第十八話: 京都オフィス初出社
朝の陽射しがまだ柔らかい時間帯。築年数のわりに綺麗にリノベーションされた町家の前で、大川灯里は立ち止まり、胸ポケットをそっと叩く。そこに入っているのは昨日受け取ったばかりの新名刺の箱。
京都へ越してきて五日目。観光客で賑わう中心地から少し外れたこの一角が、自分の新しい職場になるのだ。
灯里は胸の奥がどきどきと弾むのを感じながら、静かに深呼吸をする。
(ここからが私の新しい景色……自分の足で歩き始めるんだ)
そう思うと、不思議なほど勇気が湧いてくる。バッグを肩に掛け直し、町家の引き戸へと足を運んだ。
玄関の引き戸を開けると、そこは昔ながらの「土間」を生かした受付スペースになっていた。受付カウンターの後ろには、控えめに和風の暖簾がかかっている。
姿勢の良い女性スタッフがにこやかに振り向く。
「おはようさんどす。大川さんやね? 今日は初出社やと聞いてますえ」
「はい、そうです。お世話になります。大川灯里と申します」
京都訛りの優しい響きが耳に心地よい。東京のオフィスビルの受付とはまるで違う、あたたかい空気に包まれて、灯里は自然と笑みをこぼす。
スタッフに案内され、長い土間の奥へと進む。梁の残る天井、畳敷きの小部屋、磨き上げられた板張りの床――見慣れない要素がすべて新鮮で、胸が高鳴る。
心の中で、灯里はそっと自分に言い聞かせた。
(“私の景色”をここで描こう。姉の影に隠れることなく、自分の足で進むために。京都の町家オフィスが、その第一歩になる)
五日前、引っ越しを終えたばかりなのに、まるでずっと前からここで働いていたような不思議な感覚もある。
土間を抜けるとオープンスペースがあり、そこがメインの執務エリアになっている。パソコンやデスクが並び、照明は落ち着いた色味で、古民家らしさとITオフィスらしさが程よくミックスしている。
奥のデスクに座っていた40代くらいの男性が立ち上がり、にこやかに手を差し出した。
「おお、あんたが大川さんやな? わしはここのチームリーダー、杉本ゆうもんです。よう来はった。困ったら全部、うちの“立花”に聞いたらええわ。——ただし……」
杉本はニヤリと笑い、すぐ隣のデスクにいた青年を指差す。
「イケメンやさかい、好きにならんといてや?」
「ちょ……杉本さん、ひどいですよ」
青年――立花恭介が照れくさそうに手を挙げる。その柔らかな笑顔に、灯里は思わず声を立てて笑いそうになる。
杉本が「ほれ、名刺渡したって」と立花を促すと、立花は小さな紙箱を手にして近づいてくる。
「これ、大川さんの新名刺。よう働いてくださいね」
「ありがとうございます……!」
箱には「京都支社 地域共創チーム 大川灯里」とラベルが貼られていた。肩の力がすっと抜けるような安堵と同時に、なんだかワクワクする思いが湧き上がる。東京とは違う職場の雰囲気に、自然と笑みがこぼれた。
簡単に挨拶を済ませた後、立花が「こっちがラウンジスペースです」と案内してくれた。畳敷きの一角にはソファやテーブルが置かれ、コーヒーマシンも備えられている。
立花はコーヒーを淹れながら、結構な京都弁で喋る。
「大川さん、東京から来はったんやろ? うちらの京都弁がキツう感じるかもしれまへんな」
「いえいえ、そんなにアクセント強いことありますか?(笑)」
二人で声を立てて笑い合う。東京のビジネス街とは違う、ゆるやかな空気がここにはある。灯里は心がほどけていくような感覚を味わっていた。
コーヒーを飲み終えると、立花が「ここのオフィスの面白いとこ、いろいろ見せますわ」と社内を案内してくれた。
畳会議室は靴を脱いで上がるスタイルで、梁を生かした天井にはプロジェクターが吊るされている。そこでオンライン会議もできるとか。
