第十五話: 京町家へ
三か月——まるで瞬きするほどの短い時間に感じるが、その間に大川灯里の人生は大きく動いた。東京本社での引き継ぎと京都支社への異動が正式に決まり、引っ越し先が固まるまでの準備期間があっという間に過ぎたのだ。
出町柳駅の改札を出て、ふと見上げれば比叡山が初夏の陽光を受けて淡く輪郭を描いている。観光客らしき人が行き交うなか、灯里はキャリーケースを片手に小さく息をついた。
「……ついに来ちゃったな、京都」
駅前ロータリーを横切りながら、心の中で「本当にここで大丈夫なんだよね」と自問する自分がいる。だが、同時に「ここで始める」というワクワクが胸に広がっているのも事実。
深呼吸して前を向くと、鴨川の方へと続く道が開けていた。
駅から徒歩数分、鴨川と高野川が合流する三角州の通称“鴨川デルタ”に出る。ここは緑豊かな河川敷で、休日には学生やカップルがのんびり過ごす姿がよく見られるスポットだ。
約束の時間にはまだ余裕があるが、既に二人の姿が見えた。会社総務の伴野と、京都支社で同じチームに配属される予定の立花恭介だ。立花は柔らかい笑みを浮かべて手を振る。
「灯里さん、ですよね? こんにちは。待ってましたよ」
「お疲れさまー。今日はいよいよ物件チェックの日ですね」
伴野は総務部のリロケーション担当で、東京から灯里の住む場所をサポートしてくれる立場。にこやかに頭を下げると、タブレット端末を取り出して画面を見せる。
「社宅扱いの推奨物件として仮押さえしているんです。今日は現地で最終チェックをしていただいて、問題なければサインで契約完了になります」
鴨川の水面がキラキラと光っている。灯里は一瞬だけ顔を上げ、その眩しさに目を細めた。
(ここから私の景色を描くの。東京のあの部屋を出てきて、自分の人生をもう一度、取り戻したい。私が主語のままで——)
立花と伴野に続いて歩き出しながら、灯里は心の中で決意を新たにする。「私は私の未来を選ぶんだ」という思いが、三か月前に下した大きな決断を支えてきた。
寺町通から少し東へ入った細い路地に、一軒の町家が建っていた。見た目は築年数を感じさせるが、玄関格子や軒先の佇まいには風情がある。
伴野がタブレットを見ながら説明を始める。
「築90年の京町家をリノベーションした物件ですね。耐震補強は既に完了していて、内装は北欧ミックスを取り入れたそうです。社宅扱いなので家賃は東京の7割ほど、光熱費も会社負担の部分があるのでかなりお得かと」
灯里は外観を見上げ、「へえ……」と息を漏らす。こんな味わいのある家に住めるなんて想像していなかったので、戸惑いと同時に興味もくすぐられる。軒先には小さな木の札があり、番地と大家さんの名前が小さく刻まれている。
三人で玄関を開けると、涼やかな空気が流れ込む。玄関のタタキには古い格子窓から射す光が落ちていて、奥の白壁を照らしている。
リビングスペースは壁が白く塗装され、梁だけが濃い茶色でむき出しになっていて、古さと新しさが絶妙なコントラストを成している。
「わ……思ったより広い。でも一人暮らしには大きすぎるかな」
灯里は梁を見上げながら独りごちる。迷いつつも、その古さと新しさの混ざり合いに心惹かれているのは自分でもわかっていた。
伴野が続けてキッチンを案内し、「IHコンロで、給湯も新しいシステムになってます。お風呂もユニットバスなんで掃除が楽ですよ」と説明。ここが本当に築90年とは思えないほど快適そうだ。
内覧を進めるうち、町家の随所にリノベの工夫が感じられる。窓からは鴨川がほんの少し見える位置にあり、Wi-Fi完備のルーターが壁に据え付けられている。
立花恭介が笑みを浮かべて補足説明を加える。
「実は前の入居者さん、UXデザイナーで、壁一面にホワイトボードシートを貼ったんですよ。普通なら剥がすんですけど、大家さんが『面白いから残そう』って言い出して、それが今もそのままです」
奥の壁には確かに大きな白いボードが貼られていて、クリエイティブな発想を刺激する空間になっている。灯里はそっと手を触れ、「これならアイデアをどんどん書き出せるかも」と小さく笑う。
建物の奥には小さな中庭があり、その手前には畳コーナーが設けられている。畳に座ってみると、すぐ隣の壁に残されたホワイトボードがちらりと見える。
灯里は畳の感触を確かめるように手のひらを広げ、「ここなら未来図を描けるかも」とつぶやく。
立花も相槌を打つ。
「会社としてもここを押してます。照明やインテリアが自由にカスタマイズできるから、灯里さんがアイデアをまとめたりするのにちょうどいいでしょうね」
灯里はその言葉に頷きながら、「もしかしてここが自分の新しいスタート地点になるのかな」と胸を高鳴らせる。
畳コーナーに簡易テーブルを設置し、伴野がタブレットを開く。京都支社名義の社宅契約書が画面に表示され、チェック欄は全部で3か所だけ。
灯里は万年筆を手に取り、一瞬だけ動きを止める。浮かんでくるのは指輪や、かつての思い出。ここにサインをすれば、事実上、もう東京へは戻らないだろう。
迷いを振り払い、タブレットに向かって書名を入力する。
「……これで、大丈夫です」
一音一音噛み締めるように言い終わると、伴野が微笑んで「お疲れさまです」とタブレットを回収した。
契約が完了し、灯里は古い木札に住所が刻まれた鍵を受け取る。路地へ出ると、築90年の町家を改めて見上げ、「よろしくね」と小さく会釈した。
社宅利用という形ではあるが、ここが自分の家になる。立花と伴野は「早ければ来週でも入居可能ですよ」と背中を押してくれる。
握り締めたキーは金属音でなく、木札がカタリと揺れている。その感触が新鮮で、灯里の胸に小さな喜びがこみ上げた。
昼食を挟んだ後、再び町家に戻った灯里は自分だけの時間をもらい、ロフトへ上がってみる。大きな空間ではないが、窓からは北山方面の空が見え、心地よい風が吹き抜ける。
荷物はまだ少ないが、ここにはクリエイティブなスペースを作ろうと決めた。
奥のホワイトボードには大きく「KAMO 100 IDEAS」と記し、その下に「1. 地域×ITアイデア会議」と書き込む。京都支社の地域共創プロジェクトはまだ走り出したばかりで、灯里が入ることで何かが動き出すはずだ。
さらに窓辺に藍染のストールをかけて、青い光が差し込む景色を楽しむ。かつて留学先で買ったお気に入りの一枚だ。
全ての手続きを終え、町家を後にした灯里は、鴨川の土手を歩いていた。西の空が夕陽に染まり、川面にオレンジの反射が揺れている。
新居の鍵を握った右手を軽く持ち上げて見つめると、以前していた指輪の跡が、微かに残っているのに気づく。もうそれは必要ない。これからは自分だけの景色を作るのだ。
土手に腰を下ろし、改めてその鍵をしっかりと握りしめる。
「今日の景色が、私のスタート」
朱色に染まる空を見上げ、瓦屋根の並ぶ京の街をカメラがゆっくりと俯瞰していくように想像すると、胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。そして、次へと向かう力も。
灯里はそっと笑みを浮かべ、立ち上がって川沿いを歩き出す。夕日が地平線へ沈むころには、背筋を伸ばして新たな一歩を踏み出していた。