第十話: カフェで親友と
土曜の午後、淡い日差しに包まれた青山一丁目にあるスターバックス。そのガラス張りの外観を前に、大川灯里は一歩足を止める。
気分を落ち着かせようと深呼吸し、ひび割れたスマホを鞄から取り出す。画面を見るたび、姉・美月からの大量メッセージが脳裏をよぎり、胸がぎゅっと締めつけられるように痛む。
(……今日は遥にすべて話そう。もう黙ってるの、限界かもしれない)
苦い決意を噛み締めたところへ、ガラス越しに手を振る女性が見えた。— 親友の遥だ。灯里は小さくうなずきながら店内へ足を踏み入れる。
窓際の席には既にダークモカチップフラペチーノを二つ用意して、遥が待っている。スリムなデニムにカジュアルなシャツというラフな装いだが、表情はどこか心配そうだ。
「灯里、こっちこっち……って、ヤバ顔じゃん。大丈夫?」
「……顔に出ちゃってるかな」
灯里は気まずそうに笑って、隣の椅子に腰をおろす。チョコレートソースがかかった甘そうなフラペチーノを見ても、食欲がわかない。
一方、遥はそれを察したのか「ま、甘いの飲んで落ち着きなよ」と優しく声をかける。
ストローをくわえながらも、味がほとんど感じられない。灯里の頭の中には、姉からの連投LINEや大量のPDF、ドレスの写真攻撃……そんなイメージがぐるぐると渦巻いている。
(本来なら、これって私の結婚式のはずなのに。なのに……どうして「私」が主語になれてないんだろう)
小さく息を吐き出して、ゆるりとストローを外す。遥はそんな灯里の表情を黙って見守っているようだ。
灯里はスマホを取り出して、姉から送られてきた「式場プランC」や「ドレス比較チャート」などのファイルを遥に見せる。
「……これが、先週からずっと。毎日どころか、朝昼晩、仕事中にもジャンジャン来るの」
「え……なにこれ。しかもPDFが何十枚も? ちょっと普通じゃないね」
遥が目を見張って画面をスクロールするたびに、次々と現れる同じような資料とメッセージ。灯里は思わず肩をすくめる。
「義姉さん、離婚経験があって、その分私たちに失敗させたくないって、すごく熱心みたいで……。悪気はないんだろうなって思うけど」
「んー……にしても、これはキャパ超えてる感じする」
その言葉に、灯里はかすかに目を伏せる。まさに「キャパ超え」している状態だと感じていたのだ。
「善意なのはわかってる。私自身、お姉さんが本気で弟の幸せを願ってるのも感じるし、翔くんが姉を大事にしてる理由も理解してる。でも……止まらないんだよ、あの人の勢いは」
声が震えるのを押さえるように言葉を選ぶ灯里。すると、遥は一瞬唸るように唇をとがらせた。
「いや、それは善意というより……ブラコンが暴走してるだけじゃない? 弟を想う気持ちっていうか、溺愛なんだよ。自分の意見を全面的に通すのが当たり前、みたいな」
「そこまで言ったら可哀想だよ……たぶん優しさからきてるんだと思う。家族思いだからこそ、ここまで——」
「灯里」
静かに呼び止めるような遥の声に、灯里はハッとして口をつぐんだ。守ろうとしている相手は誰なのか、本当に「家族思い」だけで済ませていいのか、それが自分でも揺らぎ始めている。
ふと、灯里はスマホのフォルダを開き、過去の思い出写真を遥に見せる。「これが江ノ島で告白されたときの夕陽。」「これは沖縄でプロポーズしてもらったとき……」など、幸せそうな二人の姿がそこに収まっている。
笑顔の灯里と翔。眩しい海や夕焼けをバックに、まさに「二人だけの世界」を楽しんでいたあの頃。
「ねえ、遥……私の結婚式って、本当はこんなふうに二人で作り上げるものだと思うんだ。写真を見返すたび、もう一度あのときの気持ちを思い出したいのに……」
「だよね。主役は本来、灯里と翔くん。だけど、その写真の主役が“もう一人いるみたい”に思える状態……って感じ?」
その指摘に、灯里は小さくうなずく。
