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第十一話: 嵐の前の。

 朝の光がわずかに差し込むダイニングテーブルで、大川灯里おおかわ・あかりはトーストをちぎりながら味噌汁をすすっていた。

 対面には庄司翔しょうじ・かける。二人の朝食はいつもより簡単なメニューだが、その分、会話の密度が高い空気が流れている。


「……今夜、二人でちゃんと話そう?」

 灯里はそっと目を上げ、翔の顔を見る。少し強い意思を感じさせる瞳が、朝の静かな空気の中でも揺るがない。

「うん、そうだな。最近、なかなか落ち着いて話す機会もなかったし……」

「入籍日だって式場だって、“私たち”が決めないと。姉さんの意見はありがたいけど……ね?」

「わかってる。今日は仕事が片付き次第、なるべく早く戻るよ」


 そう言う翔の口ぶりには多少の疲れが混じっているものの、そこには灯里の想いに応えようとする姿勢も感じられた。灯里は小さく微笑み、こくりとうなずく。

 彼の言葉に少しだけ希望が灯り、ギスギスしたムードがいくらかほぐれる朝のワンシーンだった。


 出勤の支度を整えた二人は、マンションのエントランスでそれぞれ別の駅へ向かう。

 玄関ドアを閉め、エレベーターで一階まで降りるあいだも、たわいのない会話を交わす。

 ビルの外に出ると朝の空は青く澄み、吸い込まれるような空気が広がっていた。


「じゃ、行ってきます」

「お互い頑張ろう。今夜、帰ったら……ね?」


 灯里が小さく手を振れば、翔も笑顔で手を挙げて応える。すれ違い気味だった日々の中、久々に交わした自然な笑顔。灯里は「今日こそ」と小さく胸に誓い、歩き出した。


 駅へ続く道を一人歩きながら、灯里は心の中で再確認する。


 ふと前を向くと、鮮やかな朝日がビルの谷間から差し込んでいた。灯里はスマホを鞄にしまい込み、やや早足で駅へと向かう。


 午前の仕事に区切りをつけようとしていたそのとき。パソコン画面の隅に浮かび上がるスマホ通知が、灯里の視界をさらっていく。


姉さん: 「試食会&最終打ち合わせ、私も出る♪ 15日11:00で会場確保!料理は高めだけど大事だと思ってPDF送るね♪」


 LINEの本文には、式場のゴージャスなコース料理のPDF資料が添付されているようだ。灯里は軽く息を呑む。


(“最終打ち合わせ”? そんな日程、翔くんからは何も聞いてないけど……)


 急に決まったらしいその予定が、本当に必要なのかどうか。姉から一方的に「これでOK」と押しつけられている気がして、胸の奥がじんわり嫌な圧迫感で満たされる。



 頭を冷やそうと、灯里は給湯室へ紙コップのコーヒーを取りに行く。誰もいない場所で、スマホを取り出して庄司翔とのチャットを立ち上げる。


「姉さんから最終打ち合わせの連絡きた? 15日11:00って話、本当に急すぎるんだけど……翔くん何か聞いてる?」


 メッセージを送信して数分後、翔から返信が届く。


「姉さん、急に決めたみたい。俺も朝に話されて知ったよ。でも心配しないで。ちゃんと調整してみる」


 その文面を読んだ瞬間、灯里の指先に力が入りすぎて、紙コップが少し潰れかける。姉さんの好き勝手な動きが加速してるのに、翔はまだ“穏便”に済ませようとしている気がする。

 一方で、彼が心配してくれているのはわかるが、どこまで頼っていいのか。コーヒーの香りも感じられないまま、灯里の背筋に寒気が走る。



 その後も美月からの通知は絶え間なく続く。

•12:00:「ドレス試着の同席も可能って! いつが空いてるか教えて〜♪」

•14:30:「料理は和食が無難だと思うの。離婚経験者としては失敗しないとこ選ぼ?」


 会議の合間にチラッとスマホを確認するたび、怒涛の通知数が灯里を圧倒する。上司や同僚との昼食すら上の空になり、「どうしたの?顔色悪いよ」と心配されるほどだった。


(どうして……どうしてここまで姉さんが仕切る必要があるの?)


 頭の中には疑問が渦巻くが、返信する気力もわかずに時間が過ぎていく。


 午後5時。一区切りついたところで、灯里は会社ビルの屋上へ向かい、遠くの空を見つめながら深呼吸する。すると、スマホが再び震えた。画面を見ると庄司翔から着信。

 慌てて電話に出る灯里。


「もしもし。翔くん?」

「悪い、連絡遅くなって。姉さんが『経験者なんだから任せて』って言い張るんだ……」

「……朝言ったよね、今夜しっかり話したいって。覚えてる?」

「もちろん覚えてるよ。でも、ちょっと仕事が押してて……多分残業になると思う」


 噛み合わない会話。落ち着いた場所で二人で話すどころか、姉さんの存在はますます大きくなっているように感じる。


「そっか……。じゃあ……また後でね」

「ごめん、急に仕事入って。落ち着いたらLINEするから」


 通話が終わると、夕暮れのビル群が一層寂しく見えた。胸の奥には、じわじわと焦りと苛立ちが混ざり合ったような感情が広がっていく。



 結局、灯里は定時で会社を出て駅へ向かうが、ホームの雑踏の中でまたスマホが鳴る。案の定、美月からの連絡だ。


「最終打ち合わせアジェンダ作ったよ。グループチャットに流すから確認お願いね! 料理コースのランクアップも提案してまーす♪」


 ホームの通知が雑音のように耳を刺す。スマホを握る灯里は呼吸が浅くなり、肩に力が入りすぎて息苦しい。それでも、電車が来るまでの数分がやけに長く感じた。



 自宅マンションへ戻ると、外灯が静かに辺りを照らしていた。玄関ドアを開けて部屋に入り、荷物を下ろした瞬間、またもスマホが震える。

 “ドレスショップ予約完了”の通知。まるで灯里の存在など必要ないかのように、すべての準備が着々と進んでいる。

 灯里はスマホをテーブルに伏せ、しばらく呆然と立ち尽くす。


「これで……勝手に決まり、なの?」


 そんな言葉が唇から漏れ、瞳には静かな炎が宿り始める。部屋の空気が歪むほどの苛立ちや絶望感……しかし、その奥底には小さな意地と決意が芽生えるのを感じた。



 夜も深くなり、翔はまだ帰ってこない。灯里は寝室のデスクライトだけを頼りにノートPCを開く。開いたシートには、結婚準備のToDoリストが並んでいた。

 そこに表示された「入籍日」「式場選び」「披露宴の演出」などの項目。それぞれの行の末尾に、赤字で“私たちで決める”と書き足していく。その筆先に少し力がこもる。


「……美月さんの同席なんて、本当は必要ない」


 そう言葉に出しながら、スマホには翔とのLINEトークが未読のまま残っている。まだ彼からの返信は来ないらしい。


 (これ以上、姉さんの望むとおりにはならない。今度こそ“私たち”の意思を貫く——)


 心の中で呟くと、静かな夜の闇が部屋を包み込む。スマホの通知はもう見ない。自分の意思が動かなければ、何も本当には動き出さないのだから。

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