第十九話: 鴨川の河川敷にて
夜の木屋町通りは、濡れた石畳に町家の灯りが映り、人々の笑い声と提灯のあたたかな光で彩られていた。
その一角にある小さなおばんざい店の暖簾をくぐって出てきた大川灯里は、楽しげに笑いながら店の前で足を止める。隣には京都支社・地域共創チームの同僚、立花恭介の姿があった。
「いやぁ、ほんま美味しかったわ。おあげさんの出汁が最高やったやろ?」
「はい、あんなに上品なのにコクがあるなんて……東京じゃなかなか味わえないかも」
灯里はお腹をさすりながら微笑む。初出社から一週間。立花に誘われての“おばんざいデビュー”だったが、大満足の結果に二人の顔はほころんでいる。
木屋町通を少し南へ下った先にあるコンビニの前。立花がちらりと看板を見上げながら、茶目っ気たっぷりに言う。
「せっかくやし“2次会”は鴨川で缶ビール行きましょか」
「わー、やってみたかったんですよ、鴨川の河川敷で缶ビールとか!」
灯里が目を輝かせる。噂には聞いていたが、実際に京都の人たちが鴨川の河川敷でビール片手にまったりする光景に憧れていたのだ。
店内で缶ビールと柿ピーを買い、レジ袋を下げて歩き出す二人の背中には、夜風に乗った川の匂いが漂ってきている。
先斗町を抜け、灯りが揺れる飲食街を後ろにすると、鴨川の河川敷へと降りる石段が現れる。月が川面に反射し、提灯の光がところどころ照らしている。
川辺に出た瞬間、心地よい涼風が二人を迎えた。立花は右手に缶ビールを提げて「まるで絵はがきみたいですやろ」と笑う。
「ほんとに……東京じゃこんなふうに河川敷でまったり、なかなかできないですから」
「そりゃそうや。ここは京都の特権ですわ」
その言葉に灯里は微笑みながら、石段をゆっくり降りていく。
(こうやって選んだ景色に、自分の笑い声が重なっていく。これが“私の未来図”なのかもしれない)
灯里は心の中でそう呟く。京都に来てまだ一週間だというのに、鴨川の夜風がやけに身体に馴染む気がした。東京での苦しさ、姉の束縛から解放された安堵が、今の彼女を柔らかく包んでくれているようだ。
二人はちょうど腰掛けられる小さな石のベンチを見つけ、そこに並んで腰を下ろす。
河川敷に座り、さっそく缶ビールをプシュっと開ける。立花が軽く右手を上げ、「お疲れさまです!」と声を掛け合う。
「乾杯!」
「かんぱーい!」
ビール缶とビール缶がチンと軽く触れ、夜の川面が微かに揺れる。立花は得意の京都弁を交え、「ほんま、お仕事ご苦労さんどす」とくる。
灯里はくすっと笑って、「そんなにアクセント強いことあります? わざとでしょ?」とからかうと、二人で大爆笑。
ビールを飲みながら見上げると、鴨川のほとりには等間隔に座るカップルがいたり、ギターを弾き語る若者がいたり、街の明かりが水面に映えていたり。まるでスローな夏の夜を切り取ったような風景が広がる。
その若者は、ゆるく首を振りながら、スピッツの「初恋クレイジー」を奏でていた。優しくてどこか切ないメロディが川辺の空気に溶け込み、通りすがりの人々も足を止めて耳を傾けている。
時折、空に丸い月が雲の合間から顔を出し、ふとした瞬間に缶ビールのアルミがその光を反射してキラリと光る。灯里はその光景に浸りながら、小さく鼻歌でその旋律をなぞった。心の奥で、何かがふわりとほどけていく気がした。
ビールも半分ほど減った頃、立花が何気ない口調で尋ねる。
「灯里さん、東京には戻らはらへんの? こっちに来て、結構すんなり溶け込んでるみたいやけど」
「東京……うーん、今は考えてないです。京都でやりたいことが山積みなんですよ。“KAMO100”の新規プロジェクトも形にしたいし……全部実現するまでは帰りません」
灯里は缶を片手に、しっかりとした声音で答える。自分の中で決めた優先順位がある。立花は嬉しそうに笑って、「ほな、わたしも全力で手ぇ貸しますわ」と告げる。
