困惑
朝日が睫毛を縫って眠気を覚ましに入り込んできていた。だが、メテリアはそれに抵抗するように目を閉じる。
「メテリア」
普段、こうして人に起こされることはない。
家には一人なのだ。
小さい頃、母に額を撫でられ、優しくその額に口づけられ目覚めた記憶が微かにあるぐらいだ。
ぼんやりとしていた感覚が急に覚醒する。
誰かが、メテリアの額に唇をあてているのだ。それは鼻先を掠めて、甘い香りとともに彼女の唇へと触れる。
寸前でメテリアは頭を引っ込めた。そして力任せに頭を突き出す。
軽いうめき声と共にメテリアの額がじんじんと痛んだ。
「……痛い…」
メテリアは赤く腫れただろう額をさする。
「……痛いのは、こちらなんだけど……」
声がくぐもっているのは口元を手で覆っているからだろう。狙い通りに彼の口元を額は捉えたようだ。
「おはようございます。神父様」
若干の優越感を感じながら、メテリアはくるまっていた毛布から抜け出る。
この狭い部屋はメテリアの家ではない。教会だ。
昨日、神父に連れられて教会へやってきたのだ。目深に帽子を被って外に出たので村人達の顔は見えなかったが、メテリアを見送った彼等の複雑な憎悪は感じられた。
しばらく外に出ることはできない。
これは自宅だろうと同じことなのだが、教会は少し勝手が違う。
神父がいるのだ。
「朝食を作りますから、礼拝堂の掃除でもしていて下さい」
油断のならない彼にベッドを勧められたが、断固拒否して食卓の隅に陣取り徹夜するつもりだったのだが、すっかり寝てしまっていたようだった。それに、寝た時間が遅かったらしく、先程のような洗礼を受けてしまったのだ。
自分のふがいなさを噛み締めて、メテリアは台所へ向かいながらエプロンをつける。
「こういう生活も悪くないねぇ」
礼拝堂へ続くドアの脇に立てかけられているホウキを手にして、神父は悪意のなさそうな冷笑を浮かべる。
「新婚みたいで」
「じゃぁ神父様はそこらへんの草でも食べてて下さい」
「一度で良いからリュークって呼んでくれないかな」
「……豚の解体用の包丁ってここにありましたっけ?」
メテリアは真剣に台所の棚を探し始めると、神父は礼拝堂へそそくさと去っていった。
「……こんな生活が続くなんて……」
うんざりとして、メテリアは野菜を出刃包丁で叩ききった。
朝食を終えてから、教会に来客があった。
「メテリア様。これはどういうことでしょうか」
口数の少ない彼が自分から質問してきたのは、これが初めてだった。
メテリアは苦笑いを浮かべる。それは、この状況があまりにも異常だからだろう。
「ええと……だから、さっき説明した通りなのよ。ヴェティル」
それでも、眼前の若い男は納得がいかないのか頑として表情を変えなかった。鼻筋の通った端正な容貌の男である。一見痩身に見えるが、肢体は引き締まり、表情もそれと相まって凛々しい。一筋の乱れもなく焦げ茶の長めの髪を首の後ろでまとめ、清潔感のある詰め襟の良い仕立ての服をまとった姿は誰が見ても惚れ惚れするものだ。だが、表情のほとんど変わらない蒼の瞳は抜き身の剣に似ていた。
「私がお尋ねしているのは、この教会でお過ごしになることとなった経緯ではありません」
通常、主人に仕える者から質問をすることは禁じられている。それを承知で尋ねてくる彼は、普通ではない。
「どうして、この村からお逃げにならなかったのかをお尋ねしているのです。貴女のお父様は、貴女を拒絶されたりなさいません」
彼が、毎週メテリアに物資を届けてくれる父の使いだった。
小さな頃からメテリアを見ている彼だけに、彼女の心をすぐに読んでくる。
メテリアが言い淀むと、食卓に紅茶が差し出された。
「恐ろしい思いをされたようですので、一時的に私がお嬢様の身柄を預からせて頂いたまでですよ。そう彼女をお責めにならないで下さい」
