫌いじゃないよ」

「わかる。俺もBefore Sunriseみたいなストーリーに惹かれるタイプ。スカッと爽快なのもいいけど、心に残るものが欲しい感じ」


 お互いの趣味が思いのほか合うことに、小さく驚きを覚える。

 ワインのグラスを置いて、灯里はふと遠くを見るように言った。


「いつか海辺で朝焼けを見たいんだ。まだ暗いうちに海に着いて、だんだんオレンジ色になってく空を眺められたら最高じゃないかなって」

「朝焼け、か……いいね。俺、意外とそういうの観たことないかも。いつも夜型だからな」

「ふふ、わかる。私も夜型タイプ。でも、そういう早起き旅もしてみたいなって思うの。なかなか実現できてないけどね」


 話せば話すほど、二人の呼吸が自然と合っていく。心地よい沈黙すら、互いの距離を縮めるスパイスになるようだった。



 ふとメインディッシュが運ばれる前に、旅行の話題が続く。灯里は軽く肩をすくめながら、どこか哲学的に言う。


「結局ね、“自分の意思”がないまま旅に出ちゃうと、どこへ向かっていいのかわからなくなるじゃない? 地図があっても迷子になるというか……」


 その言葉に、翔は「なるほど」と頷いた。灯里の言いたいことは、人生においても同じだろう。自分で選び、自分で進む道を決めなければ、いつまでも誰かの後ろをついていくだけになってしまう。

 その“主語=私”というメッセージこそ、灯里の芯の強さを物語っているようだった。



 店を出ると、雨上がりの街に星がちらほら輝き始めていた。アスファルトがまだ少し湿っていて、足元から夜の匂いが立ち上る。

 傘もいらなくなり、二人はビストロの前で並んで空を見上げる。


「天気、回復してよかったね。明日は晴れるかな?」

「だといいけど……あ、そうだ。来週末さ、もし休み合うなら江ノ島行かない? 水族館とか夕陽が綺麗だって聞いたんだけど」


 翔は少し照れくさそうに提案する。灯里の目がぱっと輝いた。


「江ノ島……行きたい! 私、湘南とかあの辺あまり詳しくないんだよね。前に通りかかっただけで、ちゃんと観光したことなくて」

「じゃあ決まりだね。土曜か日曜、どっちがいい?」

「えっと……土曜が休み。そっちなら空いてるよ」

「よし、じゃあ土曜。またLINEするね」


 言葉を交わすだけで、まるで小学生の遠足前夜のようなわくわく感が湧き上がってくる。二人はそのまま駅に向かいながら、江ノ島デートの話題で笑い合った。



 週明けからのLINE

 ‐ 「レンタカー予約できたよ!」(翔)

 ‐ 「じゃあ水族館のチケットは私が買っとくね!」(灯里)

 ‐ 「クラゲ見たい! あとイルカショーも!」(灯里)

 ‐ 「イルカショー絶対見よう! タイムテーブル調べておく!」(翔)


 仕事の合間に飛び交うメッセージが、二人の距離をさらに縮めていく。デートの下準備でさえ、二人にとっては楽しみのひとつだった。



 そして迎えた土曜の朝。天気は快晴。レンタカーを借りた翔の運転で、東京から首都高を抜け、湘南エリアへ。

 窓を開ければ、潮の香りが鼻孔をくすぐり、青い海が視界に広がる。灯里は「あぁ、なんか解放感すごい……!」と嬉しそうに声を上げる。


「わぁ、見て! サーファーがいっぱい」

「ほんとだ。さすが湘南だなぁ」


 そんな他愛ない会話でも、すべてが新鮮。二人きりの車内、心地よい音楽がBGM代わりだ。

 江ノ島水族館に着くと、クラゲの大水槽が幻想的なブルーに輝き、イルカショーでは大きな拍手とともに歓声を上げる。昼食は館内のカフェで海を見ながら軽くパスタをつつき、写真を撮り合う。まるで“初々しいカップル”そのものだ。



 夕方が近づき、一通り館内を楽しんだ後、二人はレンタカーに戻って一息つく。窓越しに眺める湘南の海は、日差しがやわらかくなり始めていた。


「今日は写真いっぱい撮ったね。誰かに送ったりしないの?」

 灯里が笑いながら尋ねると、翔はスマホの画面をちらりと見て、すぐに伏せた。


「うん、まだ送ってない。あとでまとめてSNSにでもあげようかな。……ほら、帰る前に江ノ島の橋を渡って島の方まで行ってみようよ。夕陽スポットがあるらしいんだ」

「いいね。行きたい!」


 翔のスマホに一瞬だけ表示された「姉さん」の文字には、灯里は気づかない。彼女の興味はすでに“夕陽の江の島”に向いていた。



 車を降りて、二人は江の島へと渡る長い橋の上を歩く。夕暮れの光に染まった海面が、金色にきらめいている。


「すごい……。さっきまでの青い海が、こんな風に色を変えるんだ」

「夕日って、なんでこんなに切なく綺麗なんだろうね」


 海風に髪が揺れ、灯里は思わず深呼吸をする。その姿を横目に、翔は少し緊張した面持ちを見せていた。

 胸の奥で、言葉が暴れだす。そろそろ伝えたいことがある——そう、もう腹は決まっていた。



 灯里が手すりに寄りかかり、夕景を見つめていると、翔がそっと彼女の髪を払う。吹きつける潮風が、二人の間をかき分けるように流れた。


「……灯里」

「うん?」


 その瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のく。夕日がまぶしく、波の音が心臓の鼓動に重なる。


「俺さ、灯里のこと……好きだ。俺と付き合ってほしい」


 翔の声は少し震えていたが、まっすぐな瞳が灯里を見つめている。

 灯里は一瞬驚いて、やがて頬を染めながら微笑む。瞳にうっすら涙が浮かんだのは、潮風のせいか、それとも——。


「……はい。私も好き。翔くんと……一緒にいたい」


 夕暮れの海に静かな拍手が響いた気がした。遠くからクラゲ観覧の余韻なのか、汽笛が低く鳴る。二人は照れくさそうに見つめ合い、言葉にならない想いを共有した。




 あたりがすっかり暗くなり、湘南の海には夜の気配が満ちている。車のヘッドライトが潮風を切り裂くように光を投げ、国道134号線を走り抜ける。


 助手席に置かれた小さなペンギンのキーホルダー——水族館で二人が買った思い出アイテム——が、走行の振動に合わせて可愛らしく揺れている。


「……そういえば、朝焼け見たいって言ってたよね。今度は本当に行こうか?早起きしてさ」

「うん、行きたい。絶対綺麗だよ、きっと」


 灯里が微笑みながらキーホルダーを握りしめる。その様子をちらりと横目で見た翔は、心からの幸せを噛み締めた。


 やがて車は灯里の自宅前に停まる。エンジンを切ると、二人の間に短い沈黙が落ちるが、それは気まずさとは違う優しい静けさだった。


「今日はありがとう。本当に楽しかった。……またドライブ、行こうね。」

「うん、楽しみにしてる。じゃあ、おやすみ」


 シートベルトを外し、灯里は名残惜しそうに車を降りる。タワーマンションのエントランスに向かう彼女の背中を見送ると、翔はゆっくりと車を発進させた。

 テールランプの赤い光が夜の海風の中で揺らめき、アスファルトにぼんやりと反射する。まるで二人の新しい未来を照らすかのように、静かにゆらりと揺れ続けていた。

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