風が少し強くなってきて、灯里の前髪が舞い上がる。思わず手を伸ばした立花が、彼女の前髪をそっと押さえる。
「あ……ごめんなさい。俺、つい……」
「いえ、ありがとうございます」
互いに気まずいような、でもどこかくすぐったいような空気が流れ、二人は微かに笑いあう。
灯里は自分でもどう言葉を選べばいいのかわからず、視線を川辺に落とした。けれどその沈黙を、立花が急かすことなく、そっと隣にいてくれることで包んでくれているのがわかる。
周囲から聞こえる川の音が、小さなBGMのように耳をくすぐる。
――こんなふうに、急がずに寄り添ってくれる人って、意外といないのかもしれない。
そんな思いが灯里の胸にそっと降り積もっていく。まだ確かな言葉にはならないけれど、少しずつ、ほんの少しずつ、彼の優しさに心が寄せられていくのを、彼女自身、どこかで感じていた。
勢いに任せた立花が「酔い覚ましに、あそこの飛び石渡りません?」と提案。鴨川名物の石が川面に並び、中洲へと続いている。缶ビール片手にちょっとした冒険の感覚だ。
灯里は足元を確かめながら、「落ちたら責任取ってくださいよ?」と笑う。立花は「ほな、絶対落ちんといてや!」と大げさに返し、二人とも笑い声が止まらない。
水面に映る夜の街灯が、微かに揺れ、石を渡る足音が水音と溶け合っていく。
飛び石の冒険を無事終えたあと、二人は再び河川敷の道へ戻って歩く。ビル街の夜景が遠くに見え、街灯が照らす対岸の遊歩道を行き交う人影も見える。
立花は欄干に寄りかかり、缶の底を指でコンコンと叩きながら、少し照れたように言う。
「灯里さん、今度またご飯、行きません? “おばんざい”以外にも色々案内したい店があるんです」
「ぜひ! 京都らしい味、もっと知りたいです」
灯里は胸ポケットに名刺を感じながら答える。京都支社という場所で、こうやって同僚と川沿いを歩き、夜景を楽しむ——それ自体が新鮮で特別な体験に思えた。
けれど、それだけじゃない気がしていた。
隣を歩く立花の、穏やかな口調や控えめな距離感。そのすべてが、どこか心の隙間にすっと染み込んでくるようだった。
まだ翔との別れの余韻は、心の奥に残っている。ふとした瞬間に胸が痛むこともある。だから「好き」なんて感情を抱くには、きっとまだ早すぎる。
でも。
それでも、こうして並んで歩いていると、少しだけ安心する。少しだけ笑える。そんな自分に気づいて、灯里は静かに呼吸を整えた。
「……なんか、不思議ですね」
そう呟いた言葉には、自分でも気づかない小さな好意が、たしかに滲んでいた。
河原町方面へ少し歩いてコンビニ前まで戻ってくると、立花が「じゃあ、今日はここで。お疲れさまでした」と別れを告げる。灯里は「はい、お疲れさま」と微笑み返し、ついでにトイレへ向かうため店内へ入る。
トイレから出たあと、手を洗いつつスマホを確認すると、画面には翔からの未読メッセージが浮かんでいた。
翔: 『ごめん、もう一度話がしたい』
一瞬、周囲の雑音が遠のいたように感じる。あの日、合鍵を置いて飛び出した玄関。思い出に刷り込まれた江の島や沖縄の光景がフラッシュバックして、心臓がぎゅっと締め付けられる。
灯里の手が微かに震えたが、結局“既読”をつける前に画面をスリープに戻す。今は、まだ答えを出せない。自分で選んだ“京都”という景色の中で、少しずつ歩みを始めたばかりだから。
(私は……いま、どこを向いてるんだろう)
自問するように携帯をポケットにしまい、店を出る。外に出ると、先ほどまでの高揚感とは違う、冷えた夜風が頬をかすめる。
鴨川の月がまだ川面を照らしているのが、ちらりと見えた。灯里の瞳が一瞬揺れて、それから視線を落とすように足を動かし始める。
遠くから聞こえる雑踏の中、彼女は夜風に吹かれながら、明かりの少ない川沿いを再び歩き始めるのだった。