消失
久々に我が家の台所に立つと、懐かしくなった。最近では教会の台所に立つことが多かったためだろうか。
メテリアは、取り出したまな板の角が大きく切れているのに苦笑する。
「出刃包丁と間違えて、牛の解体用の包丁で野菜を切ろうとしたのよね」
「そんな恐ろしいことをしていたんだねぇ。ミス・メテリア」
耳元で聞き慣れてしまった声を聞いて、メテリアは思わず包丁を逆手に掴んだ。
「……危ないじゃないですか」
喉元に包丁の刃先を突きつけられて上向いているのは、案の定神父だ。
「……いつのまに入り込んだんですか?」
「ちゃんと呼び鈴を鳴らしたよ?」
ぬけぬけと神父は笑う。
「それより、会ったのかい? ダイ君に」
「!」
メテリアの手が滑って神父の白い首に包丁の刃先が当たった。
「当たってる、当たってる!」
首の薄皮がうっすらと切れて、神父は慌てた様子でメテリアから放れた。
「ダイのこと……!」
「彼はダンピールだから。分化が起こったんだろう」
神父は首をさすりながら、メテリアを見遣る。
「ダンピール? あの子が?」
「言ってなかったかなぁ。君の住所録には混血児の記載はなかったって」
「それはつまり……」
「あの子は母親が人間らしいね。でも彼の家族は母親にダイを捨てさせたらしいよ」
よくあることだ、と言わんばかりに神父は肩を竦める。
「とりあえず、きちんと戸締まりしておけば大丈夫だよ」
「ちょっと待って。先天性の吸血鬼があんなに錯乱するなんて聞いたことないわよ!」
「ああ、あれはねぇ……」
のんびりと神父が話し始めた矢先、大きな破裂音が台所中に響いた。
「あ、来たかな……」
「何が!」
掴みかからんばかりに神父を睨むと、彼は明後日の方向を見遣った。
「ダイ君が、君を探しに」
「それを早く言いなさいよ!」
メテリアは包丁を置いて、台所を飛び出した。
屋敷というには小さいとはいえ、中央ホールに全ての部屋がつながっている。二階へ上がる階段の正面は正面出口で、今はその観音開きの戸が無惨にも壊されている。
「こんな……!」
息を呑んだメテリアの耳に、二階から爆音が聞こえてきた。
「ヴェティルが……」
二階の居間にはヴェティルが居るはずだ。メテリアは二階へと駆けだした。
一カ所だけドアが壊されている。
居間だ。
「ヴェティル!」
部屋へ入ると、目も当てられないほどずたずたになっていた。
骨董品のソファは無惨にも引き裂かれて、高級木材のテーブルはまっぷたつだ。その間を、少年とヴェティルが走り回っている。
少年の腕は既にずたずたで、血がしたたり落ちている。それにも関わらず、彼はヴェティル目掛けて、狩りをする獣のような形相で血塗れの腕を振り下ろす。それをヴェティルが剣閃で弾きかえしている。
メテリアが部屋へ入ろうと駆け出すと、ふいに肩を掴まれた。
「危ないよ。お姫様」
神父が例のごとく飄々とした口調で部屋の中の二人を見遣る。
「どういうことなの? ダイはどうしたの!」
「笑い上戸とか、泣き上戸とか聞いたことあるだろ?」
いったい今になって何の話をしようというのだ。訝るメテリアに神父は根気よく続けた。
「人の血は俺たちにとって酒と同じなんだ。飲み過ぎれば酔っぱらった状態になる」
「……だから、百歳以下は駄目?」
「そう。今の彼は、アルコール中毒を起こしたようなものさ」
神父はあっさりと応えて、
「だから近づくと危ないよ」
「だからって、ヴェティルを見捨てろっていうの?」
相手は子供であっても疲労感覚のない中毒者だ。ヴェティルが先に力尽きるのは目に見えている。
メテリアは神父の手を振り払う。
「そこでアンタだけ見てなさいよ!」
踵を返すと、部屋へ飛びこむ。
「メテリア様! お下がり下さい!」
メテリアに気を一瞬取られたヴェティルが少年の豪腕に弾かれた。彼はその力に押されて、床に倒れ込む。
「そんな状態で人を気遣うのはやめなさい!」
ヴェティルに駆け寄ると、メテリアは彼から剣を奪い取る。
「こんな剣、扱えないくせに持ち歩かないの!」
メテリアは剣を構える。
少年はメテリアをみとめて少し怯むが、すぐに狂気の激情の押し流されて、標的をメテリアに変えた。
少年の動きは速い。
その俊足に任せて、少年は両腕を振り上げる。メテリアはその瞬間を狙った。
「……ごめんね!」
胴に剣の柄をたたき込んだ。少年はふいをつかれて動きを止め、そのまま床に倒れ込んだ。
倒れてしまえば、少年はごく普通の子供に見える。
メテリアは剣を握りなおした。
今、ここで彼の首をはなてしまわなければ、少年は吸血鬼になる。
剣を持つ手が震えた。
暑くもないのに、頬を汗がつたう。
「お見事お見事」
神父だ。
彼はいつのまにか部屋に入ってきたかと思うと、少年を担ぎ上げた。
「この子は貰っていくよ」
「どうして……!」
「まだ小さいから、更生の道があるんだよ。知り合いに預けてくる」
「そんな、その子は……」
神父は目を細めてメテリアを見遣る。
「一つ、教えておいてあげるよ。俺たちは吸血鬼なんかじゃない。君たちの遠い隣人だ」
「……それ……」
メテリアの父が彼女に言い聞かせたことだ。
彼等は、遠い隣人だ、と。
それきり、神父は姿を消した。