第十四話: 異動申請ボタン
真昼の陽射しが柔らかくカーテンを透かす頃、大川灯里はゆっくりと部屋のドアを開けた。
ここは灯里が高校卒業まで過ごしていた実家の部屋だ。壁紙こそ少し色褪せたものの、レースのカーテン越しに入る初夏の風は、昔と変わらない清涼感を運んでいる。部屋の隅には学生時代の教科書やノートが入った段ボールが積まれ、その上には高校時代に貼っていた世界地図のポスターがまだ残っていた。
灯里は昨日までの生活とはまるで別世界に来たような感覚を覚えながら、持参したスーツケースをベッド脇に置く。そして静かに蓋を開き、中からノートPCを取り出した。
(……まさかこんな形で実家に戻ってくるなんてね)
自嘲気味に微笑み、枕元のコンセントにACアダプタを差し込む。スーツケースの中には最低限の衣類とノートPCだけ。まだ先のことは何も決まっていないが、とりあえず「この家でしばらく過ごす」という現実だけがそこにある。
起動する会社支給のPCが、低いファンの回転音を立てながら立ち上がる。灯里は画面が映し出されるまでの数秒間、なんとなく目を伏せて息を整えた。
デスクトップには社内ポータルへのショートカットアイコン。ダブルクリックしてブラウザを開くと、通知欄に「空席ポスト一覧」というポップアップが新着表示される。
そこをクリックすると、各支社・部署の空きポジションやプロジェクトの募集要項がリストアップされていた。
その中に「勤務地:京都支社 地域共創チーム」という文字が目に飛び込んでくる。灯里は思わず動きを止め、息を呑んだ。
(……京都支社。新規事業って聞いたことがあったけど、まだ部署として動いてたんだ)
こめかみがズキリと痛むような感覚。だが、同時に心のどこかがざわつき始める。
静かな部屋の中、灯里はふいに高校時代の思い出を断片的に思い出した。留学を決意したとき、家族から強い反対を受けても自分の意思を貫いたあの頃。
壁に残る世界地図を見上げながら、そっと瞼を下ろす。
(自分の意思で選んだ景色は、いつだって私を前に進めてくれた。今度もそうありたい。……姉さんに飲み込まれた人生を、ここで終わらせたくない)
口には出さないが、胸の奥で静かに再宣言する。”私”を取り戻すための一歩を、もう一度踏み出そうと。
会社のPCを軽くチェックしたあと、灯里はダイニングに下りてみる。母がちょうどアイスコーヒーを用意してくれていた。
ダイニングテーブル越しに母と向かい合う。父は仕事で外出中らしく不在だったが、母は柔らかい笑顔を向けてくる。
「お父さんもね、あなたが京都に行くなら応援するって言ってるわ。京都ならうちからも遠くないし、もし何かあったらすぐ帰ってきていいんだから」
「うん……。でも、まだ何もはっきり決めたわけじゃないの」
実家へ戻ってわずか一日。しかも婚約破棄をほのめかす形で家を出てきたばかりだ。母の言葉にうなずきながらも、まだ迷いの色が完全に消えたわけではない。
けれど母の眼差しは温かく、決して「婚約破棄なんて」と責めることはしない。灯里はそんな両親の理解がありがたく、同時に申し訳なさを感じていた。
家の居心地が良すぎると逆に頭が整理できなくなる気がして、灯里は外に出ることにした。実家から歩いて数分の小さなカフェテラスへ向かう。
テーブル席に腰を下ろし、注文したアイスティーを一口飲んでから、再びPCを開く。京都支社の求人詳細を改めて読み込むと、そこには「新規事業に興味のある方歓迎」「地方創生プロジェクトの経験者優遇」「最短1か月後から着任可」「社宅空き有」といった要項が並んでいる。
胸の奥でトクン、トクンと鼓動が強まるのを感じる。社内でここまで大きなプロジェクトに携わるチャンスはそう多くない。
「もし……私が、こっちに行ったら」
そっと口に出してみた自分の声は、期待と不安が入り混じっていた。
PC画面の求人情報をスクロールするたび、灯里の脳裏にこれまでの“選択”がフラッシュのように駆け抜ける。
留学を決断したときの家族との衝突。そして江ノ島の夕陽、沖縄でのプロポーズ、さらに姉へ直談判したときの苦い思い出……。最後に思い浮かぶのは、合鍵をテーブルに置いて出ていった、あの玄関の光景。
切り取られた記憶のピースが一瞬で脳内を駆け抜けると、PC画面には「京都支社 新規案件概要資料」というファイル名がサムネイル表示されている。
まるで「ここから新しい世界が見えるんじゃない?」と問いかけられているようだ。
気づけば外の空はオレンジ色に染まり、日が傾き始めている。灯里はカーソルを「異動申請」のボタンへと重ねてみるが、指が勝手に止まってしまう。
一度クリックしかけては手を離し、また二度目、三度目も、同じ逡巡の繰り返し。
そのとき、スマホに着信音が鳴る。画面に表示されるのは「翔」からのメッセージ――「ごめん。少し話せないかな?」。
(……また、姉さんの代わりに何かを言うつもりなの? それとも、本当に謝りたいだけ?)
