事件
習慣というものは恐ろしいものだ。
三日以上続ければ人は慣れていく動物だったことをメテリアは実感していた。
屋根裏部屋と言っても過言ではないこの部屋は殺風景だ。
小綺麗ではあるが古びたベッドが一つ、座れば軋む椅子が一つ、そして脚を補強されて使われているテーブルが一つ。壁には本棚があるものの、そこには貸し出し専用の聖書が二十冊ほど置かれているだけで、天井まである棚はほとんど埃を被っている。
「朝よ」
メテリアはベッドの掛け布団の端を掴んだ。そして勢いよく剥ぎ取る。
こうしてようやく顔を現すのは、目の覚めるような麗人である。目を閉じた姿も麗しいことこの上ない。見目も麗しい男の第一声は、
「……もう少し寝かせてくれ……」
この甘い声で囁かれれば、誰もが永遠に寝かせてやろうと血迷うのだろう。だが、メテリアは眉を引くつかせた。
「なに子供みたいなこと言ってるのよ! 起きなさい!」
男の耳元に突き刺すような罵声を浴びせて、メテリアは彼のシャツの裾を掴んだ。
「せっかく作った朝食が覚めるわ! お・き・な・さ・い・よ!」
掴んだシャツをさらに揺すっていると、男はやっと薄目を開ける。
「……あ、ミス・メテリア……」
ぼんやりと長く白い指を自分のシャツを握るメテリアの手に絡めたかと思うと、男は力尽きたように突然項垂れた。
「……僕はもう駄目だ……」
「とか何とか言って、寝惚けないでよ!」
メテリアの声が朝の林に吸い込まれた。
こうして一階の食卓に降りてくるのは、寝惚け眼の男ではなく僧衣姿の神父だ。
「おはよう。ミス・メテリア」
若干眠たげではあるが、しっかりと漆黒の双眸でメテリアを捉える。
「おはようございます。神父様」
テーブルに皿を並べて、メテリアは最後にパンのカゴを置いて、腰に手を当てた。
「今日は野菜スープにスクランブルエッグ、サラダ、パン、コーヒーです」
「ありがとうございます」
世にも珍しいほど麗色を備えた神父は素直に食卓について祈りの言葉を呟いて、パンを手に取った。
メテリアが早々に踵を返すと、
「まぁまぁ。ご一緒にコーヒーでもいかがですか」
結局引き留められて、彼女は神父の向かいに座る。
「……吸血鬼も、普通の食事を摂るのね」
メテリアは自分のカップにポットからコーヒーを注いでテーブルに置く。コーヒーからは緩やかに湯気が上った。
「まぁ、大半の方々は霞を食べて生きてるんだけどね。俺は特別」
神父は優雅な手つきでパンをちぎって、紅唇と呼んでも良い形の整った口へと放り込む。
メテリアが神父の食事の世話をするようになって、五日目を迎えようとしていた。
彼が吸血鬼であるという事実を知ってしまったメテリアに、神父は妙な、彼にとっては切実だった交換条件を出してきたのだ。
メテリアを殺さない代わりに、彼女が神父の食事の世話をすること。 早朝から起き出して教会へ行き、朝食を作って神父を起こす。昼食は孤児院で食べさせて、再び夕食を作りに教会へ向かう。
第一日目からうんざりとしていたメテリアだったが、習慣の成せる技なのか、この生活が日常となりつつあった。
「どうでもいいけど、どうして今まで食事を作ってなかったの?」
驚くべきことに、神父がこの教会に派遣されてきてから二週間弱もの間、彼は花の生気だけで生きていたのだという。
「夏の間は良いけど、冬になったらどうするつもりだったわけ? 草なんて生えないわよ」
冬は一面銀世界だ。目に見える動植物はない。
「教会に礼拝にやって来るお客さんの生気を掠めとる」
神父はナイフでスクランブルエッグを切り分ける。
「吸血鬼って、案外せこいことやってるのね」
メテリアの言葉に、神父はフォークを取り落としそうになった。
「血が欲しいって言って、分けてくれると思う?」
「思わない」
吸血鬼は人類の敵だ。というのが世間様の意見だ。こんなご時世にわざわざ吸血鬼を生かすために献血してくれるようなバカはいないだろう。
「……私が食事を作りにこなかったら、アンタは血を奪いに行ったの?」
