第一話:もう結婚なんて、やめたい
夜景を背にしたリビングテーブルの上を、シルバーのリングがカラカラと転がっていく。間接照明の淡い光が、それを追うように微かに揺れた。
「……なんでこんなに、胸がざわつくんだろう」
大川灯里は、苦笑とも嘆息ともつかない息をつく。指から外したばかりの婚約指輪が、あたかも意思を持っているかのように転がっては止まり、またわずかに動きを繰り返していた。ふと隣のスマホが震え、画面に「姉さん」の文字が浮かび上がる。
——庄司美月。
灯里の婚約者・庄司翔の三つ上の姉であり、彼女の存在感だけがやけに大きい。通知音がするたびに、まるで美月自身がここにいて睨んでいるような圧迫感を覚えるのだ。
「ふう……」
溜め息とともに、灯里はリングをそっと手のひらに拾い上げた。指にはめているときは、それなりの愛着を感じていたはずなのに、今はどこか重たく思えてしまう。 婚約者である翔は、基本的に優しくて穏やかな性格だ。彼が仕事から帰ってくると、笑顔で「ただいま」と声をかけてくれるし、ちょっとしたケンカをしてもすぐに仲直りできるタイプだった。
——けれど。
ごく自然に始まった二人の結婚準備には、“第三者”の存在が大きく介入してきている。翔の姉・美月だ。LINEの長文メッセージで式場や指輪のデザインへ口をはさみ、それを受けた翔が「姉さんが言うなら」と流されてしまううち、灯里は少しずつ引っかかりを覚えるようになった。
「結婚って、二人だけのものじゃない……よく言うけれど」
灯里はスマホを手にとって、美月から来ている未読メッセージを眺める。スクロールしきれないほど長文が並んでいるのを見ただけで、胃がきゅっと縮まる感覚がした。
「本当は家族になるわけだから、お姉さんともいい関係を築きたかったのに……」
口に出すたびに、自分自身の胸がちくりと痛む。先日、両家顔合わせが終わったばかりだというのに、そこでも美月は遠慮なく意見を通し、翔はほとんど否定もせずに受け止めるだけ。あれから、ずっと違和感が消えずに残っていた。
「結婚って、“私たち”で決めることじゃなかったっけ……?」
静かに問いかけるようにつぶやく。
姉のアドバイス、それ自体は悪いことばかりじゃないかもしれない。でも、いつの間にか“姉の意見”こそが軸になっているような気がしてならないのだ。それは、灯里にとっては“自分たちの結婚”の主語が奪われているような感覚だった。
「ただいまー。灯里、まだ起きてる?」
玄関ドアが開き、翔の声が響く。時計を見ると夜十時を回ったところだ。
灯里はリビングの照明を少し明るくし、テーブルの上の指輪を慌てて手元へ引き寄せた。
「うん、おかえり。お疲れさま」
キッチンの方へ向かおうとする灯里に、翔が声をかける。
「それよりさ、姉さんから式場の見積り追加が来てて……ちょっと見てもらっていい?」
開口一番のその言葉に、灯里の心拍が一気に跳ね上がった。
隠すように握りしめた指輪が、じわりと汗で湿ってくるのを感じる。
「……また、お姉さんの意見?」
やわらかく問いながらも、自分でもわかるほど声のトーンがこわばっていた。
ダイニングテーブルに資料を広げる翔。そこには既に美月が送ってきたらしい「ここがおすすめ」だの「設備が充実」だの、赤ペンで書き込まれたコメントが見受けられる。
灯里は努めて穏やかな表情をつくり、椅子に腰かけた。
「うん……今日は、いいんじゃない? もう遅いし、二人とも疲れてるでしょう?」
「でも、姉さんがなるべく早く決めた方が後々ラクだって」
「そっか……そうなんだ。うん、確かにそうかもしれないね」
ゆっくりと笑顔を作りながら、灯里はテーブルの上に指輪を置いた。自分でも気づかぬうちに、指先が震えていたのだろう。指輪がわずかに転がってカチリと音を立てる。
