秘密
老年の神父はクオーターであるメテリアを他の子供と同じように扱った理解ある人だった。村の子供にいじめられれば、慰め、諭してくれた。
彼等は怖いのだ、と。
自分と異なる存在が、怖いのだ。
異なるものを恐れるのは、誰しも持つ防衛本能だ。それを理解し、受け入れることができれば、それは知識となる。
生まれてきてはならないものは、確かにある。だが、それはお前ではないのだ、と。
※
メテリアは裏路地を歩きながら、ぼんやりと遠くに見える空を眺める。
真昼の空は雲を浮かべて、ゆっくりと時を刻んでいる。
今は昼寝の時間で、普段であればのんびりと休憩ができる時間なのだが、今日に限って院長に用事を頼まれてしまった。
腰を痛めて今日も休んでいる老婆の様子を見てこいというのだ。そんなことをわざわざ頼まれることなど一切無いのだが、今日は午後からお客が来るようだった。街から金を持て余した資産家が、憐れな孤児院を視察にやって来るのだ。それは不定期で、いつやって来るか判らない。名目上は、院長が一人で孤児院を切り盛りしていることになっているので、メテリアが居ては援助金交渉の邪魔になるのだ。
老婆の家に尋ねてみたが、いつも変わらず彼女は椅子に座って編み物をしていた。編み上がったらこのマフラーはあげるよ、などと言っていたが、明日になれば忘れているだろう。その老婆に今度は教会に行って聖書を借りてこいと頼まれた。
教会には、あの神父がいる。
午後の礼拝時間には教会へ帰っているはずだ。
それを承知で老婆はメテリアに聖書を借りてこいというのだ。ここで、嫌な顔をすれば孤児院から追い出されるのだろうか、と危険な思想が脳裏をよぎってメテリアは教会に向かっている。
路地裏を抜け、家が少なくなるとその向こうに舗装もない小道が林に続く。
林は昼間でも薄暗く、得体のしれない鳥の鳴き声が響いた。前の神父が居た頃は、こんな心細くなるような雰囲気はなかった。
メテリアは思わず林を見回し、眉根をひそめる。
昼間だというのに空気が冴えている。まるでこの場だけ夜が降ってきているようだ。
彼女は小道をかけだした。湿り気を帯びた道は靴に絡んで、冷えた空気は頬を打つ。
教会が見えてくる頃には、メテリアの手足を冷え切ってその割に体の奥だけは息苦しいほど火照っていた。彼女は少しでも上がりきった息を整えようと、教会の裏手に入った。
ここだけは、林に遮られずに日が当たるので、小さな野原ができていた。踏みだそうとして、顔を上げると野原に人影を見つけて、メテリアは教会の壁の陰に隠れる。
礼拝時間のはずだが、神父が野原でたたずんでいるのだ。
メテリアが覗いていることも気づかないらしく、彼は夏に咲き誇る花々を摘み取っていた。両手に余るほど摘み取ると、そっと口づける。その奇怪な行動は質を伴った。
口づけられた花々が、途端に枯れ始めたのだ。
茶色く濁り、ついには花弁を散らして枯れ草となってしまう。神父の白い指の間から滑り落ちると、跡形もなく、土へと還る。
メテリアは教会の壁に張り付いたまま、壁を背にして俯いた。
花は生気を吸い取られている。
神父の吐息から漏れた花の濃密な香りが思い出されて、メテリアは口を押さえた。
押さえた手が震えて、少しでも気を抜けば倒れ込むか叫び出しそうだ。
あの神父は、
「ミス・メテリア……」
密のように甘い声。
顔を上げると、教会にかかるレリーフの天使のような神父が無表情に立っている。メテリアは駆けだした。
だが、何処へ逃げれば良いのかも判らず、気がつけば、教会の中へ駆け込んでいた。薄暗さの中に埋もれた十字架を見つけて駆け寄ると、振り返る。
神父が天窓を挟んで、メテリアを静かに見つめている。彼は歩き出すと、躊躇もせず天窓の下の陽光をくぐってメテリアの前に立つ。
