第十七話:空回りする姉心
旧式のテレビが、薄暗い和室にちらちらとした光を投げかけている。障子越しに聞こえるのは、遠くの交通音と、時折の虫の声。
庄司美月はちゃぶ台の上にスマホを伏せたまま、じっと画面を見つめていた。スマホにはいつものようにメッセージ通知が来ているが、その中の「翔」のトークルームは“未読1”で止まったまま。
まるで生き物が呼吸を止めているような静寂の中、美月の胸にあるのは、得体の知れない不安と焦り。
(どうして既読つかないの……いつもなら、すぐ返事してくれたのに)
姉としての心配が、じわじわと神経を侵食していた。
正座の姿勢で、ちゃぶ台の上に乗せたスマホをスワイプして、トーク履歴を上へとスクロールすると、灯里や両親、式場担当者へ送った大量のPDFや長文アドバイスがずらりと並んでいる。料理プランの提案や衣装のレンタル先リスト、はたまた結婚式当日のタイムラインなど、どこか仕事のマニュアルのようにも見えるほどの情報量だ。
今まではこうしたアドバイスに翔がすんなり従ってくれた。それが当たり前だったし、弟の幸せを守るために必要だと思っていた。
「……どうして今になって、みんなが私を避けるようにするの?」
思わず声に出して自問するが、答えはない。スマホの画面には「庄司翔 未読1」の文字が冷たく浮かんでいた。
(弟だけは絶対に間違いをさせたくない。私が守ってきたんだから……)
美月は心の中でそう呟き、まるで己の使命を再確認するように背筋を伸ばす。両親を早くに亡くし、弟と二人で必死に暮らしてきたあの頃から続いている“過保護”とも言える強い思い。それこそが彼女の原点だった。
失敗なんてさせない――離婚という痛みを知っている美月だからこそ、弟には幸せを掴んでほしいのだ。
一息ついて、立ち上がった美月は小さな廊下を通って仏壇の前に座る。両親の遺影に向かって手を合わせながらも、ちらりとスマホを盗み見してしまう自分がいる。
相変わらず「翔」のトークには既読がついていない。まるで弟が遠い場所へ行ってしまったような、そんな寂しさを噛み締める中で、彼女は無意識に左手の薬指――かつて指輪をしていた跡を撫でていた。
(あのとき、私がもっとしっかりしていれば、離婚なんてせずに済んだのに……。弟には、私と同じ痛みを絶対に味わわせたくないの)
両親の写真は何も答えてはくれないが、その微笑んでいるようにも見える遺影が、妙に胸を締めつける。
ふと湯沸かしポットがシュウシュウと音を立て始める。美月は台所に戻り、ポットの蓋を開けて火を止める。しかしスマホは鳴らない。
この“無音”がたまらなく怖い。いつもなら翔から「姉さん、ありがとう」や「助かるよ」などの返事があった。それなのに、今は真っ暗闇に閉ざされているようだ。
「……私が行かなきゃ、明日の試食会だって料理もドレスも決まらないじゃない」
誰にともなく呟く声が震えていることに、美月自身が気づいている。だが、これまでのやり方を変える気にはなれない。空回りだと自覚しながらも、止められないのだ。
視線がふと、棚の奥にある古い封筒に向かう。中には離婚届の控えや手続き関連の書類がしまわれている。
頭の中で鮮やかに蘇るのは、役所の窓口で書類を提出したときの冷ややかな空気。結婚指輪を外す瞬間の痛み。そして、親族や知人から冷たく向けられた視線……。
あのときの孤独感や自責の念が、美月の心を蝕む。一度経験した離婚の苦しみを、弟にだけは味わわせたくない――そんな思いがさらに空回りを加速させている。
和室からリビングに移動すると、壁掛けのカレンダーに赤字で大きく「試食会 11:00(美月同席)」と丸印が付けられている。これを見て思わずスマホを開き、新たにLINEの草稿を書き出す。
美月→翔
「大丈夫? 明日の試食会何時に出発する? 車で迎えに行こうか?」
しかし、書いた文章を送信する勇気が出ない。既読がつかないまま、また無視されるのが怖い。送信ボタンに指をかけたまま、結局「下書き保存」して画面を閉じてしまう。
「どうして……なんで返事くれないの、翔……?」
リビングの天井に視線をやりながら、か細い声で問いかける。だが部屋を満たすのは静寂だけだ。
夜も更けてきたころ、ようやくスマホが点灯した。画面に「翔」からの通知が表示され、美月は反射的に姿勢を正してLINEを開く。
そこには初めて見る長文メッセージが書かれていた。
翔→美月
「ごめん、明日の試食会は行きたくない。姉さんの関与が多すぎてつらい。少し考えさせてほしい」
美月は指を震わせながら読み返す。頭の中で何かが崩れるような衝撃が走った。
「嘘……翔が、私を拒絶するなんて」
声にならない悲鳴が喉元に詰まる。たった数行の文面だが、その言葉に込められた“拒否”が、ダイレクトに胸を突き刺す。
ゆっくりとスマホを握りしめたまま、美月は和室の畳に崩れ落ちる。まるで足の力が抜けたように腰をつき、両手でスマホを抱えるように持ち直す。
声を出さず泣こうとするが、嗚咽がこぼれて止まらない。両親が亡くなり、離婚を経て、弟だけは命がけで守ってきたはずなのに。弟にすら拒まれた今、自分は一体誰を守っているのか。
心の中で繰り返すモノローグが痛々しい。
(翔まで私から遠ざかっていく……。私はずっと、弟を守ってきたのに……誰も私のそばにはいないの?)
スマホの画面が涙で歪む。モノクロのような世界の中、姉としてのプライドと愛情が混ざり合い、ぐちゃぐちゃに溶けていく。
やがて喉を絞るように泣き続けたあと、美月は重い体を引きずり縁側へ出る。夜気が肌にしみ、目が腫れて視界が少し霞んでいる。
スマホを胸に抱え、左手の薬指の跡を強く押さえる。かつての指輪を外したそこには、まだ薄っすらと痕が残っている。結局、失ったものは指輪だけじゃなかった。
「私が守らなくちゃ……私しか……」
声にならない声が喉の奥で消え、言葉が途切れる。夜の闇が深く広がり、遠くから虫の音だけが聞こえる。
畳に散らばったメモやプリントアウトした式場資料が、そのまま乱雑に置かれている仏間の光景。そこに置かれた仏壇にも、無数の長文LINEにも、もう何も語りかける力はない。
けれど、美月の頭の中では、まだ「弟を守らなきゃ」という呪縛が脈打っている。誰よりも弟の幸せを願ってきたはずなのに、その弟から「遠ざかってほしい」と言われた今、己の存在意義さえ揺らいでしまっていた。
――まるで、すべてが行き場を失い、いっそう深い夜の闇へと沈んでいくかのように。