問題
宵闇に迫られて、夕食を作り終えたメテリアは、台所を出たところで小さな手に引き留められた。
エプロンの端を掴んでいるのは、まだ外で遊んでいたはずの少女だった。
「どうしたの? エレナ」
メテリアは驚いていた。少女も昨日の騒ぎを知らないわけではないだろう。
昼間、神父と教会を出た時に初めて大通りを通った時には幾人もの村人に睨みつけられたものだ。彼等がメテリアに襲いかかってこなかったのは、まだ昼間だということと、神父が側に居たからだ。日光の下を吸血鬼が歩けないなどということを、ヒステリー状態の人々に通用する理屈ではないが、神父が側に居たことが功を奏した。
その神父も今は側にいない。
この少女はメテリアを怖がりながらも、頼ってきているのだ。
メテリアは少女と視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「お話してみて」
少女は頷く。小さく深呼吸してから、メテリアの目を見つめてくる。
「あのね、ダイがおかしいの」
「ダイが……?」
メテリアは今日の昼食時間を思い出す。皆が全て平らげる中で、ただ一人今日に限って何も食べなかった少年だ。
「うん。今日のお昼ご飯も食べなかったし、おやつも食べなかったの。それに、雨の日じゃないのにお部屋に入ったまま出てこないんだよ」
外で遊ばないような少年ではなかった。
メテリアの中で何かが符合していく。だが明確な像を結ばず、あやふやな形で残った。
「じゃぁ、エレナ。私と一緒に…」
「大丈夫ですよ、エレナ。ダイは少し疲れているだけですから、そっとしておいてあげましょうね」
少女と一緒にメテリアが見上げると、神父が微笑んでいた。周りには子供を大勢連れているが、彼等はメテリアには近づこうとしない。
「さ、夕食の時間です。皆さん、神様に感謝していただきましょう」
神父は視線だけでメテリアに語りかけてくる。
もう帰れ、というように扉に視線を遣るのだ。
子供達を引き連れて食堂へ向かう神父を見届けてから、メテリアは一人孤児院を後にした。
夕焼けは既に後退していた。
墓地丘陵の向こうから濃密な闇が辺りを浸食し始めており、村を包み込んでいくようだった。
メテリアはこれから通りを一人で歩いて帰る気になれず、墓地の中を歩き出した。
墓石の古さも解らないほどの暗闇となりつつあるのに、メテリアの目は碑文をしっかりと捉えている。
今までにも、感じたことだった。
普通の人であれば、明かり無しでは歩けない道もメテリアは歩くことができる。鮮明な色を持って見えるわけではないが、白黒のきちんとした像が見えるのだ。
ぼんやりと碑文を眺めて歩いていたメテリアの目に、見慣れた名前が飛び込んできた。
それは、まだ真新しい墓石だった。
碑文には、前任の神父の名が刻んである。
メテリアは未だに供える花の絶えない墓石の前に座り込んだ。
「……来るのが遅くなって、すみません。神父様」
良いのだよ、と何処からか聞こえた気がした。
気のせいだとわかっていても、メテリアは俯いて微笑む。
こうして、幼い時からずっと頭を撫でてもらっていたのだ。懐かしさが頬を撫でて、嗚咽が漏れた。
吸血鬼のクオーターという事実を受け入れて、幼い時から見守ってくれていた人だった。
「……ごめんなさい。神父様……」
命の恩人と呼んでも良い人だった。
近所の子供にいじめられた時も、鳥かごのような生活に耐えられなくなって自殺をしかけた時も、いつも側にいてくれた人だ。
いつも与えられてばかりで、とうとう何も返すことができなかった。
突然、病に倒れた神父を看病することも葬式に参列することも、ただメテリアに勇気が無いばかりに何もできなかったのだ。
後悔ばかりが先走り、とうとう今の今まで墓へ赴くことができずにいたのだ。
ふいに、光が差した。