この上もなく嘘くさい笑みを浮かべて神父はヴェティルに紅茶を差し出し、自分は食卓近くの窓脇に立った。
「ヴェティエル卿がメテリア嬢をお父様の庇護下へ置いて下さるなら、村の人たちも落ち着くことでしょう」
ヴェティルはしばらく神父を見据え、目を細めた。
「吸血鬼が現れた、というのは本当なのですか?」
「ええ。残念なことに。何とか早く見つけてしまいたいのですが……」
憂いを帯びた瞳を伏せる神父をヴェティルは確かめるように見遣る。
「ではまだ見つかっていないのですね」
「はい。申し訳ありません。私の力不足です」
ヴェティルは少し息をついた。
「メテリア様がクオーターだと、何処でお知りになったのですか?」
「派遣先の住居者名簿は必ず目を通しておりますので」
初めて会ったとき、神父がメテリアの名をすらすらと挙げたわけである。だが、小さな村とはいえ数百人分の顔や名前や履歴を覚えるなど並大抵のことではない。
「そうですか」
神父の応えに、ヴェティルはあっさりと頷き、今度はメテリアをその蒼の双眸に捉えた。
「ではメテリア様、私は貴女の家にしばらく滞在いたします」
メテリアは目を剥いた。こんなことは今までにないことだ。
「で、でも、お父様のお仕事が……」
「お父様には貴女様の様子を見てから行動するように仰せつかっております」
それほどメテリアは心細そうに見えるのだろうか。思わず自分の頬をつねってみたくなる。
「……そんなに私、頼りない顔してるの?」
今度はヴェティルが少し目を見開いた。少し口を開いてから、改めてよく透る声を出す。
「いいえ、メテリア様は普段通りです。しかし、吸血鬼が未だ発見されていない事態で私が帰ってしまっては、何か起こった際に対処できません」
メテリアは肩を竦める。生真面目なヴェティルの顔を覗き込んで目を細めた。
「心配?」
「はい」
鉄面皮はぴくりとも動かない。メテリアは眺めるのに飽きて体を起こした。
「私も家に帰りたいんだけど」
「それはなさらない方がよろしいでしょう」
お節介な口を挟んできたのは神父だ。彼はにこやかにメテリアを脅す。
「村の方々と約束しましたから」
違えれば村には居られなくなるぞ、というのだ。
「それでは、私は貴女様の家に待機しておりますので」
話はまとまったとでも言うように、ヴェティルは席を立つ。
「あ、ヴェティル」
メテリアはその後を追って声をかけた。
ゆっくりと振り返るヴェティルに、メテリアは笑いかける。
「あとで食べるもの、作りに行ってあげるわ」
ヴェティルは生真面目に頭を下げた。
「ありがとうございます」
静かに彼がドアの先へと消えると、隣りで神父が大きく背伸びをした。
「なんか、堅物だなぁ」
「ヴェティルはあんな感じよ。ずっと」
メテリアは紅茶をすする。今朝メテリアが煎れて作り置いておいたものだ。神父は自分から進んで台所に立つことなどない。
「でも、ずっと動揺してたよ。憐れな子だね」
見た目は神父よりも若干年上に見えるヴェティルを子供扱いして、彼は肩を竦める。
「ヴェティルが慌てる姿なんて今まで見たことないわよ」
「わかってないな。昨日、吸血鬼が居るってわかって今日や来たんだろ? 相当、急いで来たに決まってるじゃないか。それに俺みたいな神父が側にいるもんだから、慌てる慌てる」
「アンタとヴェティルを一緒にしないでよ」
神父は苦笑する。
「最後の顔なんか傑作だったけど?」
「そろそろ孤児院に行く時間だわ」
メテリアが飲み終えたカップを取ると、神父も窓際から離れた。
「昼か。じゃぁ俺も行くかな」
今日も夏の日差しが燦々と降り注ぐ快晴だ。
「日傘とか、さすの?」
「さしません」
妙なほど自信満々に応えられて、メテリアは神父の生白い顔を見遣って顔をしかめる。日傘もささずにあれだけ白い肌を保てるというのは、吸血鬼以前の問題として腹が立つのだ。
睨むメテリアを尻目に、神父は笑う。
「俺は特別だから」