第十二話:私はあなたのお姉さんと結婚するわけじゃないの
夜のマンションの廊下を、スーツ姿の庄司翔が足早に歩いている。片手にはスマホを握りしめ、画面には「姉さん」の文字と未読メッセージがいくつも並んでいた。残業を終えてようやく帰宅したが、姉とのLINEはまだ終わらない。
玄関ドアを開けると、部屋は暗い。代わりにリビングのテーブルの上だけがスタンドライトの白い光に照らされていた。
「……ただいま」
控えめな声が空気をわずかに揺らすが、リビングからは物音ひとつしない。翔は焦燥に駆られたように靴を脱ぎ、姉とのトーク画面を閉じた。そこへ薄明かりの奥から大川灯里の気配が静かに近づいてくる。
照明をつけず、テーブルのスタンドライトだけがついているリビング。テーブルには大量に印刷された「打ち合わせアジェンダ」や「式場のPDF資料」などが山積みになっていた。
灯里はその資料を一枚ずつチェックしていたのか、蛍光マーカーの線が引かれている用紙もあれば、付箋が貼られたメモもある。翔はその様子に一瞬息を呑んだ。
「遅くなってごめん。仕事が立て込んで……」
「うん、おかえりなさい」
灯里の声は低いが、ピリピリした空気が張り詰めているわけではなく、むしろ静かな湖のような冷ややかさを感じさせる。翔は肩の荷を下ろすように小さく息をついた。
「今朝、約束したよね。……“私たち”で決めるって」
灯里はマーカーを置いて、視線を翔に向ける。その瞳は揺るがぬ意志を宿しているように見えた。
翔は微かに唇を噛む。結婚の主語=“私たち”だということを、灯里に言われ続けてわかっているつもりだった。だが、姉・美月の存在が、いつの間にか“私たち”を飲み込んでしまっている気がしてならない。
テーブルへ近づいた翔に、灯里はスマホをそっと差し出す。そこには、昨日から届いていた美月の通知が表示されている。
「“試食会と最終打ち合わせ、私も参加する”って。しかも料理は上位プランに変更したいって書いてる。……こんなふうに、私たちノータッチのまま進めてるのっておかしくない?」
スクロールすると、さらに「料理アップグレード案」と題された長文メッセージが次々に連なっている。いつのまにか“最終打ち合わせ”と名付けられたイベントが、勝手に日程まで組まれているようだ。
翔は息苦しさを覚える。それでも、どこかで「姉さんは善意でやってくれてる」という思いが頭を離れない。
灯里は資料をテーブルに戻すと、立ち上がってキッチンカウンターへ寄る。すると、翔も後を追うようにして隣へ立つ。
翔は思わず言い訳じみた口調になった。
「……姉さん、結婚の経験者だからさ。しかも離婚してて、失敗をもう繰り返したくないって気持ちが強いから、こうやって先回りして色々やってくれるんだ」
「経験者なのはわかる。でも、結局“姉さんがやりたいように”進んでるでしょ。私たちが二人で話し合う前に、全部決まっていく……」
灯里の瞳には小さな悲しみが滲む。そこにほんの少し怒りの色が混ざっているのを、翔は見逃せなかった。
「……家族みんなが幸せになれる形を目指してるって、姉さんは言ってるよ。俺だって、みんながいい形で……」
「“みんな”って、いったい誰? 私と翔が、私たちが中心なんじゃないの?」
淡々とした口調だからこそ、灯里の言葉は心を刺す。翔は答えに詰まるように唇を閉じてしまう。
視界の隅で、灯里がつけていたマーカーや印刷物がフラッシュのように脳裏をかすめる。
──顔合わせの時、姉が主導権を握ったあの光景。
──姉から連日送られてくるLINEやPDFの数々。
──姉が提案する“試食会”“最終打ち合わせ”のスケジュール表。
灯里が手にしているボールペンの先が、資料の端を小さくトントンと叩く。そのリズムが心臓の鼓動と不協和音を奏でるようで、翔は胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
灯里はテーブルの脇へ戻ると、静かに翔のほうへ向き直る。距離がわずかに縮まる中、彼女ははっきりと目を合わせて口を開いた。
「私は、あなたの親友でも姉でもないの。……“あなたのパートナー”になりたくてここにいるんだよ。私はあなたのお姉さんと結婚するわけじゃない。」
「……」
「今の翔を見てると、“あなた自身”が見えないの。姉さんの顔色をうかがってばかりで、本当は何がしたいのか、何を考えてるのか、全然感じられない」
言葉の節々にこらえた感情がにじみ出る。翔はただ立ち尽くし、ぐっと唇を噛んでいた。
しばらくの沈黙の後、翔は掠れた声で言う。
「姉さんはさ……親代わりなんだ。両親を亡くしてから、ずっと俺を支えてくれた。だから、無視なんてできない。姉さんの想いも大事にしたいし、もちろん灯里のことも……両方、ちゃんと大事にしたいんだよ」
言いながら、まるで二つの重りを同時に抱えようとするような苦しげな表情を浮かべる。
その姿に、灯里も言葉を失う。かつて姉が弟を支えてきたという事実を否定するつもりはないのだ。しかし、そこに「私たちの結婚」はあるのだろうか。
灯里はソファの端に腰を下ろす。涙を見せないように顔を伏せ、低く震える声で話し始めた。
「私を大事に思ってくれるなら……まず自分の意思を見せてほしい。姉さんの代わりじゃなく、翔くん本人が何を望んでるのか。……“姉さんの代役”を生きてるあいだは、私は隣に立てないよ」
静まり返ったリビングの中で、時計の針だけが秒を刻む音を響かせる。何分もたったかのような重い沈黙が降りる。
やがて灯里は、テーブルの資料をそっとまとめると、それを抱えるようにして立ち上がる。翔を見ないまま廊下へ歩き、寝室のドアの前でふと足を止めた。
「……考えて。明日、答えを聞かせて。もし、“あなた自身”が見えないままなら……私もどうしたらいいかわからないから」
最後の言葉を残し、ドアが静かに閉まる。その音が痛いほど冷たく、翔はリビングの中央で固まったまま動けずにいた。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。画面には「姉さん:試食会当日の服装と動線メモ」の新着通知。翔は指を画面に伸ばしかけるが、止まる。姉からの“指示”にいつものように返事をする気力が、今はどうしても湧いてこない。
明かりを落としたリビングには、ただ重苦しい沈黙だけが漂う。背後にあるスタンドライトが、翔の影を暗く床に落としていた。