気づけば外はすっかり夕闇が迫り、ガラス窓に街のネオンが映り始めていた。人の波も落ち着き、店内のBGMが静かに耳に溶け込む。
遥はドリンクを飲み干し、前置きするように目を伏せる。
「怒らないで聞いてほしいんだけどさ……ちょっと度を超えているに見えるんだよね。“姉の幸せ=翔の幸せ=灯里も従うべき”みたいな図式が出来上がってる」
「……そうだよね」
灯里は大きく目を瞬かせ、ストローを持つ手が一瞬止まる。そこまで言われるとショックだが、反論できない自分がいる。
「だって、普通の姉弟愛や家族思いのレベルを超えてるじゃん。灯里がどんなドレス着るかまでガンガン指定してくるとか、式場の成約期限とかPDF何十枚とか……」
「……確かに、そうだよね。私も振り回されて疲れてるのに、どこかで“しょうがない”と思ってる。それが余計に苦しくて……」
自分の意識がぐらりと傾きそうになる。遙の指摘は痛いほど的中していた。
スタバを出た二人は、閉店近い公園の遊歩道を歩きながら、淡い夕陽を背に会話を続ける。ケヤキの並木道は人影もまばらで、静かな空気が流れていた。
遥がふと足を止め、灯里の肩に手を置く。
「でもさ、留学のときの灯里なら、もっと自分の意志を通せたんじゃない? 親が反対しても押し切ったって話を聞いたよ」
「……うん。大学生のとき、どうしても行きたい国があって、家族を説得するのに苦労したけど、それでも行きたい気持ちを曲げられなかった」
思い出すのは、あのときの自由と熱意。誰に何と言われても、自分の未来を信じて行動を起こせた自分がいた。
遥は少し笑って、「灯里って、本当は檻に入るような人じゃないでしょ」と肩を叩く。灯里は視線を落としつつも、小さくうなずいた。
その後、電車で帰宅した灯里はリビングの灯りを点け、置いてあったノートPCを立ち上げる。スマホ画面には未送信の「美月さんへ」の草稿が残っているが、これを送る気にはとてもなれない。
躊躇した末、メッセージをすべて削除し、新たに庄司翔へのチャットウィンドウを開く。
彼にこそ話さなければならないと、遥との会話を経て強く思ったのだ。
(……結局、私は翔くんとどうしたいのか。ちゃんと伝えなきゃ、何も始まらない)
画面に一行だけ文章を打ちかけては消し、再び打ちかける。頭の中で相手の反応を想像すると心が揺れるが、もう逃げるわけにはいかない——そう思いながらキーを叩く手は、小刻みに震えていた。
やがてシャワーを浴び、夜も更けた頃。灯里は寝室のデスクに腰を下ろし、スマホの画面とにらめっこを続ける。ひと呼吸ごとに言葉を選び、慎重に綴っていく。まずはこんな書き出しだ。
「翔、私たちの結婚の主語について真剣に話したい。」
そこまで打ち込んで、しばらく止まる。ここから先が肝心だ。どう書けば翔を傷つけずに、でも自分の正直な気持ちを伝えられるのだろう。
浮かんでは消えていく言葉をいくつも並べた結果、かなりの長文が完成しそうになる。けれど、いざ「送信」をタップしようとした瞬間、胸に突き刺さるような不安がふたたび押し寄せた。
(本当に、今送っていいのかな……このタイミングで、こんな長文を読まされたら、翔くん戸惑うかも。それに、姉さんのことはどうなる?)
いくら思いを言葉にできたとしても、それが一方的に押しつける形にならないだろうか——そんな疑念が頭をよぎり、指先がフリーズしたまま動かなくなる。
「……明日、ちゃんと会って話そう。文字だけじゃ伝えきれないし」
思わずつぶやいたその声は、驚くほど弱々しかった。送信ボタンはすぐそこにあるのに、どうしてもタップできない。
結局、本文をすべて“下書き”のまま画面を閉じる。押しつぶされそうだった吐息をゆっくり吐き出すと、レースのカーテンの向こうで夜風がさっとはためいた。
窓の外に広がる都心の淡いネオンを見上げながら、灯里は瞼を閉じて思考をめぐらせる。