いったいどんな言葉を交わしたところで、自分たちの状況は変わるのか。迷った末、灯里は画面を伏せて着信を無視する。もうすでに、答えは出ている。
手のひらの中で震え続けるスマホに向けて、そっと目を閉じたまま息を吐く。カフェのBGMがやけに遠く感じられた。
カフェを出て、家の近くを流れる川沿いに向かう。少しだけ遠回りをして、夕焼けに染まる河川敷へ。人気もまばらなベンチに腰を下ろし、灯里はスマホとPCをカバンに入れたまま空を見上げる。
川面に映るオレンジの光がきらきら揺らめき、風が髪をなびかせる。
「私は……どこからやり直したいんだろう。姉さんとの関係を見直す? それとも……新しい場所で、一から?」
自問自答に答えはまだはっきりしない。けれど、京都支社の「地域共創チーム」の文字を思い出すと、心が少しだけ弾むような気がする。
灯里はスマホの画面を開き、京都支社の社屋写真を見つめた。まったく未知の場所。けれど、だからこそ見えてくる何かがあるかもしれない。
日がとっぷり暮れたころ、再び自宅へ戻った灯里は部屋のドアを開ける前にふと世界地図ポスターへ目をやった。高校のときは、いつか世界を飛び回る仕事をしたいと心から思っていた。留学もその一歩だったが、いつの間にか結婚のことに追われて、自分の選択を見失いかけていた。
PCを立ち上げると、再び社内ポータルが表示される。すぐに「転居・異動申請」のフォームを開き、「理由:自己成長と新規事業への貢献」「希望勤務地:京都支社」と入力。
最後の「送信」ボタンを前にして、一拍息を止める。
「……行こう、京都」
自分に言い聞かせるような声の響き。呼吸を整え、マウスをぎゅっと握りしめた。
クリック一つ――しかし灯里にはそれが生き方を変える大きなボタンに感じられた。
画面が一瞬読み込み中のアイコンを回し、続いて「申請を受け付けました」という緑色のチェックマークが表示される。ほとんど同時にOutlookの画面下部にポップアップが出て、「京都支社人事:自動返信」が届く。
「面談日程につきましては、追ってご連絡いたします……」
肩の力が抜け、灯里は思わず微笑んだ。なぜか胸の奥がすうっと軽くなった気がする。
パソコンを閉じ、ふと家の外に出てみると、夜空が澄んで星が見えている。虫の声が微かに聞こえ、初夏の風が肌に優しい。
庭先で振り向き、深く息を吸い込みながら、灯里は右手で左手薬指の指輪を外す。もう、あの指輪の意味は失われてしまった。代わりにスマホを取り出し、メールの「送信完了」画面を再確認する。
指先に残るわずかな金属の感触が寂しさを誘うが、それ以上に新しい希望が胸を満たし始めていた。
(これはさよならじゃない。私がまた、自分の人生を自分で選んだっていう始まりなんだ)
夜風がそっと髪を揺らす。見上げた空には、遠く輝く星が瞬いている。灯里の瞳にその光が映り、口元に微かな笑みが宿る。