メテリアは声も出せないまま、十字架の側に置かれた聖水の入った小瓶を手に取る。そして神父に向かって間髪入れずに聖水をぶちまけた。
聖水を頭から浴びた神父はしばらく眼を伏せていたが、やがて濡れた前髪を掻き上げ、メテリアを覆うように見下ろした。
「気は済んだかな」
「っ!」
メテリアは息を詰まらせ、眉根を寄せる。
「吸血鬼なのに……聖水が効かない……!」
引きつった声を上げると、神父は漆黒の眼を細めて唇の端を上げた。
「頭の良い女性は、嫌いじゃないよ」
神父はメテリアの頬に触れる。その手は氷のように冷たい。
「よく判ったね……」
メテリアは後退るが、十字架の台に邪魔されて結局その場に釘付けにされる。神父の白い指は彼女の頬から細い首筋に這った。
吸血鬼は、何も人の血液だけを食料としているわけではない。
彼等は、その気になれば大気からも生気を吸い取ることができる。生気さえ吸い取ることができれば人を殺す必要もないのだが、厄介なことに吸血鬼の好物が人の血なのだ。
「聖水が効かないなんて……」
聖水は、吸血鬼を払うために不可欠なもののはずだった。しかしこの神父は頭から被ろうと平然としている。
メテリアは息を呑んだ。
神父は、吸血鬼にとって天敵であるはずの陽光も効いていない。彼は、日溜まりの中で食事をしていたのだ。
「……貴方は……」
神父はメテリアの顎を捉えて、彼女の怯えた視線を正面から見据えた。
「君を食べたら、美味しいのかな?」
昼時に真剣な表情で神父が見つめてきた理由が、メテリアの中で符合する。
声を無くしたメテリアはぐいと顎を引かれる。
神父の吐息が首筋に淡くかかり、彼女は鳥肌を覚えた。
総毛立つ首筋に、柔らかな感触が噛み付いてくる。
薄皮を通して焼け付くような体温を感じて、メテリアは眼をきつく閉じた。火をつけられた肌に烙印を押す牙の先が触れる。
「……………あれ?」
ほんの寸前である。神父が素っ頓狂な声を上げたかと思うと、首筋から熱が引いた。
眼をあけると、神父が複雑な表情でメテリアを見つめている。
怪訝にメテリアが眉をしかめると、神父も同じように眉根を寄せた。
「……君、もしかして処女?」
メテリアの顔に火がついた。
大声よりも、彼女の手が早い。
うなりを上げて神父の呆けた横面を捉えると、細い手は小気味よい速度で振り抜かれる。
甲高い破裂音が教会に響いた。
「この、変態吸血鬼!」
「……元気だねぇ」
神父は柳眉をわずかにしかめて赤く腫れてきた頬を体温の低い手で冷やすようにさする。
「でも、結婚してなくても恋人の一人や二人いるかと思ってたよ。それを抜きにしてもまさか処…」
「その口、二度と開かなくしてあげるわ!」
メテリアは顔を真っ赤に染めたまま、先程とは反対側をはたき落とそうと再び手を上げる。
「待った」
神父はメテリアの手を反射的に捉える。
「うん。俺が悪かった。でもね、ちょっと話を…」
今度はまだ自由の利く手を上げたが、結局神父に掴み取られてメテリアは両手を広げる形となってしまった。
「……話を聞いてくれないかな」
呆れ調子の神父に視線を合わされて、メテリアは彼を睨みつける。
「……話を聞く体勢じゃないでしょう」
「もう暴力は振るわないと言ってくれるなら放すよ」
「保証はできないわ」
「じゃぁ、駄目だ」
あっさりと拒否されて、メテリアは顔をしかめて視線を逸らす。このままでは、
「暴れるなら、食べてしまった方が早いしね」
メテリアは血の気が引いていくのを感じた。
吸血鬼に血を吸われ尽くせば、メテリアは生きた屍となってこの神父が死ぬまで付き従う羽目になってしまう。
蒼白になったメテリアを、神父は最後通告のように覗き込んでくる。
「どうする?」
最善の選択肢は一つしかなかった。
