第十三話:さよならの鍵
薄くカーテンの隙間から差し込む光が、狭い寝室の床を淡く照らしている。
大川灯里はクローゼットを開け、静かに服を取り出してはスーツケースに詰めていく。その手つきは機械的で、迷いがないように見えた。
部屋には鳥のさえずりも車の走行音も聞こえない。まるで真空地帯のような張り詰めた空気の中、灯里は心の奥底で淡々と思いを巡らせている。
(本当はこんな形で終わらせたくなかった。だけど……姉さんを最優先にする限り、翔くんはいつまでも“私”を見ない。私の人生は、私自身の手に取り戻さないと)
自分が選んで自分で歩んでいくために。溢れる感情を押し殺すように、スーツケースの蓋をそっと閉じ、ジッパーを引く音が部屋に小さく響いた。
夕方のまだ明るさを残す時間帯。灯里は玄関までスーツケースを転がしてくると、ドア脇に据え、深く息をついた。
玄関の靴箱の上には、鍵を置ける小さなテーブルがあり、その中央に合鍵をそっと置く。二人で選んだペアキーの一つ。自分の持ち分を置いていくということが、どれほど苦渋の決断か――しかし、いまの灯里には後戻りする気はない。
「……決めたんだ、もう」
自分に言い聞かせるように小声で呟く。荷造りは完了し、あとは翔の帰宅を待つだけ。時計を見ればまだ16時50分。いつもなら彼が会社から戻るのは早くても18時前後。
灯里はドアを開けることもなく、そのまま玄関に腰を下ろして、ぼんやりと合鍵に視線を落とした。
約束の時間を過ぎても何度かメッセージを送る気力は起きず、灯里はただ待ち続けた。やがて18時20分を回ったころ、ガチャリとドアが開く音がする。
「……ただいま。灯里? もう帰ってたのか」
庄司翔がスーツ姿で入ってくるが、すぐに異変に気づく。玄関先には大きなスーツケースが置かれ、その隣に立ち尽くす灯里がいる。
翔は一瞬息を飲んで、明らかに動揺した表情を浮かべる。
「……何、それ?」
「見てのとおり、荷造り。……結婚はやめたい」
灯里は冷たく響く言葉を放った。翔がその意図を計りかねて眉を寄せるのを見ても、気持ちが揺れることはない。ここに至るまで、さんざん逡巡した末の答えなのだ。
「ちょっと待ってくれよ、落ち着いて話そう。姉さんに電話して――」
まっさきにその言葉が出た瞬間、灯里は深い失望のような感情がこみ上げる。彼は最初に姉を頼るのか、と。
それをぐっと堪えながら、一拍置いて静かに言い放つ。
「……やめて。翔が“姉さん”を最優先にする限り、私たちの結婚なんて成立しないから」
はっきりとした口調に、翔は言葉を失いかける。けれども、いつものように「姉は悪気がない」などの弁明をしようと口を開いた。その瞬間、灯里の胸にさらなる痛みが走る。
「姉さんは離婚して失敗したから、俺には同じ轍を踏ませたくないだけなんだ。優しさじゃないか」
「優しさでもね、私は従うだけの存在にはなれない。……さっきも言ったけど、結婚って“二人”がつくるものじゃない。それなのに、あなたが姉さんを最優先にするなら、私の居場所はどこにもない」
灯里の声は震えてはいないが、その冷静さがかえって凄みを伴う。翔はかすかに眼を伏せる。これまで何度も「姉さんが全部決めるのも仕方ない」と思ってきた自分の態度が、灯里をこんなふうに追い込んでいるのだと、痛いほど理解していた。
意識せず声を荒げる翔。
「姉さんとはずっと支え合ってきたんだ! 両親がいなくなってから、あの人がいなきゃ俺は大学も就活も無理だった。どうしてそれを無視しろって言うんだよ!」
「無視してなんて言ってない。ただ、これは私たち二人の幸せの問題。あなたの姉さんへの恩や感謝っていう枠を超えて、どんどん私たちの意思が置き去りにされてる。それで二人は本当に幸せになれる?」
互いに一歩も譲れない言葉が飛び交う。玄関の照明が二人の影を伸ばす中で、スーツケースだけが異様に存在感を放っていた。翔は拳を握ったまま言葉を継げない。
不意に、翔は腕時計に視線をやる。姉との連絡時間が気になるのか、これからまた姉に相談しようとしているのか。灯里はその仕草を見て、もう何も言う気になれなくなった。
一方、翔自身も“そうしなければならない”という脅迫観念と“灯里を失いたくない”という恐怖心がせめぎ合っているのか、目を伏せて固まっている。
その姿を見て、灯里の心は冷えきったまま、しかし確固たる決意を膨らませる。
照明の下、灯里は無言でテーブルに歩み寄り、そこに置かれた合鍵を手にとって一瞬見つめる。
そして、それをテーブルの真ん中にそっと置き直す。自分の鍵はここに返す――そうするしかない。
翔はそれを止めようとしない、いや止められない。声も出ない。背後で秒針の音だけが大きく感じられる。
灯里はスーツケースの取っ手を握りしめ、玄関へ向かう。空気は重く、まるで葬送行進のように無音の時間が流れていた。
マンションの共用廊下。扉を開けると冷たい外気が灯里の肌に触れる。足元に転がるスーツケースの車輪が小さく鳴り、無機質なコンクリートの通路を転がる音が反響する。
ドアの内側では、翔が一歩も動けず立ち尽くしている。灯里は振り返ることなく、一言だけ背中越しに告げる。
「……姉さんの人生の埋め合わせで生きるのは、あなたの自由。でも私は、私の人生を歩く。もう、ここには戻らない」
その言葉に応える声はない。翔はただ呆然と見つめるだけ。
閉じゆくドアの向こうで、翔のスマホが振動し始める。画面にはまた「姉さん」の文字。だが、彼は画面に指を伸ばすことができない。
廊下を進む灯里は、まっすぐ前を見据えたままエレベーターへ向かう。その瞳には、涙も怒りも宿っていない。あるのは、ただ決意だけ――自分の人生を選び取る決心。
“ポーン”というエレベーターの到着音が廊下に響き、灯里はスーツケースを引きずりながら乗り込む。扉が閉まり、上下する気配が感じられたとき、彼女の胸にあるのは不思議なほどの静寂だった。
(……さよなら、私たちの“はず”だった未来)
淡い蛍光灯に照らされたエレベーターの中で、灯里は小さく息を吐いた。そうして新しい一歩を踏み出すことが、今は何よりも必要なのだと信じるしかなかった。