第ニ話:再会は懇親会で
― 〈約三年前〉―
夕日のオレンジ色に染まった水道橋駅前。ビルの狭間から漏れる光が、川沿いにある居酒屋の看板を照らしていた。
社会人になってまだ一年目の大川灯里は、スマホのLINE通知を開く。そこには〈Tennis Team ACE内定祝い〉の文字が踊っていた。
「今日がサークルのOB会か……。宮本くんが就職内定したんだっけ」
自分の学生時代が、もう遠い昔のように感じる。テニスサークルには在籍したものの、当時はほぼ幽霊部員状態で、まともに関わったメンバーは限られていた。
――聞くところによると、今日はOBも含めて九人ほど来るという。ほぼ初対面の先輩がいるはずで、少しだけ緊張する。
灯里は腕時計を見て足早に歩き出す。街路の向こうからは、大学のサークルノリがまだ抜け切らないような笑い声が微かに聞こえてきて、胸がほんのりと高揚した。
水道橋駅からほど近いビルの地下にある居酒屋「魚貴族」。奥座敷をのぞくと、テーブル席に既に数人が集まっていた。主役の宮本悠斗は大学四年生で、この春に内定を決めたばかり。その周りには大学の現役生やOB・OGが楽しそうに談笑している。
「おー、灯里、久しぶりじゃん!」
そう声をかけてきたのは、社会人5年目になるOBの吉村。昭和気質で、サークル時代から豪放なタイプとして知られている。
「すみません、ちょっと迷っちゃって……。でも間に合ってよかったです」
「今日の主役は宮本だからな。内定祝い、盛大にやるぞー!」
吉村が威勢よく宣言し、皆で拍手する。そこへ店員がビールのピッチャーやウーロン茶を運んできて、一気に華やかなムードが広がった。
灯里はさっそく席に着くと、ちらりと視線を巡らせる。視線の先には、一人の男性がいた。どこか穏やかな雰囲気で、少し控えめに座っている。
(……あれは庄司先輩、だったかな)
名前は庄司翔。灯里より学年が二つ上で、在籍がかぶったのは彼女が一年生のときのわずか一年。正直、彼と直接話をした記憶はほとんどない。
そんな彼が灯里に気づき、小さく会釈した。灯里も「こんばんは」と笑顔を返す。微妙に手探りの距離感を抱えたまま、乾杯の声が響き渡った。
「よーし、みんなグラスは持ったな? じゃあ、宮本の内定にカンパーイ!」
吉村の掛け声に続き、一斉にグラスが鳴り合う。ごくりと冷たいビールを含むと、灯里の体にじんわりと活気が広がった。
「社会に出たらな、スピンの効いたラフな環境が待ってる。跳ねたり滑ったりで大変だけど、全部リターンして大人になれ!」
「はは、すごいテニスの例えですね」
「私なら“リターンエース”で返しちゃいますよ」
灯里が悪ノリ気味に笑顔で応じると、一瞬周りが「おっ」と驚いた様子になって、すぐに爆笑と拍手が巻き起こった。
「いいじゃん、いいじゃん!全部エース取るってか?頼もしいな!」
「灯里先輩、意外とガッツあるんだよなぁ」
隣に座る宮本が感心したように呟く。灯里は照れくさそうに肩をすくめる。
その様子を見ていた翔は、少し驚いたような表情を浮かべていた。
(こんなに堂々としたタイプだったんだ……)
彼の記憶の中の灯里は、ラケットをうまく持てないビギナー女子のイメージで止まっていた。それが今、社会人になった彼女はしっかりと自己主張をしている。翔の胸に小さな興味が芽生えた。
宴が始まってしばらく、ドリンクバーでお代わりを取りに行こうと席を立った灯里。ちょうど同じタイミングで翔も席を立った。
「すみません、先に……」
「あ、どうぞどうぞ」
カウンターに並んでドリンクを注ぎながら、灯里が少し首をかしげる。
「えーっと……お久しぶりですよね。私、一年生のときに先輩が三年生で、ほとんど絡みなかったと思うんですけど」
「うん。俺も当時そこまで下級生と話す機会がなかったかも。幽霊部員だったって言ってたしね」
翔が笑いかけると、灯里も苦笑する。
「そうなんですよ。週末バイトが忙しくて、あんまり練習も行けなかったから……。私、今日まともにお話しするのって初めてですよね」
「だね。でも実は顔は覚えてた。なんか、ラケットをすごい変な感じで持ってて『あれ?』ってなってた印象が強くて」
「わぁ、それ恥ずかしいやつ! 初心者ってモロバレじゃないですか」
二人はクスクスと笑い合う。さっきまで“ほぼ他人”だった先輩・後輩が、こうして初めての対話を交わしている。どこかぎこちないながらも、互いの距離が急速に縮まるのを感じた。
席に戻ると、宮本がスマホを取り出して「新人戦の珍プレー見てくださいよ」と動画を流し始める。ネットの上を通過したはずのボールが強風で逆戻りしたり、味方同士が衝突したりと、笑いの絶えない映像にみんな釘付け。