「……わかったわ。アンタに従うわよ」
メテリアが不機嫌に言い放つと、神父は大きく息を吐いて彼女の腕を放した。
「ああ、助かったぁ……」
それはメテリアの台詞だ。訝るメテリアを尻目に神父は濡れた髪を掻き上げた。
「ありがとう。あのまま君を食べてしまっていたら俺が殺されるところだった」
メテリアが神父に殺されるところだったのだ。
「……何で、私がアンタに礼を言われなくちゃならないのよ」
「規則でね。百歳以下の吸血鬼はお嫁さん貰っちゃ駄目なんだ」
嫁。
誰が、誰の嫁だ。
「…………………どういうことか、詳しく説明してもらえない?」
「俺たちに血を吸われた人間が下僕になるのは知っているね?」
神父は一番近い椅子にもたれかかった。そのまま長い足を組む。
「それは俺たちの仲間になるんじゃなくて、ただの生きる屍であって、違う存在なんだ。じゃぁ、俺たちがどうやって仲間を増やしていると思う?」
血を吸われた人が吸血鬼の下僕になるのは常識だ。しかし、彼等がどうやって繁殖しているのかは問われたことがない。
メテリアが答えに窮すると、神父は肩を竦めた。
「簡単だよ。人間を仲間に迎えるんだ。自分の伴侶として、自分の子供として」
「でも、それじゃぁ新しく仲間になっても、迎えた吸血鬼の下僕じゃない」
「人間でも、結婚するまでは貞操を守る習慣があるだろ? それと同じだよ。処女や童貞は、人間の血を抜いてから俺たちの血を与えると俺たちの仲間になるんだ」
彼等は、人間を人外に変える力を持っている。
メテリアは急に肌寒さを感じて、神父から眼を放した。
「……血を抜き取られたままだったら?」
「当然、死ぬ」
神父にとっては当たり前のこと。だが、メテリアは吐き気を感じて彼を睨んだ。
「やっぱり最低ね! 人を、何だと思っているの!」
人の言葉を話していても、彼はやはり、人の敵である吸血鬼なのだ。
「どう思われようと、これが俺の日常だから」
メテリアの罵声を神父は受け流すように手を振った。
「君は、豚や牛を食べるだろう? 俺たちにとって、人間は彼等と同じ存在なんだ。病気になられれば俺たちが困るし、数が激減してもらっても困る。君たちを無闇に襲って食べてしまっては、最後に困るのは俺たちだ。自分達の仲間を食べるということは、人間が人間を食べる行為だろう? 人間社会では、そういう習慣がある地域もあるらしいけど、衛生上からも倫理的に見ても良い習慣じゃないからね」
酷い理屈だ。だが、メテリアは冴えてきた脳裏を巡らせる。
彼等は豚や牛と同等である人間と一緒に暮らしている。それは、人が豚や牛と一緒に暮らすことと似ている。だが、彼等は人間を自らの仲間に加えるという。
「おかしいわ。その理屈」
メテリアは眼前に神父を捉えた。
「私達は、豚や牛と家族のように暮らすことができるわ。でも本当の家族にはなれない。彼等は私達の家畜として、食料として暮らしているから。アンタ達が人を家畜と呼ぶなら、何故アンタ達はその家畜を本当の家族に迎えることができるの?」
神父は少し目を見開いた。長い睫毛の下から漆黒の瞳が覗いてメテリアを映す。
「面白いね。君は」
そう言って少し笑うと、神父は今まで見せたことのないような柔らかな笑みを美貌に浮かべた。
「……質問の答えは?」
胡散臭さを感じてメテリアは口を歪める。神父は椅子の背もたれに背中を預けて大きく伸びをする。
「そういう難しいこと、よく思いつくよ。論議は別の人としてくれない? それよりさ……」
彼は再びメテリアを見遣って、にっこりと笑む。その笑みにメテリアは只ならぬ作為を感じて身を引く。
「君は食べないから、その代わりお願い聞いてくれないかな」
あくまでも甘い声は拒絶を許さない、ただの強迫だった。




