第二十話: 返事のないLINE
夕焼けがビルの向こうに沈み、部屋の窓からはネオンの光が淡く差し込んでいる。庄司翔は暗いリビングのソファに座り、スマホの画面をじっと見つめていた。
画面にはまだ送信されていない長文メッセージ。冒頭の行にはこう書いてある。
「灯里へ。今度、もう一度話す時間が欲しい。」
親指が画面を往復し、文章を打ったり消したりを繰り返す。いつからこの作業を始めたのか、もう2時間以上が経とうとしている。
向けたい言葉は山ほどあるが、どこからどう伝えればいいのか、翔自身もわかっていない。ただ一つ確かなのは——「もう一度だけ、ちゃんと向き合いたい」という懇願に近い気持ちだった。
(灯里……今はどこで何を思ってるんだろう)
部屋は静かで、時計の秒針がやけに大きく鳴り響く。ソファに腰を沈めたまま、翔はスマホの画面から視線を離せなかった。
一方そのころ。大川灯里は同僚・立花恭介と連れ立って、鴨川沿いの河川敷から夜道を歩き、帰宅の途についていた。
薄暗い川辺で缶ビールを飲みながらの雑談は、想像以上に楽しくて、時の経つのを忘れてしまうほどだった。立花の京都弁混じりの冗談や、次回行こうと約束したお店の話。新しい同僚との気さくなやりとりに、灯里は心がほどけていた。
「今日もお疲れさんでした。またこんど飲みましょうね。おばんざい以外にも、まだまだ名店ありますよ」
「うん、楽しみ……本当にありがとう」
立花と別れて一人になってからも、灯里はクスッと笑みを零す。足取りは軽く、スマホを鞄に入れたまま、取り出そうとはしない。
今はもう、過去に縛られたくない。新しい景色に没頭していたい——そんな思いが胸を支えている。
一方、マンションのリビングに戻る。翔はついに下書きメッセージの先頭にカーソルを合わせて、深い溜息をついた。
(心から反省してる。姉さんばかりを優先しすぎて灯里を苦しめた。今こそ、もう一度ちゃんと向き合いたい……)
自分の心を言葉に変える作業が、こんなに難しいとは。だが、灯里のいない空っぽのリビングが、その想いを押し出すように背中を押している。もう、手遅れかもしれない。それでも伝えずにはいられない。
キーボードを打つ音だけが響く中、不意にスマホがバイブレーションを起こす。画面を見ると「姉さん」の文字。翔は一瞬たじろいだが、すぐに画面をスリープさせ、取らずに切ってしまう。
いつもならすぐに出るはずなのに、今はそれさえも苦痛に感じる。姉からの言葉は、何度となく翔を揺さぶり、そして灯里を傷つけてしまった。
今は“姉さん”より、まず灯里に送る言葉を整えなければ。それが翔の正直な気持ちだった。
「……姉さんの話ばかりになってはいけない。それじゃまた同じことの繰り返しだ」
そう呟いて、自分が下書きしていた文章の中から姉関連のワードを可能な限り削る。翔は「ただ、灯里に伝えたい」という思いを軸に文章を推敲し、できるだけストレートに書き直す。
指が震える。何度も書き直した文章が、やっと800字ほどにまとまってきた。その中には自分の非を認め、今後どう向き合いたいのかをきちんと書き込んだ。
時計を見るともう22時を回っていた。翔は大きく息を吸い込み、画面下の「送信」ボタンをタップする。
メッセージは送られた。すぐにLINEが「配信完了」を表示するが、そこからは……やはり“未読”のまま。
翔は無意識に膝を震わせながら、リビングの照明を少し落とす。
その後、数分おきにスマホを確認しては、未読の表示に溜息をつく。部屋をうろうろ歩き回っては再びスマホを見て、画面を消しては、また確認してしまう。
時計の秒針がやけに大きく音を立てるのが聞こえるだけの、静かなリビング。まるで“既読”がつくのを待つための時間が、いつまでも止まらない拷問のようだ。
そのころ、灯里は京町家の玄関を開け、荷物を置いて「ただいま……」と一人呟く。立花と別れたあとも楽しい会話が頭をリフレインし、頬が緩む。
靴を脱ぎ上がり、ようやくポケットからスマホを取り出すと、通知バッジが表示される。「翔:3」とあるのを見て、灯里の心臓が一瞬高鳴る。
しかし、一旦画面を閉じて大きく息をつく。まだ、読む勇気が出ない。せっかく前を向いて歩き始めたのに、またあの感情に引き戻されるのが怖かった。
部屋着に着替え、ロフトへ上がった灯里は、ようやくスマホを解錠して翔のメッセージを開く。
途端に数行ずつ表示される誠実そうな文章。上から読み進むごとに、灯里の胸がぎゅっと苦しくなる。
フラッシュバックのように、江ノ島での幸せなセルフィーや沖縄のサンセットプロポーズ、そして合鍵を置いて出てきた玄関の光景が蘇り、胸が疼く。翔の言葉に嘘はないと感じられてしまう分、揺さぶられる感情が大きかった。
(好きだった気持ち……あのときは本気で、この人と一緒になりたいと思ってたのに)
読むのを途中でやめ、スマホの画面をスリープにする。頭を抱え込み、深呼吸で落ち着こうとするが、心のざわめきは簡単には消えてくれない。
一方、翔はリビングのソファに沈み込んでスマホを睨みつけていた。ついに、メッセージが既読になった。
しかし、その後の返信はない。何度画面を見ても、たった一行の文字すら返ってこない。
水を飲もうとキッチンへ行きかけては戻り、数分おきにスマホを開いては無言で閉じる。時は23時を回った。部屋は暗く、時計の針がまた一周しても、何も変わらない。
京町家のキッチンで水を注ぎながら、灯里はスマホをテーブルに伏せたまま見ようとしない。
あれほど嫌いになったつもりの姉依存な翔だったが、メッセージを読んで彼の真剣さを感じ取ってしまう自分がいる。それでも戻る気にはなれない。もう、自分の人生を前に進めると決めたのだ。
(だけど……やっぱり、全部を捨て去れるほど強くはない)
言葉にならない苦い感情が喉元に引っかかる。京都での新しい生活は充実しているのに、心の奥で翔の存在が疼くのを止められない。
再びマンション。翔は窓辺に立って、スマホを握りしめたまま動けずにいる。既読はついたが、それ以降は無言……。それが彼への答えなのだろうか。
カーテンの隙間から都会の夜景が見えるが、その光はどこか冷たい。部屋の空気が重く、翔は息苦しさを感じながらも、スマホを離せない。
時計の針が23時半を指し示しても、返信はこない。ソファに置かれた指輪の箱が月明かりを受けて鈍く光る。翔はそれを一瞥するが、手を伸ばせずにいる。
次の瞬間、画面には何の変化もなく、通知のバイブも鳴らないまま時間だけが進んでいく。
(灯里……。もう一度だけ、話がしたい。けど、もう遅いのかな)
彼の胸にあるのは、やり場のない焦燥と、打ちひしがれそうな孤独。マンションのリビングは暗く、響くのは時計の針の音だけ。
翔はその暗闇の中で、微動だにせず夜に包まれていく。