「メテリア様?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、ヴェティルが珍しく目を丸くしてこちらを眺めている。
「どうなさったのですか、こんな夜に……」
彼はランプを地面に置くと、メテリアに手を差し出す。メテリアはその手とヴェティルの顔を見比べて、俯く。
「……ごめんなさい。何か作りに行くって言ってたのにね」
「メテリア様が謝られるようなことをされた覚えはありません」
いつものように生真面目に応えられて、メテリアは苦笑する。そして、差し出されたままだった手にしがみついた。
「神父様はどうなさいました? ご一緒ではないのですか?」
「先に帰れって」
ヴェティルに支えられて立ち上がると、彼は顔をしかめていた。
「吸血鬼が出て、危険だと言ったのはあの方のですよ」
「それもそうね」
さすがに神父が吸血鬼だとは教えられない。
「メテリア様もお気をつけ下さい」
「私が死んで、困る人間はいないわ」
むしろ遺産の配当が増えることを喜ぶ人間が増えるに違いない。
「いいえ。そんなことはありません」
ヴェティルがメテリア越しに何かを見据えた。メテリアも振り返る。
そこには一人の少年が、俯いたまま立っていた。
「メテリア様は誰にでも慕われておいでです」
少年の様子はおかしい。孤児院の子供であれば、真っ直ぐにメテリアを見つめてくるはずだ。
少年が顔をあげた。青白い顔だった。
「ダイ……?」
孤児院でも活発な少年だ。だが、その短い黒髪は乱れ、生気の感じられない表情だというのに、茶色の瞳だけは爛々と輝いている。
「……どうしたの?」
少年は応えない。代わりに不気味なほど口の端を吊り上げて嗤った。
「!」
メテリアは努めて表情を変えないように、少年との距離を目測する。
ざっと大人が十秒はかかる距離がある。
「メテリア……姉ちゃん……。……もう、大丈夫だから……」
少年が微かな声を上げる。
「姉ちゃんを、いじめる悪い女は……もうすぐ、居なくなるから……」
たどたどしい言葉の端に、メテリアは純粋な悪意を見つけて身を引いた。
「メテリア様」
ヴェティルがメテリアを下がらせる。庇うように立つと、少年はヴェティルを睨みつけた。
「……邪魔をするの……? お兄ちゃん……」
その瞬間。
少年の脚が地面から浮いた。蹴るというには凄まじい勢いで、一足飛びにこちらへ向かってきたのだ。
「邪魔を、しないでぇぇぇぇっ!」
「ヴェティル!」
逃げろ、という言葉を発する前に、ヴェティルはメテリアを突き飛ばして、少年の腕を掴んだ。
大の男のヴェティルに捕まれば、普通の子供であれば抵抗できるはずもないが、少年は驚きべきことにヴェティルの腕を逆に振り払った。長身のヴェティルがあっさりと弾き飛ばされ、姿勢を崩す。その隙に少年はメテリアの前に立った。
「お姉ちゃぁぁん……」
少年の赤茶色の瞳は暗く淀んで、光はない。
「ダイ……。まさか……」
メテリアは息を呑む。脳裏に浮かんだのは不吉な推測だった。
そのメテリアの目に、ふとヴェティルが入って、思わず叫ぶ。
「やめて、ヴェティル!」
彼は低く姿勢を構える。一瞬後には、いつもの無表情で少年の背中を一閃したように見えた。
だが、少年はメテリアの声にそれより半瞬早く反応し、空中へ飛び上がると、ヴェティルを凄まじい形相で睨みつけて暗闇へと去っていった。
「……申し訳ありません」
ヴェティルは帯剣を鞘に戻すと、メテリアに向かって一分の隙もなく頭を提げた。
「……何を謝っているの?」
メテリアはヴェティルが墓石の近くに置いたランプを手に取る。
「メテリア様のご意向を無視いたしました」
彼の生真面目さには時々頭が下がる。
「いいの。あの場合は、当然だわ」
「ご処分を」
なおも項垂れたままのヴェティルを眺めて、メテリアは肩を竦めた。
「私の手料理を食べてちょうだい。六歳の頃より上達しているかどうか体感して」