灯里も「何これ、奇跡的すぎる」とツボに入って、笑いすぎて息が苦しくなるほど盛り上がる。一方、翔は笑いながらスマホをちらりと確認する。画面には「姉さん」と表示されていたが、すぐにスリープボタンを押して元に戻す。
歓談が続く中、灯里は少し熱くなった体を冷やそうと外へ出た。ビルの地下から地上へ上がると、夜風が気持ちよく頬を撫でてくれる。
「はぁ……こういう集まり、久しぶりだな」
小さく息をついて、商店街を見回すと、ちょうど自販機の前に翔がいた。ペットボトルの飲み物を買おうとしているらしい。
「あ、庄司先輩。外の空気、いいですよね」
「だね。中は盛り上がりすぎて、ちょっと暑いくらい」
翔がペットボトルを二本買い、ひとつを灯里に差し出す。
「よかったらどうぞ。冷たいお茶、好き?」
「ありがとうございます。ちょうど喉が渇いてたんです」
キャップをひねりながら、灯里は今夜の賑やかな光景を思い浮かべる。社会人になってからも、こうして再会できる仲間がいるのはいいものだ。
「先輩、社会人になってもテニスとか続けてるんですか?」
「たまにコート借りてやる程度かな。やっぱり仕事が忙しいとなかなか……」
「私もそうです。だけど、いつか一緒にできたらいいですね。仕事ばっかじゃストレスも溜まるし、ラケット持ってたまには汗かきたい」
灯里はフラットにそう誘う。翔は意外そうに目を瞬かせ、それからすぐに笑顔を返した。
「うん。ぜひ、やろう。絶対楽しいよ」
その言葉に嘘偽りはない。翔の胸には、この後輩ともっと話したい、一緒に何かやってみたいという気持ちがふくらんでいた。
再び店に戻ると、なぜか吉村が「いいか、みんな注目ー!」と声を張り上げる。宮本がニヤニヤしながらスタンバイしているので、灯里は不思議そうに首を傾げた。
「実はな、今日の主役は宮本だけじゃねえんだ。なんと……灯里の誕生日でもある!」
「えっ、ちょっと待って、何で知って……!」
灯里が驚いていると、宮本が小さな花束を差し出す。
「この前、面接でめちゃくちゃ緊張したときに、灯里先輩が『大丈夫、等身大で頑張ろう』って言ってくれたじゃないですか。あれがすごく勇気になって……だから感謝を込めて、誕生日にも何かしたいなと思って」
「そ、そんな……ありがとう。まさか私の誕生日まで覚えてくれてたなんて」
花束を受け取り、灯里の瞳にはうっすら涙が滲む。思いがけないサプライズに、胸がいっぱいになったのだ。
その横顔を見つめる翔は、どきりと心を撃ち抜かれる感覚を覚える。優しさと芯の強さが同居する後輩――なぜか視線を外せなくなっている自分がいた。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、OB会はお開きとなった。店から外へ出ると、夜風が少し肌寒さを運んでくる。九名のメンバーはそれぞれの帰路につこうと、水道橋駅前へ向かって歩き出した。
人波の外れた場所で、灯里は花束を抱えながら「じゃあ私はこっちなので」と手を振る。すると、翔が少し躊躇したあと、意を決したように声をかけた。
「……あの、灯里ちゃん。今度、ふたりでご飯とか行けないかな? 学生のときほぼ話せなかったし、今日いろいろ話してみて楽しかったから……もし嫌じゃなければ」
「嫌なわけないです。私も先輩ともっとお話ししてみたいなって。週末なら予定空いてますよ」
「ほんと?じゃあ場所はまたLINEで決めよう」
互いに微笑み合うと、花束を見つめた灯里の頬がほんのり赤く染まる。翔は思わず胸が高鳴って、小さくガッツポーズを作りそうになるのを必死でこらえた。
灯里は「それじゃ、お疲れさまでした!」と改札へ向かう。終電が近い時間帯、ホームへ続く階段を駆け上がる彼女の姿は弾んで見えた。
終電車のガラス窓に映る自分の姿――その隣には、小さな花束。灯里は心が満たされるような、温かい気持ちを抱えたまま「誕生日最高だな」とつぶやき、そっと微笑む。
一方、改札前に残った翔はスマホを握りしめ、ポンと拳を合わせて小さく「よし!」と声を漏らす。嬉しさが抑えきれないのだ。今日、ようやく一歩を踏み出せた。
街灯が白い光を落とす夜道。背後には水道橋駅を出発する電車がゴォンと音を立てて通り過ぎていく。
灯里の乗った終電が、闇の向こうへ吸い込まれるように遠ざかり、その残響が消えていく中、翔はスマホ画面を見つめたまま微笑んだ。
“ほぼ会話ゼロ”だった先輩と後輩の距離が、一気にゼロになった夜。ここから二人の物語は、始まっていった——。