梁ブースと呼ばれるスペースには、古い梁をそのまま残した状態で仕切られており、ちょっと個室感のあるソファ席がある。
そして中庭ポッドと呼ばれる小さな和風庭園を囲むようにブースが並んでいる場所もあって、立花いわく「冬は底冷えしはるけど、その代わり春夏秋冬がここで味わえますえ」と自慢げに話す。
どれも東京のオフィスにはなかった風情で、灯里は目を輝かせて写真を撮りたくなるほどだった。
再び執務エリアに戻り、立花のデスク脇へ。そこには灯里が事前に作った“KAMO 100 IDEAS”という企画ノートがある。
「せっかくなんでまとめた企画アイデアをお見せします」と灯里がPCを差し出すと、立花は興味津々にファイルを開く。
「へえ、京都鴨川周辺でこんなプロジェクトを……。おもろいですやん! これ、一緒に走りましょ」
立花の声が弾んで、周囲のスタッフもちらっとこちらを見やる。灯里は「まだラフスケッチですけど」と謙遜しつつも、手応えを感じていた。東京本社時代には出せなかった発想が、ここでは歓迎されるらしい。その事実が嬉しかった。
昼休み、立花の提案で錦市場へ足を伸ばす。観光客で賑わう通りに活気ある掛け声が響き、灯里はあちこちの店先を覗きながら興味津々。
おはぎ専門店で試食をさせてもらい、「おいしい……これが“はんなり”って感じなんですか?」と灯里が笑うと、立花は「そうそう、品があって華やかで、でも押し付けがましくない感じが“はんなり”やと思いますわ」とまた京都弁で解説してくれる。
東京での昼休みはせいぜいチェーン店のランチ程度だったのを思うと、なんという解放感かと灯里は心が弾んだ。
午後、オフィスに戻ると灯里のパソコンに「京都府案件キックオフミーティング招待メール」が届いていた。立花が見つけて「初日から飛ばしてはりますな、杉本さん」と苦笑いする。
灯里は「でも楽しみです。はやく一人前にならないと」と心を引き締める。新プロジェクトは地域や行政とも絡むらしく、責任も大きいがやりがいもある。
定時が近づき、ひとまず書類整理が終わったころ、立花が「休憩します?」と声をかけてくれる。屋上テラスへ行くと、夕方の光が東山の稜線をシルエットにしている。
立花は自販機で買った缶コーヒーを差し出し、照れくさそうに笑う。
「大川さん、仕事落ち着いたら今度ご飯行きません? ‘おばんざい’がめちゃ旨い店、知ってるんです」
「わあ、ぜひ! 京都らしい味、教えてくださいね」
灯里は胸ポケットから名刺を取り出し、逆光を受けながらそれを掲げてみせる。
「私、ここで第二章を始めるって決めたんです。京都に来てよかった……」
「ほな、ええ出発点やないですか。応援してまっせ」
風が吹いて、名刺の角と灯里の髪を揺らす。オレンジ色に染まる空を見上げ、心のどこかで強い確信を持つ。もう姉の影に怯える必要はない。ここは、自分で選んだフィールドなのだ。
退勤後、灯里は二手に分かれた立花と別れ、一人自転車を漕いで町家の新居へと向かう。鴨川沿いの土手道は夕映えが強く、川面がキラキラと輝いている。
自転車の前かごには名刺の箱。揺れるたびにカタカタと音がするが、それがまるで「新しいリズム」を刻んでいるようだ。
風が頬を撫でる。遠くに見える比叡山の稜線が、紫がかった空を背景にすっと伸びている。東京のビル街では見えなかった景色が、いまここに広がっている。
(京都弁って、こんなにやわらかくてあったかいんだ。みんなが“おこしやす”って言ってくれて……これが私の新しい空気になる)
灯里は心の中で微笑みながらペダルを踏む。帰宅後にはまた新居での荷ほどきが待っているが、不思議と苦にならない。自分で選んだ場所で、自分らしい生き方を始める。それが、こんなにも心を解き放ってくれるものなのだと、改めて感じていた。