第十六話:抜け殻のリビングルーム
マンションのエントランスを抜けて、自動ドアが閉まる音がやけに大きく反響する。
庄司翔は疲れ果てた足取りでエレベーターに乗り込み、自分の部屋のある階へ向かった。夜の湿った空気がシャツにまとわりつき、気持ちが重くなる。
鍵を差し込んでドアを開けると、暗い廊下が口を開けて待ち受けていた。いつもなら灯里が先に帰っていて、玄関の照明くらいは点けてくれていたはずなのに、今はスリッパも見当たらない。
そっと靴を脱いで薄暗い廊下を奥へ進むと、どこか湿度のない、乾いた空気が漂っていることに気づく。まるで誰も住んでいない空き部屋のようだ。
「……ただいま」
自分で声を発してみても、その声は虚空に吸い込まれて消えていく。返事は当然ない。灯里はもう、ここにはいないのだ。
リビングのドアを開けると、天井の照明は消えたまま。しかしテーブルの上に置かれた書類の束が、外から差し込む微かな街灯の光を受けてぼんやりと浮かび上がっている。
近づいてみると、その中央には合鍵と式の打ち合わせ資料が無造作に置かれていた。隣には、灯里がまとめていた式場のパンフレットやプラン表が重なり合っている。
翔は足を止め、暗い部屋の中心で立ちすくむ。灯里の姿はない。彼女の気配すら感じない部屋が、こんなにも空虚なものかと、今さら思い知らされる。
合鍵を手に取ってみると、微かに灯里が愛用していた香水の残り香がするような気がする。
部屋の隅を見ると、彼女が飲んでいた紅茶用のマグカップが干上がったままテーブルの端に残されていた。おそらく、家を出る直前に飲んでいたのだろう。
魂が抜けたような、言いようのない喪失感が胸を締めつける。手の平にある合鍵がずっしり重く感じられ、「どうしてこんなことになったんだろう」と、呆然とするしかない自分に情けなくなる。
居間の灯を点ける気力もなく、翔は寝室へ向かった。ドアを開けると、ここもまた部屋の奥がひっそりと暗い。
クローゼットの扉をゆっくり開けると、ハンガーバーの半分がほぼ空になっている。かつては色とりどりのワンピースやブラウスがかかっていた場所だ。残っているのは、昔、部屋着として使っていたようなパーカーや古いTシャツだけ。
しばらく沈黙の中でクローゼットを見つめ、翔はひとりごちる。
「……このあたり、一緒に新宿のルミネで選んだ服がかかってたはずだよな」
何度もデートで買い物に行き、嬉しそうに試着をしていた灯里の姿が脳裏をよぎる。だが今、その服たちはもうここにはない。寂しげに揺れる空のハンガーが壁に影を伸ばしている。
ふと目を閉じると、記憶の中で鮮明に蘇るシーンがいくつも浮かび上がる。
江ノ島で告白し合ったときのセルフィー、沖縄の夕暮れでプロポーズし、寄り添って見たサンセット。笑顔あふれる灯里との思い出が、色鮮やかなフレームとしていくつも連なり、一瞬キラキラと輝く。
しかし次の瞬間、「試食会案内PDF」「式場のプラン表」「美月からの長文LINE」が一気に重なりあい、鮮やかだったシーンの彩度が徐々に落ち、最後にはモノクロームへフェードアウトしてしまう。
何も考えられないまま、リビングへ戻ってソファに腰を下ろす。ようやく照明を点ける気になったが、その光が広いリビングを照らすと、余計に部屋が広く感じられるばかりだ。
スマホのバイブレーションがポケットで震え、画面に「姉さん」の名が浮かんでいるのを見たが、翔は指を伸ばしかけてやめる。そのまま画面スリープさせ、ポケットに戻した。
ふとLINEを開いてみると、灯里とのトークルームには最後の吹き出しが未読になっている。「考える時間が欲しい」という言葉で終わっているのが目に入る。
「……今、何を考えてるの? もう、戻ってこないのかな」
声に出しても届くはずもなく、むなしい静寂だけが耳に残る。
視線を落とした先に茶封筒が一つあり、中を開けると灯里が現像してくれた写真が数枚入っていた。そこには江ノ島の橋の上で満面の笑みを浮かべる灯里の姿が写っている。カメラ目線というより、翔を見つめて笑っているような自然な表情だ。
その写真を見た途端、喉が詰まるような感覚と同時に、目頭に涙が滲み始める。姉さんに何を言われても、この笑顔だけは守りたいと思ったはずなのに……。
握りしめた茶封筒がくしゃりと音を立て、写真が小さく波打った。
立ち上がってキッチンへ向かう途中、ポケットのスマホがブルッと震えた。画面には〈試食会リマインダー 明日 11:00〉と大きく表示された通知――姉・美月が設定した“最終打ち合わせ”の予定だ。
翔はその画面をじっと見つめ、ため息とともに指でスワイプして通知を消すと、スマホをテーブルに放り出した。
(……こんな状態で試食会なんて、意味があるのか)
胃がきりきり痛むような感覚に襲われ、思わずシンクにもたれかかる。明日は姉が待ち構えている。だがそこに、灯里は来るはずがない。
リビングに戻ったころには、時刻はもう22時を回っていた。部屋の照明を落とし、ソファの横に腰かける。暗闇の中で、翔はポケットから指輪を取り出し、掌の上で転がすように見つめる。
(姉さんを裏切れない俺が、灯里を守れるわけがなかった……)
頭の中でそんな独白がこだまする。自分が、いつまでも姉の言葉を最優先にしていたことが、結局は灯里を追い詰めたのだ。だが、いまさら気づいても遅い。
指輪は街灯のわずかな明かりを受けて淡く光り、その光がやけに悲しい色を帯びているように感じられた。
深夜2時。眠れないまま、バルコニーへ出て夜風に身を任せる。遠くに見える街のネオンが歪んで見えるのは、涙のせいだろうか。
手すりに先ほどの合鍵と指輪を並べ、月明かりに照らしてみる。姉さんからLINEが立て続けに入ってくるが、もはや開く気力もない。
スマホを操作して、新規メッセージ欄で“灯里”の名前を呼び出す。メッセージを書きかけては消し、書きかけては消す。結局、行き着くのは一行だけ。
「もう一度、俺自身で話したい。会えるかな」
だが、指が送信ボタンにかかると止まってしまう。送ったところで、彼女が応じてくれるのか、もう戻る場所がないのではないかという不安が胸を締めつける。
意を決してメッセージを下書き保存し、画面を閉じる。バルコニーのガラス扉越しに見えるリビングは、家財こそ残っているが魂は抜け落ちたように空虚だった。
そっと目を閉じると、灯里の笑顔と、姉の声が頭の中でせめぎ合い、やがて何もかも無音へと溶けていく。
翔はバルコニーに立ち尽くし、ため息がいくつも零れては止まらない。手すりの上で転がる合鍵が、月光を受けて白く光っていた。