「……ごめん、私ももう少し元気なときに考えたい。今日はほんとにクタクタで。翔も明日朝早いでしょ?」
「まあ……そうだね」
翔も仕事で疲れていたのか、灯里の言葉に納得しかけた。だが、そのときリビングに置いた翔のスマホが震える。さっきから鳴っている「姉さん」からの通知だ。
灯里がちらりと画面を覗くと、そこには「仏滅はやめた方がいい」「式場はグレードを上げるべき」という、さらに追加の要望が届いているようだった。
「結局、仏滅はNGなんだね。顔合わせのときにも、そう言ってたけど……」
灯里はできるだけ淡々と言葉を選ぶ。翔は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「姉さん、失敗してるからさ。自分の離婚もあったし、そのせいか口うるさいんだ。悪気はないんだよ。俺たちが苦労しないようにって、ただそれだけなんだ」
「うん。わかってる。わかってるんだけど……」
思わず目を伏せてしまう。こんなふうに静かに話し合おうとしても、最後には「姉さんの言うとおり」に行き着くのが目に見えている。その現状に、灯里は気づかぬうちに心をすり減らしていた。
部屋の照明が、さっきよりも暗く感じられる。実際の明るさは変わっていないはずなのに、不思議と視界が重苦しい。
灯里は深く息を吸い込み、一気に吐き出した。見上げた先にいる翔の目は、どこか怯えたようにも見える。
——でも、もう限界だった。
積み重なってきた想いが、今ここで決壊する。
「ねぇ、翔……これって誰の結婚式の話をしてるの?」
「……え?」
「私と翔の式、だよね?でもなんだか、ずっとお姉さんのために準備をしてるみたいに感じるの。あの人の希望がどんどん押し寄せてきて、翔はそれに全部付き合ってる。私の意見はどこ?」
声が震えるのをこらえようとしても、もう止められない。
翔は動揺した表情で「落ち着こう」と繰り返すが、灯里は拳を握ってテーブルを見つめる。そこには、いつの間にかまた転がっている指輪があった。
「……もう、無理。もう結婚なんて、やめたい」
その言葉がリビングに落ちた瞬間、張り詰めていた空気がピンと弾ける。翔が声を上げるより早く、灯里の胸に“ああ、言ってしまった”という衝撃が駆け抜けた。
時間が止まったかのような沈黙がリビングを支配する。
壁掛け時計の秒針が進む音、冷蔵庫のモーターが稼働する低い響き。それらがやけに大きく感じられ、翔は言葉を失い、灯里も自分が放った言葉に動揺していた。
「……結婚、やめたいって……本気?」
翔が口を開くまでに、数秒というより永遠にも感じられる間があった。灯里は答えられず、唇を噛む。自分でも、本当に口に出すとは思っていなかったからだ。
脳裏をかすめたのは、出会いからプロポーズまでの記憶だった。
——江ノ島のビーチで笑い合った二人。
——沖縄の海を見下ろしながらプロポーズを受けたあの瞬間。
あのときは、まばゆいほどの幸せの光に包まれていた。今のような重苦しい闇が訪れるとは想像もしていなかったのに。
(この二年半、こんなにも私たちは輝いていたはずなのに……)
ぴたりと貼りついた静寂のなか、灯里はふと目頭を押さえる。溢れそうな涙を必死にこらえながら、俯いたまま小さく息をついた。
「……ごめん。いまのは衝動的だったかもしれない。」
その言葉を最後に、タワマンのリビングには再び静寂が戻ってきた。
次の瞬間、灯里は強く瞳を閉じる。あの湘南のビーチ、沖縄のプロポーズ、すべてがここにつながっている。その回想がゆっくりと、彼女の記憶を呼び起こしていく。
——二人で幸せになるはずだった。
——なのに、今どうしてこんなにも心が軋むんだろう。
部屋の間接照明に照らし出される婚約指輪は、行き場を失ったかのようにテーブルの上で微動だにせず輝いている。灯里はそれから目をそらし、肩を震わせながら息を詰めた。