「さぁ? 誰しも飢餓状態に陥ったら何をするか解らないから、行ったかもしれないな」
サラダの野菜がフォークを刺されてパキリと音を鳴らした。
「でも、今はミス・メテリアが来てくれているし、大丈夫。行かないよ」
フォークで突き刺した夏茄子を神父はかじる。唇の奥に長い牙を見つけて、その不似合いさ加減にメテリアは苦笑した。吸血鬼が夏茄子をかじる姿など、そうそう見られるものではない。
「だとしたら、ミス・メテリアは村の大恩人になるね。もっと胸を張ってごらん」
大きなことを言ってくれる。
「吸血鬼に脅されて食事作るのが人助け? 誰にだってできるわ」
そんなことで威張れるなら、メテリアを緩やかに排除していこうとする村人と、あの村の少女達同じだ。
「どんなことでも、英雄を気取ってみて良いんだよ。大したことをして無くったって、勇者になれることだってある。それに、君は大したものだよ。俺を目の前にして、平然としていられるんだから」
容姿自慢か。
「おあいにく様。その程度の美形は見慣れてるわ」
幾ら領主の娘だと言っても、吸血鬼のクオーターという娘に付き従おうとする者はいない。ただ一人、一週間に一度やって来る父の使いだけが飽きもせず、辞めもせずに生活用品を届けてくれている。彼がまだ少年だった頃からほとんど会話をすることもない付き合いだが、彼は眼前の神父に負けず劣らない美貌の持ち主だ。
「何だ、やっぱり恋人がいるんじゃないか」
「違うわ。父の使いの人よ」
たったそれだけの交流しか、孤児院に勤めるまでは許されてはいなかったのだ。好意を抱く前に、自分の出生について覚えた。
「怖い者知らずの人。クオーターの娘にわざわざ物資を届けてやろうって言う人よ」
「なら、君も怖い者知らずだな」
神父は静かに野菜スープをすする。
「吸血鬼と一緒にこの食卓へつける肝の太さには感服するよ」
むっとしてメテリアが口を開きかけると、突然ドアが叩かれた。この母屋は礼拝堂とつながっていて、ちょうど打ち鳴らされたのは礼拝堂側のドアだった。
「神父様、神父様!」
切羽詰まった女の声。
その声に聞き覚えを感じて、メテリアは自分のコーヒーを注いだカップを持って台所の棚の陰に隠れた。食卓と台所は一繋がりになっていて部屋で仕切られているわけではないので、隠れきれるものではないが、簡単に身を潜めるぐらいならできる。
神父はメテリアが隠れるのを待ってから、席を立ってドアを開けた。
「どうなさいました? ロッテンリッヒさん」
メテリアに絡んでくる少女達の一人の名だ。だが彼女にいつもの甲高い声を上機嫌に出す覇気がない。
「た、助けて下さい! ジュリエッタが…ジュリエッタが……」
「落ち着きなさい。何があったのですか?」
少女達の仲間のもう一人の名を呼んで錯乱している彼女を落ち着かせるように、神父は至極落ち着いた声だ。優しいが、凛とした声で少女を宥める。
「ゆっくり話してください。ジュリエッタさんがどうなさったのですか?」
嗚咽混じりになった少女はその息を小さく弾ませて息を呑む。
「ジュリエッタが、吸血鬼に襲われたんです」
メテリアは思わず声を上げそうになった。それを辛うじて呑み込んだ。
「ジュリエッタのお母さんが、朝、ジュリエッタを起こしに行ったら、もう冷たくなってて……ベッドのシーツは血まみれで、ジュリエッタの首に牙で血を抜かれた痕があって……」
とうとう少女は泣き出した。
「ロッテンリッヒさん。礼拝堂で少し待っていて下さい。私と一緒にここを出ましょう」
そう宥めて神父は泣きじゃくる少女をドアの外へと追い出す。
「ミス・メテリア。俺が出て行ったらすぐに家へ帰れ。玄関は閂をかけて、家中の窓やドアを閉め切って一番外から遠い部屋に居るんだ。いいね?」
小声で一方的に告げると、神父はすぐに礼拝堂へと向かう。
彼に忠告されるまでもなく、メテリアは家へ帰るつもりだった。
恐れていたことがとうとう起こってしまったのだ。